第一話「すぐ行きます」
「……う。ん……?」
微睡みから意識が覚醒を始めると、そこが学園の提供した寮ではない事が分かった。
縁側。ひらけた庭。古びた畳。
どれもこれも、古びた日本家屋の寮と同じだが、嗅ぎ慣れた匂いと、見慣れた安心感を覚える。
ここは、私の──冷泉 麻子の実家だ。
(寝てた、のか……。時間……)
シワになった半袖のワイシャツを直し、脱げかけた短パンの位置も直しつつ、私は古い壁掛け時計を確かめる。
午後四時。お昼を食べて、お婆に「牛になっちまうよ!」と言われながら昼寝をして……約三時間か。オヤツ食べ損ねた。
戦車道大会、決勝戦を無事に終え、数日前に母港へと凱旋した学園艦。それに合わせ、私は大洗の実家へ帰って来ている。
外泊許可を得るのは面倒だけど、こっちに戻れば、唯一の肉親であるお婆の様子も見れるし、一石二鳥という訳だ。
「お婆……?」
寝惚け眼で居間を見回してみるが、背筋を伸ばして正座するお婆は、いつもの定位置に居なかった。
代わりに、恐ろしく達筆な文字の踊る書き置きが、ちゃぶ台に一枚。
『夕飯の買い物に行ってくるから、風呂を沸かしといとくれ 久子 』
また一人で出かけたのか……。
書き置きを確かめた私は、携帯片手に自分の部屋へと戻り、上から薄手の短いポンチョを羽織る。
流石にブラもしないで、シャツと短パンだけでは出かけられないしな。
……AAサイズでも浮くとか、我ながら発育の悪さに嫌気が差す。
いっその事、カバさんチームの左衛門佐みたく、サラシでも巻いた方のが良いのかも知れない。
それはさて置き。
周囲からもカクシャクしていると言われるお婆だが、その実、胸に疾患を抱えていた。
軽い運動なら問題ないけれど、大きな負担が掛かると、呼吸が儘ならなくなって意識を失う可能性も……。
最近は特に安定しているとは言え、私が側にいた方が安心だ。
多分、いつもの業務スーパーにでも行ってるんだろうから、自転車でいけばすぐ……。
《にゃ~ん、にゃ~ん、にゃ~ん》
「ん? 携帯か……。お婆から?」
いざ出発という時に、持っていた携帯が鳴り響いた。
発信者を確認してみると、冷泉久子の名前。おそらく、何を買ってくるかの相談だろう。
電話する位なら、起こして一緒に行けば良かったのに……。
ここはハッキリ言っておかねば。
私は心を鬼にする覚悟で電話を取る。
「お婆。一人で買い物に行っちゃ駄目だって、何度も」
『……すみません。冷泉 久子さんの、ご家族の方ですか』
「え。はい」
――が、耳に届いたのは、聞き覚えのない男性の重低音だった。
反射的に返事を返すと、とても落ち着いた声で、その人は恐ろしい事を言い放つ。
『久子さんは今、病院に居らっしゃいます。熱中症で動けなくなって』
「……っ!? どこ、どこの病院ですかっ!」
怖気を震う、とはこの事だろう。
予想だにしない……いや、予想していたからこそ聞きたくなかった悪い知らせに、一瞬で季節が真冬になる。
しかし、ただ震えている訳にもいかない。お婆の運ばれたらしい病院の場所を聞き出した私は、「すぐ行きます」と言って通話を終了。玄関を出て自転車に飛び乗った。
(まただ……。また、私の知らない所で、家族が)
掛かりつけの病院ではなかったため、脳内に地図を思い描き、ペダルを漕ぎだす。
ドリフトで角を曲がり、横断歩道を赤信号に変わる間際で駆け抜け、可能な限りの速度で病院へ。
流れゆく景色が色褪せて見えるのは、どうしてなのか。
私は両親を、小学生の頃に交通事故で亡くした。
直前に母と喧嘩して、一人で家を飛び出し、公園で不貞腐れている間に、二人は居なくなってしまった。
わざわざ私の好物を夕飯にしようと、揃って出掛けたらしい。残された買い物袋がそれを教えてくれた。
喧嘩の原因なんて、もう覚えてすらいない。母はお婆によく似た性格だったから、きっと些細な事で言い合いを始めたのだと思う。
本当に些細な事で、だから、いつもの様に仲直りできると思っていたのに、それはもう叶わないのだ。
もしまた、同じ事が起きてしまったら。
知らない間に、大切な人を喪っていたら。
そんな想像が、ペダルを漕ぐ速度を上げさせる。
程なく目的とする病院に辿り着き、私は自転車を乗り捨てる様に降りて、息つく暇もなく受付へと。
「あ……。あの、冷泉 久子の、孫、ですが……。病室、は……?」
「ああ、はい。すぐに御案内します。……大丈夫ですか? 少し休まれてからの方が」
「問題ない、です……。私の、こと、は、いいので……」
よほど酷い姿のようで、中に居た看護師の女性が私を気遣ってくれる。
確かめてみると、全身汗だくで髪はボサボサ。おそらく顔色も悪いだろうから、無理ないだろう。
でも、最優先事項はお婆の容態。沙織atライカ直伝の呼吸法で息を整え、訝しみつつも先導してくれる看護師さんの後に続く。
エレベーターで四階へ上がって、両サイドに個室が並ぶ廊下を少し歩くと、看護師さんはとある部屋へと私を促した。
恐る恐る引き戸を開けてみれば、お婆がベッドで寝息を立てていた。
聞こえてくる穏やかな息遣いに、私は心底ホッとする。
「お婆……?」
「安心して下さい、軽い熱中症です。手当が早かったですから、命に別状はありません」
「そう、ですか。ありがとうございます」
「いいえ。お礼でしたら、運んで来てくれた方に……。あ、来ましたよ」
礼を言う私に、微笑む看護師さんが入り口を示す。
いつの間にか、ドアの所で見知らぬ男性が立っていた。
手にビニール袋を提げ、短く刈り上げた黒髪の……。こう言っては失礼だろうが、ぬぼーっとした顔つきをしている。
が、それよりも何よりも、デカい。凄く背が高い。2mはあるだろうか? がたいも良いし、プロレスラーみたいだ。
「失礼ですが、冷泉さんの……?」
「その声は、電話の」
「すみません。勝手かとは思ったんですが、携帯を確認させて貰いました。ロックが掛かってなかったので、連絡は早い方がいいかと……」
「あ、いや。助かりました。本当に、助かりました」
体付きに相応しい低音の声は、お婆の携帯から連絡をくれたのと同じだった。
つまり、この人がお婆を助けてくれた訳だ。
背は高いのに妙に腰が低い彼へと、私は深く頭をさげる。
経緯はまだ知らないが、とにかく命の恩人。礼は尽くさないとな。
……ん? 彼の着てる服、ごく普通の半袖シャツと黒いズボンだが、よくよく観察してみれば、襟に校章が着けてある。
あれは大洗女子の──正確に言うなら、大洗女子学園付属男子校の校章。
同じ学校の生徒だったのか……。てっきり成人男性かと。
「大事を取って、一日だけ入院という形にさせて頂きますので、後ほど受付けの方に声を掛けて下さいね?」
「あ、はい。分かりました」
しげしげと観察してしまっていた私に、看護師さんが一声掛けて退室する。
マズい。お婆の恩人に失礼なことを。機嫌を損ねてなければ良いが……。
看護師さんを見送りつつ、改めて顔色を伺ってみると、彼は変わらずぬぼーっとした表情。
……感情が読み辛いな。ライカみたく色々と剥き出しなら、会話の取っ掛かりも見つけ易いのに。
と、無言で困る私へ、今度はビニール袋が差し出された。
「これ、お婆さんの荷物です。勝手に預かってました。すみません」
「謝らないで、下さい。ありがとうございます。……お婆、こんなに買って」
やはり、買い物に行っていたらしい。
手渡された袋は、彼が持つと普通サイズに見えたが、私にとっては大きかった。
味噌。鰹節。味醂。砂糖。しめじ。玉ねぎ。トマト。アスパラガス。ミョウガ。ピーマン。ニンニク。そしてイチジクに夏みかん。
いまいちメニューの全体像が見えないが、お婆の手にかかれば、豪勢な食卓になったのは間違いない。
……私が帰ってくると、いつもこうだ。
家にあるものでいいのに、「若いんだからしっかり食べな!」と、食べ切れないくらいつくって、結局は近所にお裾分け。
やっぱり、今度から私が買い物に行こう。そして料理も作ろう。
沙織ほどではないが、私だって自活するだけの料理スキルは持っているんだ。
もう二度と、こんなことが起きないようにしなければ。
「傷みやすい物は病院の冷蔵庫に入れてもらってますから、帰り際に。良かったら、これも。水分補給は大事、です」
「……すみません、何から何まで」
「いえ」
加えて差し出されたペットボトルの麦茶を受け取り、私はまた頭をさげる。
ヒンヤリと冷たい。買ってすぐか。気の利く人だな……。
表面は取り繕っていたが、地味に体力を消耗していたので有り難い。
というか、お婆はどれだけ買ったんだ? 電動自転車とかじゃないし、家に帰るだけでくたびれそうだ……。
「じゃあ、自分はこれで」
「えっ。あ、あの、まだちゃんとお礼してない……。せめて名前……!」
麦茶をあおってゲンナリしていると、その間に彼は、短い挨拶と共に姿を消してしまう。
慌てて廊下へ顔を出すのだが、まだ近くにあるはずの後ろ姿が見えなかった。念のために反対方向も見るが、やはり無し。
いや、おかしくないか? 足が速いってレベルじゃないぞ。まるっきり影も形も。
……腑に落ちないが、お婆を放って追いかける訳にもいかない。
私は仕方なく病室へと戻り、備え付けの椅子を引っ張り出して腰を下ろす。
すると、今までピクリともしなかったお婆が、モソモソ起き出してきた。
「ふん。今時珍しい、硬派な男だねぇ」
「お婆、いつから起きて?」
「もともと寝てなんかいないよ! ったく、大したことないって言ったのに、赤の他人を無理やり病院まで運んじまうんだから。お節介な子さね」
「助けてもらったんだから、そんな言い方は」
「言われなくても分かってるよ、そんなこと! ……やんなっちまうねぇ、買い物すらまともに出来ない体になっちまった」
言葉を聞くだけなら、倒れたなんて嘘としか思えないほど態度の大きいお婆だが、その実、表情は暗い。
こんなに弱気な発言をするとは、今回のことがよっぽど堪えたみたいだ。
うん、いい機会だ。さっき考えていたことを実行しよう。
私は姿勢を正し、お婆に向き直る。
「お婆。お願いだから、無茶はやめて欲しい。散歩くらいの運動ならまだしも、あんなに沢山の買い物なんて……。起こしてくれれば私が行ったんだし」
「昼間っから寝ぼけてばっかりなあんたがかい? 心配で任せられたもんじゃないよ。釣り銭騙されたり、置き引きに遭ったりしそうだしね」
「それはお婆も同じ。もう若くないんだから、少しは信用して」
「信用ったってね。あんたのどこを信用すりゃ良いんだい?
せっかく戦車道の大会で優勝したってのに、また遅刻ばっかりしてるらしいじゃないか!
沙織ちゃんから聞いてるんだよ、あたしは!」
「ぐっ。……沙織め、余計な事を」
説得するつもりが、痛い所を突かれてしまった。
むう……。確かに、そど子が遅刻カウントをゼロにしてくれてからというもの、逆に気が緩んだ部分もあるが……。
沙織の裏切り者め。学園艦へ戻ったらライカに入れ知恵して弄んでやる。
嬉し恥ずかしなラブいイベントで悶え苦しむがいい。
「それにあんた、その年で浮ついた話の一つも無いじゃないか。
沙織ちゃんとか、華、だったかい。あの子も彼氏作ってるんだろう?
だってのにあんたばっかり独り身で……」
「わ、私だけじゃない。秋山さんとか、西住隊長とかも、まだ……のはず……」
またしても痛い所を突かれ、反論は尻すぼみに。
別に彼氏なんて欲しくないが、沙織を引き合いに出されると、妙に反抗したくなる。
というか、私を恋人として選ぶ男は世間的に見てどうなんだ。
制服着てないと小学生に間違われるし、ときどき着てても間違われるし。流石にそういう趣味の男は遠慮したい。
秋山さんは……戦車にしか興味なさそうだから、一生独身を貫くかも知れないな。
西住隊長はどうだろう。破門に近い扱いとはいえ、西住流家元の娘。将来的に、お見合い結婚辺りが妥当な線か。
と、勝手に仲間の今後を分析していたら、お婆は盛大に溜め息をついて。
「はあぁぁ……。せめてさっきの男の子みたいな、ガッチリしてて礼儀正しくて、頼り甲斐のありそうな相手が、あんたの側に居てくれりゃあ、安心して任せられるんだけどねぇ。色々と」
「そんな無茶な、名前だって聞けなかったのに……。いや、探そうと思えば探せるだろうけど」
「だったらあんた、キッチリ探しておいで! このまんまじゃ腹の虫が収まんないからね! あと、その食材はちゃーんと冷蔵庫に入れとくんだよ! それから……」
「分かった、分かってるから、大声出さないで。あと、その言い方じゃ不良が御礼参りするみたいだから」
相変わらず口が悪いけれど、お婆も助けて貰った自覚はあるらしい。本当はお礼を言いたいのだ。
私としても、きちんとしたお礼をしたい。探すのはやぶさかではないけれど、どうしたものだろう。
確実な手掛かりとしては、2m近い身長と、分校の男子生徒であること。
ん? 学園艦に居る男子生徒の数は少ないし、これだけでも十分か。
(一先ず、ライカにでも話を聞いてみよう)
私は今後の動きを考えて、とりあえずの行動計画を立てる。
さっきも言ったが、分校の男子は数が少ない。加えて、ライカは蛇道でスカウト──偵察兵をやっているから、情報収集は得意なはず。
しばらくすれば、エキシビションマッチに向けた練習も再開されるだろう。それまでに会えると良いが……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数日後。
学園艦へと戻った私は、放課後、一人となったタイミングで、ライカに電話を掛けていた。
目的は勿論、例の男子生徒の情報だ。
数回のコール音が続き、程なく聞き慣れた声が私の名前を呼ぶ。
『もしもし。どうかしましたか、麻子さん。あ、学校の用事で沙織さん遅くなるとか? だったら送迎しに行きますけど』
「はぁ……。なんでもかんでも沙織に結びつけるな。ちょっと聞きたい事があってな」
思わず廊下の窓に寄り掛かり、帰路に着く生徒を眺めつつ溜め息を。
口を開けば二言目には沙織沙織沙織。
相変わらずのライカに少しばかり辟易するが、言っても無駄か。
遠慮しても仕方ないので、さっそく本題に入ろう。
「分校の男子の中に、身長が高い奴は居るか? 2m近い……」
『2m? はい、居ますよ。先輩に一人だけ』
「無口で、言葉遣いは固いか?」
『ええ。よく知ってますね、会った事でも?』
「ん……。お婆を助けてもらった」
やはり、分校の生徒であるという予測は正しかったようだ。
流石に説明無しで個人情報を聞き出すのはアレだし、私は数日前の出来事を掻い摘んで話す。
するとライカは、得心がいったように呟いた。
『そうでしたか。また辻助けしたんですね、あの人』
「辻助け……?」
『はい。なんだか、物凄い確率で困ってる人と出くわして、その度に人助けしてるような人なんですよ。んで、ついたあだ名が“辻助け”先輩。三年生の普通科です』
「……そうか。変わった人なんだな」
『でも、良い人ですよ。見た目と違って気配りとか凄いですし。
蛇道の助っ人も頼んでるんですが、始めて二年足らずなのにめっちゃ強くて。
俺、先輩とタイマン張ったら九割負けます。悔しいけど、才能の塊っすよ』
「お前にそこまで言わせるか」
ライカの語る人物像は、私の知る男子生徒と重なるようでいて、予想外な一面も含んでいた。
また蛇道か。それなら、病院であっという間に姿を消したのも頷ける。何かと縁があるな。
あだ名になるほど人助けをしているという事は、お婆の一件、彼にとっては日常茶飯事だったという訳だ。
が、だからと言って礼を失するなんて良くない。お婆に怒られる。
「なぁ、ライカ。もう一つ頼みたい事が……」
『分かってます。セッティングは任せて下さい! いつ頃が良いですか?』
「話が早くて助かる」
私が何かを言う前に、ライカは気安く請け負ってくれる。
辻助け先輩とやらは人が良いみたいだが、こいつも相当なお人好しだな。
友人としては心配になる部分もあるけれど、今回は素直に甘えよう。
特に日にちは指定せず、あちらの都合で構わないと伝えれば、「了解です!」と、張り切って通話を終えるライカ。
あ、しまった。戦車道の練習があるのを言い忘れ……てたけど、ライカなら沙織の練習予定を把握してるだろうから、大丈夫か?
いや。一応、言っておいた方が……。
《にゃーん、にゃーん、にゃーん》
「ん? 着信……って、ライカか。ちょうど良かった、言い忘れてた事が……」
『あ、麻子さん。先輩、OKだそうです。なんだったらこれからでも、って話なんですけど、どうでしょう?』
「早過ぎるだろう!? ……まぁ、問題ないけど」
『はい。じゃあ伝えときますね。失礼しまーす』
「こら待て。待ち合わせ場所を決めてない。とりあえず……」
十歩も歩かないうちに折り返しの着信があったと思ったら、即行で約束を取り付けるとは。やる事が本当に極端だな……。
取り敢えず、待ち合わせの場所だけは指定して、今度こそ通話を終える。
ええっと、艦首方面の公園だから、私の住む寮は通り道。カバンを置き、お婆に持たされたタッパーだけ持っていけば良いだろう。
もともと今日は一人で帰る予定だったし、さっさと行くか。
想定より早く例の男子生徒──先輩と会う事になり、私は家路を急ぐ。
家に着いたら着いたで、冷蔵庫から取り出したお婆謹製の煮物を風呂敷に包み、服を着替え……なくても問題無いか。
それより、待たせたらそれこそ失礼だ。急がないと。
こうして、電話の三十分後には、指定した公園へ到着したのだが……。
(遅い)
肝心の先輩が、なかなか現れてくれなかった。
よく考えると、場所は指定したけれど時間を指定していない。間抜けだ。
(……人の事を言えた義理じゃない、か。大人しく待とう)
普段は、自分自身が寝坊だのなんだので迷惑をかけているのだから、素直に反省して待つ事にする。
夕暮れの公園でベンチに座り、私はボウっと景色を眺めた。
そういえば前に、この公園であんこうチームのみんなと、コンビニ飯を食べた事があったな。
沙織が三毛猫ハーレムを構築していて、なんとも沙織らしいと思ったものだが、それが今ではバカップル。オマケに華も幼妻化。人生、分からないものだ。
と、年寄り臭く思い出を振り返っていたら、遠目にもよく目立つ長身の男が、こちらへ向かって来ていた。
逆光になっていて顔は分かりづらくなっていても、私の視力は2.0。ぬぼーっとした表情が確かに見える。
立ち上がってみれば、彼も私の存在に気付いたようだ。小走りになった。
「お待たせ、しました。申し訳ない、遅れてしまって」
「あ、いや。そんなには待ってませんし」
何故だか、やたらとズタボロになった制服を着る先輩は、いの一番に頭を下げる。
ライカから年下なのを聞いているだろうに、畏まった対応が変わらない。これが素のようだ。
とにかく、まずは礼を言うのが先決か。
「先日は、祖母がお世話になりました。先輩が病院へ運んでくれなかったら、大変な事になっていたかも知れません。本当に、ありがとうございました」
「……どういたしまして」
斜め四十五度の最敬礼で、お婆を助けてもらった事への感謝を告げると、変化の乏しかったボヤけ顔に、わずかながら赤みが差した……ように見えた。照れているらしい。
なんというか、純朴そうな人だな。お婆が気に入りそうだ。昔よく聞かされた、お爺の話にもダブる。
……あ。お婆と言えば、渡すように頼まれているものがあったんだ。忘れないうちに。
「これ、お婆の作った、トコブシの煮物なんですけど。良かったら」
「……頂きます」
先輩をベンチへ促し、少し距離を置いて腰掛けた彼に、風呂敷で包まれたタッパーを渡す。
視線が「開けても……?」と問い掛けてくるので、私は頷いた。
丁寧に風呂敷を解き、相対的に小さく見えてしまうタッパーの蓋を開けた彼は、指で摘んで早速一口。
「うまい」
「良かった……。お婆の煮物は絶品ですから」
「はい。ご飯が欲しいです」
ぬぼーっとした顔が、むふーっと満足そうに緩む。
よく噛み締めて食べている所を見ると、お世辞とかではなさそうだ。
良くも悪くも、噂で人を判断しないよう心掛けていたが、お婆の煮物の味が分かるんだから、この人は良い人に違いない。うん。
「所で、先輩。妙にズタボロなのは……?」
「……ちょっと、色々ありまして」
「色々?」
「……色々」
トコブシを堪能している先輩だが、やはり制服がズタボロになっているのが気になった。
はぐらかすような答え方は、暗に立ち入ってくれるな、と言われているようで。
喧嘩でもしたのか? いや、この図体に喧嘩を売るなんてバカしか居ない。となると、事故にでも巻き込まれたか……?
まあ、昨日今日会ったばかりなんだ。本人が話したがらないんだから、あまり込み入った事情に口を突っ込むのも問題だろう。
そう思い、もう煮物を完食しそうな先輩を観察していたのだが、彼はふと遠い目をした。
視線を追ってみれば、数m先で、小太りな猫がお座りしていた。ぶにゃー、と鳴いている。
トコブシを欲しがっていると見たのか、先輩は最後の一つを小さく噛みちぎって。
どうやら分けてあげるつもりのようだが、それはマズい。私は急いで止める。
「待った。猫にトコブシはあげない方が良いです。毒になるから」
「そう、なんですか。知らなかった。……ごめんな」
申し訳なさそうな口振りで、先輩が猫に謝罪を。流石に敬語ではないが、いちいち野良猫にまで謝ることはないだろうに。
……ん? 違う、野良じゃないな。首輪をしているし、飼い猫が脱走したのかも。
彼もそれに気付いたらしく、しげしげと猫を観察した後、ズボンのポケットから何か、畳まれた紙切れを取り出す。
「それは?」
「迷い猫のチラシ、です」
チラシには、今、目の前にいるのと同じ猫の写真が載っていた。
赤い首輪。薄茶色の毛並み。両耳と手足、尻尾の先などが黒く、瞳は青。十中八九、この猫だ。
試しに、先輩がチラシに書かれていた名前──「八つ橋」と猫を呼ぶと、ぶにゃー。返事があった。
飼い主のネーミングセンスは疑わしいけれど、こんなチラシまで配っているんだから、きっと心配している事だろう。家に帰してやらねば。
先輩も同じ気持ちらしく、おもむろに立ち上がり、そろり、そろりと歩み寄るが……。
「あ」
あと一歩で手が届くという瞬間、八つ橋は逃げ出した。
先輩も諦めずに追うものの、捕まえられない。見失うのを恐れてか、全力を出せないようだ。
それを分かっているのか、八つ橋も本気で逃げはせず、ちょっと離れては立ち止まり、近付かれたらまた逃げて、を繰り返している。
……このままだと完全に日が暮れるな。仕方ない、手助けするか。
「先輩。私に任せて欲しい」
「冷泉さん……?」
逃げられまくって寂しそうな背中をポンと叩き、前に進み出る。
そして、八つ橋が逃げ出そうとするギリギリの距離で座り込み、手を差し出す。
「おいで。家に帰ろう」
呼び掛けると、ふてぶてしい顔がこちらを見つめ返した。
沈黙。
ややあって、八つ橋はノソノソと歩み寄り、ぶにゃん、と私の前で腹を見せる。よし、成功だ。
私は妙にネコ科の動物に好かれるので、この位ならお手の物。ちなみに沙織も動物に好かれるが、何故か寄ってくるのはメスのみだったりする。
というかコイツ、前に四号の上で昼寝してた奴だな。西住隊長がえらく可愛がっていたような。
「……凄いですね。冷泉さん」
「この位で感心されても。それに、敬語じゃなくても良いです。先輩なんだし」
「え? ……でも、失礼ですから」
逃げないように八つ橋を抱きかかえる私へと、先輩が尊敬の眼差しを向けている。心なしか、表情も輝いていた。
そんなに羨ましがる事だろうか。小さい頃からこういう体質だったし、活かそうと思ったのも今回が初めてだ。まぁ、誰かの役に立てるのなら、悪い気はしないが。
先輩は、腕の中で喉を鳴らす八つ橋に、恐々と手を伸ばす。気紛れで逃げていただけなのか、大人しく撫でられていた。
ぬぼーっとした先輩の顔は変わらないが、彼も喜んでいるみたいだった。雰囲気で分かる。
「あの……。冷泉さん、頼みが……」
「ん。問題ないです。行こう、先輩」
「……ありがとう」
言わんとする事を予測できた私は、彼が言い終える前に頷き返した。
ホッとしたように目尻を下げる先輩。
風呂敷とタッパーを回収してからその隣へと並び、二人と一匹で、くれなずむ学園艦を歩き出す。
さて。変なネーミングセンスの飼い主に、迷い猫を届けるとしよう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数十分後。
チラシの案内図に従い、無事に迷い猫を飼い主へ送り届けた私たちは、来た時と同じように、二人並んで歩いていた。
ただし。
「なんでこんなに荷物が増えてるんだ……?」
「……申し訳ない」
暑中見舞いのゼリー詰め合わせに、ビニール袋に入った大きなスイカ二玉とゴーヤ十本、スルメや魚の干物、栄養ドリンクなどなどなど。
両手と背中に溢れる、“お礼の品々”を抱えてだが。
まず、八つ橋を送り届けた礼として、飼い主の親子(先輩並にデカい父親と小学生の娘さん)からゼリーを貰った。
娘さん、本当に嬉しそうで良かった。ちょっと泣いていたし、よほど心配だったのだろう。ネーミングセンスは逆にこっちが心配になるけども。
その次に、道端で農業科っぽい男子生徒から話しかけられ、農作業の手伝いのお礼にと、スイカやゴーヤを貰った。
食べ切れないから後で分けてくれるそうだ。沙織に頼んでゴーヤチャンプルを作って貰おう。沙織のは苦くなくて美味しい。
余談だが、大洗女子にある農業科や水産科などは、船舶科ほどではないが学費を控除されている。
その度合いは出来高制──売り上げに直結するとの事。中には完全に学費を賄う猛者も居るそうな。この学園艦、トンでもない人材の宝庫なのかも知れない。
話を戻そう。
男子生徒と別れてすぐ、今度は年配のオバサン達が寄って来た。
その人達の言う所によると、先輩は週末によくボランティアの清掃活動などをしていて、おかげで色々と助かっているのだとか。で、乾物と栄養ドリンクを押し付けられた。
オバサン達は、何やら私と先輩を見比べ、含み笑いをしていたが……。どうせ二度も会う事は無いだろうから、放っておいた。沙織と同じ匂いがして面倒だったんだ。
そして最後。
先輩が家まで送ってくれると言い、断るのも悪いし、二人で寮へと向かっていた所を若い男性に話しかけられ、土下座せん勢いで先輩が感謝されて。
なんでも、坂道の階段で乳母車ごと転んでしまった母娘を、体を張って受け止めたらしい。
幸い、誰も怪我を負わずに済んだのだが、先輩は「待ち合わせがあるので」と、そそくさ立ち去ってしまったのだという。
その後、仕事から帰って話を聞いた旦那さんは、デカい男子生徒という情報を頼りに周辺を探し回り、ようやく見つけた先輩へと、これでもかと感謝したのである。
後日学校の方へ正式にお礼に行く、とも言っていた。先輩は「お気になさらず……」と恐縮していたが、あの旦那さんの興奮ぶりは治まりそうもない。大事になりそうだ。
「人が良いにも程があるんじゃないのか、先輩」
「……すみません」
「まぁ、悪い事じゃないと思うが。お婆も褒めてた。先輩みたいなのは珍しいって」
「……よく、言われます」
両手に提げたビニール袋を持ち直しつつ、私は隣を見上げる。
やたらと高い位置にある先輩の顔が、申し訳なさそうに俯いた。
制服がズタボロだった理由が分かり、スッキリした部分はあるけれど、こうも手荷物が増えてしまうと重くて困る。
しかし、本当に善人なんだな、この人は。
迷い猫を送り届けたり、農作業を手伝っていたり、ボランティアで街を掃除したり、身を投げ出して親子を助けたり。
辻助け先輩なんて呼ばれ方も、今となっては納得だ。頼み込めば借金の保証人にすらなりそうで、ちょっと不安にもなるが。
「……お婆さんは、どこか悪いんですか」
「心臓が少し。手術すれば治る可能性はあるけど、歳が歳だから危険性も高くて、踏み切れない」
「あ……。すみません、立ち入った事を」
「いや、気にしないで欲しい。あれでも最近は調子が良いんだ。だから、無茶をしないか心配なんだけど」
「家族想い、ですね」
「まぁ……。唯一の肉親だから」
「……っ! あ、の……」
お婆の名前を出したからか、話はそっち方面へと変わるのだが、うっかり口を滑らすと、先輩の顔がますます色を失う。
しまった。まだ二度しか会った事のない人に話す内容じゃない。私もどうかしている。
……話してしまったんだから仕方ない。勢いで誤魔化すか。
「いちいち謝ろうとするな。ガタイはデカい癖に、気が小さいぞ!」
「め、面目ない」
「……と、お婆なら言うだろうな。だがまぁ、気にしないで欲しい。私は平気だ」
少し強めに叱りつけた後、私は先輩へ笑いかける。
すると彼も、面食らうように眼を瞬いてから、かすかに笑ってくれた。
らしくない事をしてしまったが、変に気を遣われるよりは良い。
お婆を助けてもらった礼は言えたし、煮物も食べてくれた。
奇妙な縁で知り合った私達だが、これ以上するべき事もない。
後は実家に電話して、キチンと挨拶を済ませたと報告すれば良いだけ。
でも……。
(今回は先輩がたまたま助けてくれたから良かったものの、次また、同じことが起きたら)
考え過ぎと言われればそうだけれど、実際に事は起きたんだ。どうにも不安が頭をよぎる。
どうにかして、あの偏屈なお婆を大人しくさせられたら、私としても安心なんだが。
「……冷泉さん。どうかしましたか」
「ん? いや……」
考え込んでいるのに気付いた先輩が、こちらを心配そうに見下ろしていた。
いっそ、先輩みたいな人がお婆の側に居てくれれば助かるが、無理難題だ。
ヘルパーを頼むにもお金が掛かるし、とりあえず、私が向こうにいる間だけでも、家事やら何やらを任せて貰えればいいのに……。
と、そこまで考えて、私はようやく思い出した。
「……そうだ。そうだった。その手があるじゃないか」
「え……? あの……?」
立ち止まり、私は何度も頷く。
お婆が病院に運び込まれた日、お婆自身が言った言葉。
本人が口にしたことなんだから強く出られるし、自分で言ったことを曲げるなんて、お婆は絶対にしないだろう。
先輩だったら、頼む側としても信頼できそうだ。お婆に無茶させないためには、これしかない。
そう決心した私は、オロオロと様子を伺う先輩へ向き直り、黒い瞳を見つめる。
「なぁ、先輩。一つ頼まれてくれないか」
「自分で、力になれる事なら」
私を見つめ返し、先輩はなんのてらいも無く返事をしてくれた。
まだ内容の説明すらしていないのに、躊躇もしないとは。
いや、だからこそ信じたくなる。この人ならきっと、私の期待に応えてくれると。
気恥ずかしさを紛らわすため、軽く深呼吸をし。
屈託のない瞳をもう一度見つめて、私は願いを口にする。
「私の、恋人になってくれ」
「……はい?」
図体に似合わず、小動物的な動作で首を傾げる先輩。
それがなんだかおかしくて、小さく吹き出しながらも、私は決意を改めた。
全ては、お婆の体への負担を軽くするため。
ニセ恋人作戦、開始だ。
流石は冷泉さん! 俺たちには予想もつかない事をやってのける! そこにたまげる眼と耳疑う!
という訳で、冷泉麻子編の始まりでございます。お待たせ致しました。
遅々として関係が進展しなかったゆかりん編と違い、今回は初っ端から飛ばしてます。
お婆の事になると暴走しがちな彼女ですから、場合によってはこんな事もあり得るんじゃないかなぁ、と。
形だけの恋人関係から、この二人がどうなっていくのか。次回更新をお待ち下さい。
……つっても、諸事情により不定期更新になってしまうんですが。何卒、ご了承下さいませ。
では、失礼します。