新人提督と電の日々   作:七音

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新人提督と仮面舞踏会・後編

 

 

 

 

 

 最近、体調ガ良くない。

 船体の整備は万全だし、連続出撃もしていないから、疲労が溜まっている訳でもない……と、思う。

 なのに、全身が怠くて、お腹の辺リが重く感る。

 普通の女の人は、こんな症状ニ悩む事があるって聞いたけど、わたしたちにそんなのあり得ないし……。

 

 頭がもやもやする。何か、重大な変化ヲ見逃している気がするのに、何も考えられない。

 けど頑張らなくちャ。

 明日には、あの人と、わたしたち姉妹が主役の、大事な演習が待ッてる。

 それが終わったら、きっとわたしは――

 

 

 出典不明。

 誰か、少女の日記と思われるが、これ以降の記載は何もない。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「どうぞ、お掛け下さい」

 

 

 ボーイソプラノへ戻った桐谷提督に導かれたのは、煌々と照らされるパーティー会場と違い、落ち着いた灯りの点る部屋だった。

 歩いてきた感覚が確かなら、左右対称な迎賓館の二階中央。

 元々の構造は知らないが、今では貴賓室が置かれている場所である。

 一目で高級と分かるのに、決して主張し過ぎない家具類。何やらジュークボックスらしき機械まで置いてあり、静かにジャズを流している。

 掛けられた絵は、二十一世紀を代表する近代画家の油絵……かも知れない。よく分かりません。

 足元から天井にまで届く大きな窓の向こうに、遥かな東京の夜景が見えた。

 

 

「少しお待ちを。今、飲み物を用意しましょう」

 

「あ、電もお手伝いを……」

 

「いいえ、結構です。こういう仕事はホストの役割ですので」

 

 

 部屋の中央より、少し窓際に近いソファセットを示しつつ、桐谷提督がボトルの並べられたラックを探る。

 その間に、やんわりと断られた電、眞理ちゃんを伴い、自分は柔らかな牛皮へ腰を下ろした。仮面も外してテーブルの上へ。

 ……凄いな、これ。座り心地が良くって、逆に落ち着かないや。

 

 

「コニャックのストレート……で、宜しかったでしょうか? 桐林殿は酒豪との噂ですから、口に合うかどうか」

 

「い、いえっ。勿体無いくらいです……」

 

「電さんは、ソフトドリンクとアルコール、どちらが?」

 

「え? えっと……。お、お酒をお願いします、なのです!」

 

「では、ポートワインの赤を」

 

「わたしも、ワイン飲んでみたい……」

 

「貴方は林檎ジュースです」

 

「んー」

 

 

 格調高いテーブルの上に、深い琥珀色の液体が置かれる。ちょっと背伸びをした電にも、小さめのワイングラスが。

 さらに隣の眞理ちゃんには、流石にアルコールを飲ませられるはずがなく。ムスッとしながら、両手でコップを持つ姿が微笑ましい。

 

 

「……っ! 美味い……!」

 

「ふふ。気に入って頂けたなら、なによりです」

 

 

 目礼し、グラスをわずかに傾ければ、ブランデー独特の強い香りが鼻に抜けた。

 強いと言っても、キツく感じるわけではない。恐ろしく深い広がりの中に、わずかな甘さや香ばしさも感じる。

 間違いなく最高級。本物のコニャック。思わず感動してしまう。

 桐谷提督は誇らしげな顔だ。ひょっとすると、彼のコレクションだったり……? 後で高額な請求されないよう祈っとこ。

 ちなみに電さん、それっぽくワイングラスを回したり、匂いを嗅いだりしているが、明らかに挙動不審である。

 一口飲むのに「なのです!」って気合い入れる程なら、無理しなきゃ良いのに。

 でもそこが可愛くて堪りません。

 

 

「パーティーは如何でしたか? 桐ヶ森さんと歩いていたようですが」

 

「あ、はい。……正直、疲れました。こういう場には向いてない、みたいです」

 

「そうですか。まぁ、向き不向きがあるとは思いますが、慣れなければ大変ですよ。

 桐林殿。貴方にはこれから、もっと前面に立って頂く事になるのですから」

 

 

 甲高い声で意識を引き戻され、苦笑いと一緒に溜め息をこぼすと、桐谷提督は奇妙な事を言い出した。

 前面に立つ……? 能力者なんだから、常に前線には出てるようなもんだけど……。そういう意味じゃない、よな。という事は……。

 訝る視線を向ければ、巨体が対面へ腰を下ろす。ソファを軋ませ、彼は自らの膝の上に肘を置く。

 

 

「第二次ツクモ艦侵攻の情報公開、ご存知ですね」

 

「はい。基本的には大勝利と」

 

 

 とかく、秘密主義に傾きがちな日本の海軍だが、対 双胴棲姫戦に関しての情報公開は早かった。迅速な対応と言っても良いだろう。当然、加工されている。

 細かな戦闘経過の誤魔化しはもちろん、敵 統制人格の存在や、自分と桐ヶ森提督への侵食も、情報封鎖されていた。

 条約的な制限により、ドイツには未加工の情報が渡っているだろうが、それもシュトゥーカを使用した間だけ。極めて重要だが、断片的でもある。

 今現在、深海棲艦と最も深く切り結んだのは日本。他国を出し抜いているようなものだった。

 これだけの要素が重なれば、ある程度戦果を知らしめた方が、かえって腹を探られない結果に落ち着くはず。

 疑り深い連中については、何をしても最終的に疑うのだから、いつもの通り……らしい。詳しくは知らない方が身の為だろう。

 

 

「では、その立役者とされているのは誰でしたか」

 

「……自分。いえ、自分たち、でした。過大評価ですよね。間桐提督や桐ヶ森提督が居なければ、絶対に勝てなかったのに」

 

 

 そして、戦いの中核を担う役割――役得を与えられたのが、自分と、その統制人格。

 流動する戦いを前に、冷静さを失わず、果敢に戦い続けた乙女と、彼女たちを欠ける事なく帰還させた司令官……という具合だ。

 確かに、最大戦力を投じたのは自分の艦隊だろう。しかしそれも、間桐・桐ヶ森 両提督の力添えあってこそ。

 だというのに、自分たちだけで戦場を支配したような、そんな誤解をさせる公開文だった。どうにも、腑に落ちない。

 

 

「私は順当な評価だと思いますよ。あの戦い、間違いなく要は貴方だった」

 

 

 けれど、桐谷提督は笑顔を崩さぬまま。

 予想外な賞賛の言葉に、こちらは虚を突かれる。

 

 

「貴方と貴方の船を、一つの戦力として考えれば当然ですよ。

 精度は間桐殿に劣るものの、施行数で補える戦艦層の厚み。

 これまた桐ヶ森提督には劣るものの、文字通り数で圧倒できる空母たち。

 そしてなにより、それらを同時に運用できる統率力。水雷戦隊を含めれば、これは私を凌駕しているでしょう。

 貴方という能力者は、一人で現行の“桐”、全ての要素を持ち得ている、とも言えるんです」

 

 

 ……いや。賞賛よりも、絶賛と言った方が正しいか。

 穏やかな笑顔と語り口は、それを真実だと思い込ませる、重い説得力があった。

 だからこそ、わずかに顰められる眉と、ゆっくり横へ振られた首が気に掛かる。

 

 

「しかし、それゆえ残念に思う部分もあります。貴方には決定的に足りない素養がある」

 

「足りない素養、ですか」

 

 

 細い目がより細くなり、つかの間、巨体は押し黙る。

 同じタイミングで奏でられていた曲が終わり、沈黙が息苦しい。

 再開される演奏も、虚しく感じるだけだった。

 

 

「申し訳ありません。電さん、その子をお願いできますか」

 

「……あ。わ、分かりました、なのです。眞理ちゃん、綾取りって知ってますか?」

 

「ううん、知らない」

 

 

 自分と、電。どちらにも気を遣ってくれたのだろう。眞理ちゃんを電が連れ出し、男二人の差し向かいとなった。

 豪奢な部屋の片隅で、古式ゆかしい手遊びに興じる娘たち。

 自然と頬も緩むが、桐谷提督の笑みは、どこか硬質さを帯びる。

 

 

「老婆心ながら、忠告します。捨てる勇気をお持ちなさい。今のままでは、いずれ心が先に死ぬ」

 

 

 その硬さは、彼の声にも伝染していく。

 内容は言わずもがな。実にらしい……“梵鐘”の理屈。

 

 

「電たちを、使い捨てにしろと。そう言いたいんですか。……あなたのように」

 

「違いますよ。違うんです。そういう事を言いたいのではないんですが……。難しいですねぇ、対話というものは」

 

 

 気圧されぬよう、自分も心に鎧をまとい、桐谷“少将”と相対する。

 が、思いの外、その表情は簡単に崩れ始めた。

 後悔。迷い。戸惑い。

 笑顔は笑顔だけれど、初めて見る類の……苦笑いだった。

 

 

「聞かせて下さい。どうして桐谷提督は、傀儡艦を――統制人格を捨て駒に出来るんですか」

 

 

 どうしてだか、それが彼の素に見えて。

 普段なら出来そうにない問いかけが、口をついていた。

 

 

「簡単です。そう努力しているからですよ。あえて雑に扱っているだけです。貴方もそうしろと教えを説かれたでしょう」

 

「……どうして。人と同じ姿をしていて、時間は掛かっても、心を通わせる事だって可能なのにっ」

 

 

 思わず、詰め寄るように身を乗り出し、桐谷提督の手で制す仕草に、ハッとする。

 電と眞理ちゃんが、それとなくこちらを伺っていた。

 ……気遣い、無駄にしてしまった。けど、これだけはどうしても。

 そんな気持ちを汲んでくれたようで、彼は笑みを戻しながら、真摯な一言で答えてくれた。

 

 

「愛してしまうから、です」

 

 

 ――の、だが。

 単純なはずの言葉を噛み砕くのに、自分は十数秒の時間を掛けてしまっていた。

 愛してしまう。

 誰が。桐谷提督が。

 誰を。……統制人格、を?

 

 

「ははは。驚く事はないでしょう。愛人を六人も囲う男なんです、ある意味当然では?」

 

「そ、そりゃあそうかも知れませんけど……って違う! じ、自分はそんなこと微塵も……」

 

「正直な人だ。だからこそ好ましいんですが。誤解されがちですけれど、私は妻以外の女性を知りません。それに、恋愛結婚です」

 

「……初めて、知りました」

 

 

 口を濁しまくっていると、またもや驚天動地の新事実が。

 世界でも指折りの資産家である千条寺家。その系譜は、連綿と続く政略結婚によって成り立っており、歴代の当主はむしろ、この事実を誇らしげに語っているという。

 調べた限りでは、桐谷提督――千条寺 優介も、政略結婚の末に産まれた内の一人。

 妻以外を知らない……。五人も娘が居るはずなのに、愛人たちと関係を持っていないという事も含め、どういうカラクリなんだろう……?

 

 

「妻は、ある病で子供を産めない身体になりましてね。どれだけ医療が進歩しても、届かない位置にありました。

 しかし、千条寺家の血族は絶対に必要。私の愛人とされている女性たちは皆、代理母なんですよ。

 一度しか会わなかった方も、処女のまま子供を産んだ方も居ます」

 

 

 こちらから尋ねる前に、夕飯の献立を話すような気安さで、桐谷提督は語る。

 最早、どう驚いていいかすら分からないけれど、さっそく謎の一つが解けた。

 過去には違法とされる場合もあった代理出産だが、現在では法整備も行われ、一般でも稀に行われる行為だ。

 感情的な問題が発生する率は高いものの、それを“力”で抑え込める層では、ごく当たり前に行われると聞く。

 桐谷提督の愛人たちは、多額の報酬や千条寺家とのコネクションを求め、自らの胎を使ったのだろう。

 ……あまり好ましいと思えないが、それは個人的な感情。胸に留めなければ。

 

 

「ですが、それが良くなかった」

 

 

 その間にも話は進む。

 顔を伏せ、憂いを感じさせる声が、かすかに震える。

 

 

「……妻は、優しい女性でした。ええ、“こちら側”で生きていくには、優し過ぎるほど。

 ゆっくりと心を病んでいく彼女に、私はまた気付けなかった。

 結果、妻の脳には障害が残り、瞳は何も映さず、心は少女の頃を繰り返すようになりました」

 

 

 発言から察するに、桐谷提督とその奥さんには、身分の差があると思われた。

 市井で育った女性が、大富豪の御曹司と結ばれる。まさしく玉の輿に乗った、誰からも羨まれる人生だろう。

 そこで終わってしまえば、ハッピーエンドの物語だ。けれど、現実の結末は――おそらくだが、自殺未遂。

 何も言えなかった。

 ただただ、唖然と口を噤むしか。

 

 

「この声はね、彼女と出会った頃の、私自身の声なんですよ」

 

「……それって」

 

「はい。手術をして無理に出しているんです。妻と話す為だけに」

 

 

 そんな自分に対し、彼は喉をさすりながら、また笑う。

 見せ付けられているように感じた。これが私の愛だ、と。

 愛してしまうから……という言葉は、嘘じゃないのかも知れない。

 

 

「私は情が深いんです。一度愛してしまえば、大切にせずいられない。貴方のように、愛しながら戦いへ送り出すなどと、残酷なことはできません」

 

「……残酷? 自分、が?」

 

「違うといえますか。寝食を共にし、信頼を積み上げた上で、終わりのない戦場へ送り出す行為は、非道ではありませんか」

 

 

 しかし、次に突き付けられたのは、矛盾。

 妻と言葉を交わすためだけに、己の身体へメスを入れる人物が、愛することは残酷だという。

 また、何も言えない。

 心のどこかで自覚していたからだ。みんなを大切と思いながら、結局は戦わせるしかない、畜生のような自分を。

 桐谷提督の言っていることは、正論だった。

 

 

「だったら、最初から愛さなければ良い。ただ消耗品として扱い、ただ使い潰せば良い。

 そうする事で今の地位を維持し、妻と家族を守れるのであれば、私は喜んでやりましょう」

 

 

 愛するものを守るためなら、鬼にでも修羅にでも。

 人として。男として。親として。

 間違っているとは思えない在り方。

 誰もが選べはしない、そんな在り方。

 

 

「ですが、貴方は最初の一歩を間違えた。

 電さんを心から大事に扱い、慈しみ、支え合っている。もはや手遅れだ。

 でも、いつか必ず来るんです。切って捨てなければならなくなる時が。

 それが誰であろうと、貴方は傷付くでしょう。ましてやそれが電さんだったなら……」

 

 

 かぶりを振るその姿は、苦汁に塗れ、疲れ果てている様にも見える。

 背筋を伸ばした彼の表情が――見られるとは思っていなかった“無表情”が、それを裏付けた。

 

 

「なればこそ、貴方は捨てる勇気を持たねばならない。

 両手で抱えきれない物を持とうとすれば、その重さに潰されてしまうでしょう。

 徒らに荷物を増やすのは、愚か者のすることですよ」

 

 

 ようするに、心から大切に想うものがあるなら、それ以外を愛してはいけない。

 大切なものを守るための“道具”すら愛してしまうなんて、キリがない、と。桐谷提督はこう言いたいのだろう。

 これもまた、正論だ。

 正しくて、強くて。けれど――

 

 

「ありがとうございます、桐谷提督。自分のような若輩を案じて頂けること、有り難いと思います」

 

「ご納得頂けましたか」

 

「いいえ。理解はしましたが、納得はできません」

 

 

 ――決して、自分には受け入れられない在り方だ。

 

 

「桐谷提督の言う通り、自分は非道な人間かも知れません。

 彼女たちを大切と思いながら、戦う事を強いているんですから。

 でも、だからと言って道具と切り捨てるのは、逃げているだけではありませんか」

 

「……逃げ?」

 

 

 真っ向からの反論に、桐谷提督は眉をひそめつつも、また笑顔へ。

 幾分、迫力を増したそれに負けぬよう、自分は腹に力を込めて続ける。

 

 

「向き合う事が怖くて、失う事が怖くて。だから必要ないと跳ね除ける。それじゃあ何も持てませんよ。

 いずれ失うからと捨てるなら、何もかもを捨てなければならなくなる。何も得られやしない。おかしいですよ、そんなの」

 

 

 人はいずれ死ぬ。形あるものは必ず失われる。時の流れだって、いつか崩れ去ってしまうかも知れない。

 最終的に無となるなら、産まれた意味は何処にあるのか。

 自分には分からないけれど、確信を持って言えることが一つ。

 行く先に悲しみが待っていたとしても、この気持ちを捨てたりはしない、ということ。

 

 

「……それは、貴方が喪失を知らないから言えるんです。

 積み上げた信頼を、育んだ親愛を、一瞬で失った事が無いから。

 そんなもの、子供の虚勢にすら劣る」

 

「でしょうね。自分はまだ、親類の死すら経験していません。

 動物の死くらいは目の当たりにした事がありますけど、本当の意味で失った事が無い。

 桐谷提督の言う、愚か者ですね」

 

 

 細く睨みつける瞳に、嘲笑が浮かんだ。

 経験した事のない痛みを耐えられると、声高に叫ぶ。

 実際、強がりと取られても仕方ない。

 電を亡くしたら。金剛を亡くしたら。赤城を亡くしたら。

 自分の心は、きっと……。

 

 

「ですが、傷付くのを恐れて誰も想えないなら、死んでいるのと同じです。

 誰かを大切に想う気持ちは、生き抜く力になる。どんな苦境も耐え抜く力に。

 奥様を愛していらっしゃる桐谷提督なら、否定できないはずですよ」

 

 

 それでも、間違いだなんて思いたくない。

 笑顔を思い出すだけで、胸が暖かくなる。

 つい、今日は何を話そうかと考えてしまう。

 側に居れば、寂しさを感じる暇なんかありゃしない。

 この想いこそが、“桐林”という男を形作る、第一要素なのだと思うから。

 

 

「後悔しますよ。その道は荊の道だ。転ぶ事すらできない道だ。

 全身血塗れになってなお、歩き続けなければならなくなってしまう。その上で……?」

 

 

 問いかけには、無言で胸を張る。

 たとえ傷だらけになろうと、痛みに立ち尽くすことがあろうと、逃げはしない。

 それが、彼女たちをこの時代へ呼んだ男の、責任の取り方だ。

 

 

「見かけによらず頑固ですねぇ。予想はしていましたが」

 

 

 桐谷提督は大きく溜め息をつき、ソファへ身体を預ける。

 呆れ果てたようでいて、どこか満足気な、そんな微笑みを浮かべて。

 

 

「すみません。でも、本当に嬉しく思ってます。桐谷提督からは、良く思われていないとばかり……」

 

「そんなことありませんよ。私自身が歪んでいるのは確かですが、一般的な倫理観に基づいた判断くらいできますし。

 その観点からすれば、貴方は間違いなく善人だ。評価に値します。

 色々と口出ししましたが、貴方の人生。ご随意に為さるが良いでしょう。願わくば、その上で長生きして下さい」

 

「自分としてもそうしたいです」

 

 

 二人分のグラスが持ち上がり、乾杯するように空中で傾く。

 愛する“もの”のために他の全てを使う桐谷提督と、ただ消費すべき“もの”を愛してしまった自分。

 きっとこれからも、相容れることは無いだろう。

 だが、根底にあるのが同じ感情であると知った今、以前ほどの反感は抱かなかった。

 彼と対話した事で、むしろ腹が決まった感じもある。

 

 正しいものから、正しいものが生まれるとは限らない。

 正しいものしか、正しいものを生めない訳じゃない。

 間違っても良かったんだと、そう思える結末だってあるかも知れないのだ。

 自分らしく行こう。この命が、果てる時まで。

 

 

「さて……。パーティーの主賓が“二人とも”抜け出ては、騒ぎになります。私は戻りましょう」

 

「なら、自分も……二人?」

 

 

 空になったグラスを置き、桐谷提督はやおら立ち上がる。

 それに続こうと立ち上がって、はたと、彼が妙な言い回しをしたのに気づく。

 主賓が二人とも? 主催者は桐谷提督で、招かれた“桐”は自分と、もう一人。しかし彼女はここに居ない。

 どういう事かと尋ねる前に、閉め切られていたはずのドアが開き、白いドレス姿の少女が入ってきた。

 ズカズカ、不機嫌そうな足取りの彼女は、顔に付けていた仮面を外しながら、「ふん」と鼻を鳴らす。

 

 

「最初から気付いてたってわけ。相変わらず食えないわね」

 

「おや。盗み聞きが趣味の女性に言われたくはありません」

 

「仕方ないでしょ!? どっかのバカがいつまで経っても戻ってこないから、虫がワンサカ……っ」

 

 

 少女――桐ヶ森提督が、身を庇うように自身を抱きしめる。

 確かめてみれば、パーティー会場を抜け出してから、結構な時間が経っていた。

 彼女がフリーになったと見て、アタックをかける男が出ても不思議じゃない。で、嫌になって会場を抜け出し、ここに辿り着いた、と。

 盗み聞き……って事は、かなり前からドアの向こうで、空気を読みつつ待機してたんですか? 律儀っすね。

 階段のとこの警備員さんも、“桐”が相手じゃ、通すしかなかったんだろうなぁ。にしたって、あの会話を聞かれてたっていうのは、なんだか恥ずかしい……。

 

 

「ですから、お二人はここで休憩なさって下さい。終わりが近くなれば内線を繋ぎますので。娘をお願いします。飲み物はご自由に。では」

 

 

 ともあれ、プリプリ怒っている少女をなだめながら、桐谷提督は部屋を退出した。

 数秒、嫌な沈黙があった後、白いドレスの裾が、またズカズカと動き出す。

 ……後を追おう、一応。

 

 

「これ、貰うわよ」

 

「えっ。あ、あの、それはワインなのですっ。桐ヶ森さんは、未成年じゃ……」

 

「脱法ロリは黙ってなさい。んっく」

 

「……? 桐林てーとく。だっぽーろり、ってなぁに?」

 

「眞理ちゃんが知るのはまだ早いかなー。あとでお父さんに聞いてごらーん」

 

 

 電から飲みかけのポートワインを奪い、仮面を投げ捨てて一飲みに煽る桐ヶ森提督。

 色々と問題のある光景だが、雰囲気的に飲み慣れているようだ。

 誰が見ている訳でもなし。大目に見よう。あ、性教育はお父様にお任せします。

 

 

「……っぷぁ。ふぅ、美味し。これ、アイツのコレクションなんでしょ? 酒の趣味は良いのよね、桐谷」

 

「確かに。本物のコニャックなんて、初めて飲みました」

 

「はい。電も初めてでしたけど、甘くて美味しかったのです」

 

「本当に? 飲み慣れてないとキツいはずだけど」

 

「……ごめんなさい。本当は喉が熱くなって、あんまり……」

 

「はははっ。まぁ、初めてなんだからそんな物さ。自分も最初は好きになれなかったしな」

 

「だっぽーろりは、お酒飲める。うん、覚えた」

 

『忘れなさい』

 

「ぁ、あはは……」

 

 

 幼子のズレた認識に、ツッコミが重なった。電も堪らず苦笑いである。

 桐ヶ森提督ー。変な言葉を覚えさせた責任、取っといた方が良いですよー。

 純真無垢な女の子が、小首を傾げながら大人の階段登っちゃいますよー。

 ……と、和やかな空気はここまで。再びの沈黙に、話題は桐谷提督の事へと変化した。

 

 

「桐谷の事情なんて、初めて聞いたわ」

 

「……はい。驚き、でした」

 

「電は、とても優しい人、だと思います。優しいから突き放すしかない、とても不器用な……」

 

「うん。お父様、優しいよ。ちょっと変な所あるし、沢山お稽古させられて嫌だけど、でも優しいよ?」

 

 

 やはり、離れていても聞こえていたのだろう。

 眞理ちゃんは無邪気に父親を慕い、電も切ない表情を浮かべる。

 優しいはずの人間が、それに似合わぬ行為をする時。それは多分、誰かを守りたい時なのだ。

 彼は言った。このままでは、心が先に死ぬと。

 きっと、自分にだけ向けたのではなく、彼自身にも向けられた言葉だと思った。

 誰かを守りたいのなら、まずは自分自身を守れなければ。だから……。

 

 

「ごめんなさい。ちょっとコイツ借りるわね」

 

「へ? ちょ!?」

 

「な、なのですっ?」

 

 

 不意に腕を引っ張られ、自分は桐ヶ森提督とテラスへ向かわされる。

 少々手狭だが、迎賓館の裏庭に面しており、ライトアップされたクローバー型の噴水が見える。夜景を眺めるには最高だった。

 そんな中、彼女はぶっきらぼうに右手を差し出す。

 

 

「ん」

 

「……は?」

 

「……さっさと踊りに誘いなさいよ! 鈍いわねっ」

 

 

 えええええ。

 こ、この状況でダンスですか? まぁ確かに、音楽はジュークボックスから流れ続けてる。

 曲はジャズから変わってクラシックに。ええと……ショパンの、別れの曲……だったかな。踊ろうとすれば踊れるだろう。

 電磁スクリーンがあるから、狙撃も、パパラッチに覗かれる心配もない。ないって言っても、電がすぐそこに居るしなぁ。

 う~ん……。出来ればお断りし――あ、ごめんなさい誘いますからメンチ切らないで。

 

 

「い、一曲、お願いできますか?」

 

「……はぁ。三十点。こういう時くらい気取りなさい。けどいいわ、踊ってあげる」

 

「……どうも」

 

 

 誘えって言った癖になんだその言い草。ふざけんなよ美少女め。体温と匂いを脳裏に焼き付けんぞコラ!

 とか胸の内で叫びつつ、差し出された小さな手と、自分の左手を絡ませた。

 みんなとのダンスは上手くいったけど、気を抜かないよう注意しなきゃ……。足踏んだら殺されそう。

 

 

「人が戦う理由って、色々ね」

 

「そうですね……。自分なんか、流されてるだけですから」

 

「私もよ。流されて、流され続けて、ここまで来ちゃった」

 

 

 かすかに聞こえるリズムを頼りに、ステップを踏み始めて数分。

 彼女は静かな声で囁き始める。

 

 

「桐生のこともね、よくは知らないの。

 同時に軍に入って、ほぼ同時に“桐”を授かって、次世代の双璧と期待されて。

 最初は呉で一緒してたし、あわよくば私生活まで……なんて噂されてたのに。

 本が好きで、偉人マニアで、その格言ばっかり引用する、寝坊助のバカだって事しか」

 

 

 思い出を語るその顔は、楽しそうでありながら、寂しげに見えた。

 戦いに倒れた同期。

 出会って間もなく、関係性の薄かった自分でもショックを受けたというのに、それが真に戦友と呼ぶべきであったなら……。

 碧い瞳と、視線が重なる。

 

 

「アンタさ、言ったわよね。あの報告の時、“あの子”に会ったって」

 

「……はい。言いました」

 

「本当に一人だった? それとも……」

 

 

 桐ヶ森提督の言う“あの子”とは、間違いなく双胴棲姫の事だろう。

 あれからよくよく考えてみたが、自分と彼女が受けた侵食には時間差がある。

 ひょっとすると、自分の後に双胴棲姫は桐ヶ森提督の方へ向かった可能性も……。

 しかし、そうではないと俯き加減の表情が告げていた。

 

 

「桐ヶ森提督。あなたはあの時、本当は誰と会ったんですか」

 

 

 核心を突く問いに、ステップは止まる。

 冷たい風が音楽をかき消し、空気も緊張感を孕む。

 彼女の肩越しに見える室内では、電たちまで固唾を飲んで見守っていた。

 

 

「……私は、あの時。十万億――っ!?」

 

 

 長い逡巡の後、何かを語ろうとした桐ヶ森提督だったが、唐突に言葉が途切れてしまう。

 訝しげに眉をひそめたかと思いきや、今度は目を剥いて驚く彼女。

 ペアを組んでいた手が離れ、細い指がこちらの首にかかり――

 

 

「んがっ!?」

 

「し、司令官さん!?」

 

「ゴスン、っていった……」

 

 

 ――思いっきり引き寄せられた。当然、おデコとおデコはゴッツンコ。

 よほど力を込めているのか、額が密着したまま離れない。

 くぉおおぉぉぉ……。脳が、脳がグラグラとぉおぉぉ……。

 

 

「な、何すんですかいきな――」

 

『黙れバカ! 盗聴されてるわよアンタ!』

 

「……え?」

 

 

 超至近距離の怒声に、しかし鼓膜は揺れていない。

 痛みで混乱しているのかと思ったが、触れ合う皮膚から情報が伝わる。

 テレパシー。触れ合った能力者同士でしか通じない。

 盗聴器。肩に張り付いた布当て型の。軍用。

 驚く暇も無いまま、脳にはまた声が。

 

 

『手短に伝えるわ。私は十万億土で……桐生と会った』

 

 

 その瞬間、世界から音が消えた。

 代わりに、自身の酷く鼓動が耳障りに聞こえ、瞳孔も収縮しているのを感じる。

 桐生提督と、会った。十万億土で。

 驚愕すべきだろう。未だ眠り続けているはずの彼が、恐らくは敵が干渉する領域に居たのだから。

 しかし、心のどこかで“やはり”とも思ってしまった。

 

 

(やっぱり、あの伝言は桐生提督からの……)

 

 

 双胴棲姫が言った、「失楽園はまやかし也」、という言葉。

 そんなものを受け取る理由なんて、自分の知る限りでは無い。ならば、あちら側に送る理由があったということ。

 一体、どんな状況に置かれているのか。なぜ伝言を頼むことが出来たのか。

 得心はいったが、疑問ばかりが増えていく。

 

 

『何も聞かないでね。私にだって何がなんだか分からないんだから。

 けど、アイツはこう言い残した。……悪魔の最も偉大な知恵、って。

 それは、自らを存在しないと思い込ませた事よ』

 

 

 同じ心持ちなのか、桐ヶ森提督は浮かない表情だった。

 悪魔の最も偉大な知恵。

 存在しないと思い込ませたのなら、存在しないとされている物が、本当はある?

 伝言と合わせて考えると……。かつて人間が追放されたとされる楽園――エデンの園は実在するって言うのか。

 十万億土を体験した今では、笑えない冗談だ。

 

 

「どういう、意味なんでしょうか」

 

「さぁね。それが分かれば苦労しないわよ。受け売りで知ってただけだもの」

 

 

 触れ合っていた額が離れ、心で繋がっていた感覚も途切れる。

 耳に聞こえるようになった声は、寂しそうな色を宿す。

 多分、桐生提督の薀蓄で知っていたんだろう。

 同期の二人であれば分かる言葉で、彼は何かを伝えようとした。

 思惑は分からないものの、しっかりと考えなければ。

 

 

「戻りましょう。そろそろ冷えるわ」

 

 

 名残惜しさを振り切るように、桐ヶ森提督は大きく背伸びをし、貴賓室へ歩き出す。

 後を追うと、彼女はどこからかメモ帳を取り出す。

 

 逆探知。アンタはそのまま。埋め合わせしときなさい。

 

 何気なく見せられたそれには、こう書かれていた。

 ええと……。盗聴電波の逆探をするから、この部屋から出るな、っていう事だよな。

 でも、埋め合わせってのはなんの事だ?

 

 

「私、会場に戻るから。眞理ちゃん、お父さんの所へ行きましょう」

 

「うん。桐林てーとく、さようなら」

 

 

 尋ねる暇もなく、二人の少女は手を繋いで退室する。去り際、眞理ちゃんはこちらに会釈をくれた。

 室内に残されたのは自分と電。

 二人、だけ。

 ……あれ? なんか急に、恥ずかしいような、くすぐったいような、変な気分になってきた。

 とりあえず、どっかの不埒者が聴いてるのは確かなんだから、当たり障りのない事だけを話さないと……。

 

 

「司令官さん。ダンス、お上手だったのです」

 

「あ、あぁ、練習したからな。ここまでになるのが大変――あ゛っ」

 

 

 早速ぬかった。うっかり正直に答えちゃった。電には踊れないの秘密だったのに!?

 

 

「やっぱり。前に言いましたよね? 嘘をついてもすぐ分かるって」

 

「じゃあ、雷たちと特訓してたのも……」

 

「なのですっ」

 

「……参った、降参」

 

 

 クスクスと笑い、立ち上がった電が隣へ並ぶ。

 どうやら、最初からバレていたらしい。

 本当に、敵わないな。

 

 

「他のみんなは、パーティーを楽しんでましたか?」

 

「んー。ぼちぼち、かな。隼鷹とかは全力で楽しんでたけど」

 

「ぁはは、眼に浮かぶのです」

 

 

 風が吹き込む大窓を閉じ、防弾ガラス越しの夜景を二人で眺める。

 建物全体を薄く覆っている電磁スクリーンは、外側からの視界に揺らぎを発生させ、高速通過物に反応する。

 光学銃の無効化は元より、ライフル弾なら消し炭に、対物ライフルの弾道も捻じ曲げる代物だが、内側からの視界は極めて良好だ。

 科学の進歩ってのは凄い……なんて感慨深く思っていると、不意に電はモジモジし始めた。

 

 

「ぁ、の……。司令官さん、は。もう、みんなと……」

 

「ん?」

 

「……や、やっぱりなんでもないのです! 忘れて、下さい」

 

 

 上目遣いの視線は、慌てる両手で遮られ、そのまま絨毯へ落ちる。

 ……そっか。埋め合わせって、この子に対してか。

 他のみんなとは一通りペアを組んだが、パーティーの半ばから眞理ちゃんの相手をさせられた電とだけは、まだ踊れていない。

 もうしばらくすれば、会場へと戻らなくちゃいけなくなる。そうなったらゲストの相手で忙殺されるだろう。

 

 

(桐ヶ森提督、気を遣ってくれたんだな。……よしっ!)

 

 

 千載一遇のチャンス。

 ここを逃したら、もう二度と誘えない。

 気合い入れろ。勇気を出せ。なんの為に特訓したのか思い出すんだ。

 盗聴されてる事なんか忘れてしまえ!

 

 

「ちょっと、いいかな」

 

「……はい?」

 

 

 改めて向き直ると、彼女も向きをこちらに。

 まぶたを閉じて、ゆっくり深呼吸。再び開ければ、愛らしく小首を傾げる少女が居た。

 自然と笑みが浮かび、肩の力が抜ける。

 左手を背中側に、腰の高さを低く。跪くようにして、自分は右手を差し出す。

 

 

「可愛らしいお嬢さん。自分と、踊って頂けませんか?」

 

 

 気障な誘いに、電は目を丸くしている。

 全く似合わないだろうし、桐ヶ森提督に言われてやってるだけなんだから、情けないけど。

 でも、彼女と踊りたいのは本当。許されるなら、本日最後にしたい位だ。

 そんな気持ちが伝わったか、小さな手が重ねられようとして、けれど、触れる直前で戸惑う。

 

 

「あの……。こういう時、どんな風に返せば……。それに、電も踊れなくて……」

 

「特に決まりなんて無いし、気にしなくてよ。自分が教えるから。君の素直な気持ちを、聞かせて欲しい」

 

 

 普段と視線の高さを逆にして、自分たちは見つめ合う。

 聞き覚えはあっても、名前の分からないクラシックが終わった。

 かすかに届く、レコードが変わる音。静寂の満ちた室内へ、曲が始まる前兆の空音が。

 そして――

 

 

「……はいっ。お願いします、なのです!」

 

 

 ――音楽に合わせ、今度こそ手は重なった。

 メキシコの作曲家によるワルツ、波濤を越えて。

 ゆったりとした旋律に乗り。

 とても小さな、秘密の舞踏会が、始まる。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「あぁ……。やっぱり、君たちは……」

 

 

 赤坂迎賓館の最上階。その更に上の、誰も立ち入れない屋根裏で、一人の女が膝を折っていた。

 身に纏うは、闇へ溶け込む黒い礼装。手元にある小型タブレットPCからはイヤホンのコードが伸び、彼女の耳へ繋がっている。

 音声だけでなく、位置情報や周辺環境まで読み取れる、最新鋭の軍用盗聴機材。その受信機器だった。

 

 

「欺瞞HUBを五重に仕掛けるとはな。……どういうつもりだ。兵藤」

 

「っ!?」

 

 

 突然の声に、女は――兵藤凛は、イヤホンと腰の銃を引き抜きながら上体をひねる。

 同じく、黒い礼装を着る男。梁島彪吾が悠然と歩み寄っていた。

 高密度ケブラー素材すら易々と貫通する、無音噴針銃(マグネティズム・ニードラー)を向けられているにも関わらず、表情は一切変わらない。

 むしろ、窓から差し込む月明かりに照らされ、より鋭利さを増す。

 

 

「だんまりか。過保護、という表現では足りぬ行為に思えるが」

 

「そっちこそ。ここまで露骨な手段を取るとは、らしくないね」

 

 

 梁島の手にも、兵藤が持つ盗聴機材と同じものが握られていた。

 桐林の肩に盗聴機を仕掛けたのは、パーティーの参加者でも、潜り込んだ他国の間諜でもなく、同じ国の能力者だったのだ。

 しかし、実際に音声を拾ってみると、彼はある事に気付く。

 同じ機材が近距離で使用されている場合、それを知らせるために混ざるノイズである。

 これは双方向に発信され、兵藤も自分以外の存在に気付いていたはず。だが、彼女はそれでも盗聴を続け、こうして背後を取られるという失態を見せている。

 目的を話すつもりのない梁島はさておき、いくら常識外れな行動が常の兵藤でも、弟子可愛さで礼装へ盗聴機を仕掛けるなど、不可解であろう。

 

 

「貴様がどんな立場にあるかなど、私には興味がない。だが、一つだけ言っておこう」

 

 

 けれど、梁島がその事情を考慮する義理もなく、つまらなそうに一瞥するだけ。

 用は済んだとばかりに背を向け、歩き去ろうとした刹那。ふと足を止め、彼は背中越しに言い残す。

 

 

「必要とあらば、誰であろうと躊躇しないぞ。一思いに、な」

 

 

 濃厚な敵意と、固い使命感に縛られた言葉だった。

 足音が遠ざかり、大きな背中が闇へ消えて数秒後。

 兵藤は銃を取り落とし、床に崩れ落ちる。

 

 

「ごめん、ごめんね……。でも、君だけは……っ」

 

 

 零れた雫は、音も立てず埃に吸い込まれていく。

 赤子のように丸まった小さな背中を、下弦の月だけが見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《超絶短いこぼれ話 とある家族の肖像》

 

 

 

 

 

「どうでしたか、彼は。気に入りましたか」

 

 

 深夜。

 東京にある別荘の執務室へ戻った桐谷が、ゆったりとした動作で椅子に腰掛ける。

 視線の先には、上から三番目の娘が居た。

 大きな机を挟み、やや離れた所にある応接セット。そこで座る眞理が、静々と父へ頷き返す。

 

 

「うん。良い人だと、思います。あの人なら、いいよ」

 

「それは重畳。わざわざパーティーを開いた甲斐があったというものです」

 

 

 

 期待通りの返答に、形ばかりの笑みが深みを増した。

 名家のコネクションを総動員し、本来なら軍が持つ費用も千条寺家で賄い、わざわざ襲名披露宴を開いた目的が、見事に達せられたからだ。

 

 

「桐ヶ森さんや電さんには申し訳ありませんが、全ては千条寺のため。第一夫人の座は諦めて貰いましょう」

 

 

 今回のパーティーは、桐林の名を冠した青年を、千条寺へと招き入れる布石に過ぎなかったのである。

 千条寺という一族は、非情なまでに実力主義を貫いてきた。

 たとえ当主の直系であろうとも、愚鈍であれば放逐し、外から優秀な血を呼び込む。

 故に、この家に生まれた女は、政略結婚の道具として扱われるのがほとんど。それを良しとするよう、幼い頃から教育もされる。

 十を越えない幼子である眞理もまた、千条寺の女として生涯を費やすことに、疑問を抱くことは無かった。

 

 

(不確定要素は多いものの、唾をつけておくに越したことはありませんしねぇ)

 

 

 軍人となった初年に生まれた長女は、すでに政府高官の子息と婚約している。次女も、姉に負けまいと自ら恋人探しを始めた。

 上二人と比べ、性格的に、婿取りには早いと思われた眞理だが、九歳にしては発育も良く、幼い姿の駆逐艦を愛してやまないあの青年なら、有効に作用するはず。

 全てが仕組まれた出会い。年の差に関しては言わずもがな。倫理にもとるのも承知の上で、“桐”相手ならば惜しくない。

 四女は小学生になったばかりであり、五女に至っては赤子。まだそういう段階ではないけれど、将来的には“力”のある男の元へ嫁ぐだろう。

 桐谷が男児を儲けられなかった場合に備える、ただそれだけの為。

 

 

「彼なら間違いなく、貴方を幸せにしようと努力してくれるはず。確実に射止めなさい」

 

「うん。頑張ります。頑張って、桐林てーとくを“ろーらく”します」

 

 

 けれど、血の繋がった娘を、ただ道具として扱っている訳ではないのだ。

 桐谷を相手取り、歯の疼くような甘さの持論を展開する男が、己が配偶者を大切にしないはずがない。

 既成事実さえ作れば、彼は応えずにいられない。愛されれば、愛し返さずにいられない。

 あれはそういう男だ。

 時間を掛けられるかが問題だが、今はゆっくりと外堀を埋め、逃げられないだけの状況を作り上げねば。

 娘の人生は千条寺に捧げさせる。

 だからこそ、その上で最高の幸せを提供するのが、桐谷の――千条寺優介なりの、愛し方だった。

 

 

「桐林てーとくの、お嫁さんになったら。わたしは千条寺から出る、んだよね?」

 

「ええ。そうなったら、しばらくは自由にしなさい。彼の姓を名乗るのも、あえて千条寺を名乗るも良いでしょう」

 

「じゃあ……。桐林てーとくにお願いして、この名前から、解放してもらえるかな。その為なら、どんな事でもします」

 

「……そんなに嫌ですか? 眞理杏瓊(まりあんぬ)という名前は。覚え易く、特徴的で可愛らしいと思うんですが……」

 

「後半、いらない」

 

「そうですか……。平凡な名前よりかは、良いと思うんですけどねぇ……」

 

 

 存外たくましい娘に、桐谷は笑顔のまま落ち込む。

 千条寺 眞理杏瓊。

 漢字で書くと、苗字よりも名前の長いこれが、眞理のフルネームであった。

 常日頃から、「改名したい」「前時代の悪習」「キラキラ過ぎて失明しそう」と語っていた彼女。面通しが回りくどくなったのも、人前でフルネームを公表したくないと駄々をこねたからなのだ。

 しかしまさか、名を捨てるためだけに、戦略結婚にやる気を見せるとは。

 一応、愛情を持って名付けた父親として、悲しかった。ぶっちゃけ泣きそうである。

 だが、話はそれで終わらないらしく。

 

 

「それとね、お父様。だっぽーろり、ってなぁに?」

 

「……は? 今、なんと? 聞き間違いでなければ、脱法ロリ、と聞こえたのですが」

 

「うん、だっぽーろり。桐林てーとくが、お父様に聞けって」

 

「……ふ、ふふふ。そうですか。そうですか。そうですか……」

 

 

 聞き返さずにはいられない単語が飛び出し、今度は頬を引き攣らせる桐谷。

 脱法ロリ。

 どんなに頭を回転させても、他の変換候補が出てこない。

 いずれは肉体関係を持って貰わねば困るけれども、些かならず、腸が煮えくり返る。

 まぁ、発言者は桐ヶ森であり、誰に向けて発したのかを省いてしまった眞理が悪いのだが、思いの外、桐谷という男も過保護であった。

 桐谷と桐林。二人の男が、親子の契りを結ぶ時は来るのか。

 その答えは、神のみぞ知る事実である。

 

 

 


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