読まれる方によって「地雷要素」を含む設定、展開の可能性がありますので、くれぐれもご自衛くださいますようお願いいたします。
ラインハルトの仲介の元、晴れて「侯爵」の地位を継いだビッテンフェルトだったが、彼は決してこのことを喜んではいなかった。
平民生まれで貴族社会とは縁遠かったことに加え、彼の性格も貴族らしいそれとはかけ離れている。
領地や財産の管理は、引き続き優秀な家令が行ってくれており、実際は彼の肩書きに爵位が加わったに過ぎないのだが、それだけでもう堅苦しい気分になっていた。
しかし、目下、彼には別の悩みがある。
元帥府を出て帰宅しようとした彼の前に、「それ」は立ちはだかっていた。
「こ、こら!おまえ!そこをどけ!」
シッシと追い払おうとしてみるが、「それ」が動く気配はない。
ビッテンフェルトの顔を真っ直ぐに見上げ、もの言いたげにじっと座している。
「それ」は、年老いた犬であった。
「提督、いかがされたのですか?」
「いかがされたのですかではないわ!この犬が、俺から離れようとせんのだ!」
追い払えないなら避けるだけだと思った彼だったが、犬はビッテンフェルトが移動しようとするとついてきて、そこでまた座り込んでしまう。
「失礼ながら、閣下の犬ではございませんので?」
「なにぃ!そんなわけがあるか!なぜ俺が犬など飼わねばならんのだッ!」
衛兵はビッテンフェルトの犬と勘違いしているようだが、勿論彼の犬ではない。
ビッテンフェルトは犬を飼ったことは一度もないし、それどころか犬が苦手だった。
これには、遠き日のフリッツ少年に関する深い逸話が関係しているのだが、それはまた別のお話……。
とにかく、彼は犬が苦手である。
しかし、「苦手だ」などと言えば沽券にかかわる。
「こら、犬!ついてくるな!」
そんな彼の心情を知ってか知らずか、犬は相変わらずビッテンフェルトにつきまとい、ついに彼の家の前まで来てしまった。
「頼む、この犬をどうにかしてくれ。」
彼を出迎えた執事が犬を見て驚くが、ビッテンフェルトの大声を聞きつけたのかアンジェリカが表に出てきた。
「まあ、わんちゃん。フリッツ様、この子はどなたかの飼い犬ですの?」
「し、知らん。なぜだかわからないが、元帥府からずっと俺の後をついてきて離れんのだ……!」
犬が苦手だということを、アンジェリカにだけは知られたくない。
そう思いながらも犬からの距離を保つビッテンフェルトだったが、アンジェリカは彼の希望と真逆の行動をとった。
「よほどフリッツ様のことが好きなのね。これほど人に懐いているということは飼い犬だったのでしょうし、放っておくのは可哀想ですわ。」
慈愛に満ちた表情で犬を見た彼女が、慣れた手つきで犬の首筋を撫でる。
「クゥン。」
甘えて喉を鳴らす犬にビッテンフェルトのストレスはいよいよ増したが、
「いい子ね、わんちゃん。行くところがないのなら、うちにいらっしゃい。」
「なッ、はああッ?えええッ……?!」
甘えて手を舐める犬を、アンジェリカが家に入れると言い出したのだ。
「いけませんか」と上目づかいで聞かれれば、ビッテンフェルトは嫌とは言えない。
第一、こんな風にアンジェリカから何かを強請られたり頼まれたりしたことは、ビッテンフェルトにとって初めてだった。
「ダルマチアンでございますね。随分と年を取っているようですが。」
アンジェリカの横から犬を覗きこんだ執事が言い、「では、世話は私がいたしましょう」と名乗り出た。
「年をとって捨てられてしまったのかしら。だとしたら、本当に可哀想だわ……フリッツ様に会えてよかったわね、あなた。」
黒と白の斑柄をした犬の背中を撫でてやりながらアンジェリカが言い、ビッテンフェルトに笑みを向けた。
「この子には、フリッツ様の優しさがわかるのですわ。」
ダメ押しの一言に、ビッテンフェルトは彼の意思と裏腹に笑って、「アンジェリカが言うなら、そうだろうな!」と犬を避けながら頷いた。
こうして、ビッテンフェルト家に新たな住人が加わったのである。
しかし、彼の想像を超えて、犬の存在はさらなる不幸を呼び込んだ。
「フリッツ様に名前を決めていただきましょう」と言われて以来、命名保留となっている年老いたダルマチアンはアンジェリカによく懐き、なかなか彼女のそばを離れようとしないのだ。
二人きりの場所であるはずの寝室に入り込もうとするダルマチアンから部屋を防衛することが、ビッテンフェルトの日課となっていった。
そんなある日のことである。
その日、ビッテンフェルトは、ローエングラム元帥府にてこれから起こるであろう出来事についてラインハルトから直々に指示を受けた。
それは、ブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯を筆頭とする貴族連合はどうやら密約を交わし、軍事行動に出る可能性が高いということ、もしことが起こった際には、軍務尚書エーレンベルク元帥を拘禁する役目をビッテンフェルトに任せたいというものだった。
彼と彼の部下たちは、早速この準備に取り掛かることとなった。
日を追うごとに増す緊張感に、今かと身構えていたビッテンフェルトだったが、その彼に思いがけないことを告げたのはアンジェリカだった。
「この頃は遅くなるばかりですまない。」
遅い夕食を一人でとるビッテンフェルトの正面に、アンジェリカは座っている。
今日の彼女も大層美しく、憂いを秘めた眼差しでビッテンフェルトを見る様子は彼の庇護欲をおおいに刺激した。
「だが、心配するな。アンジェリカに害が及ぶようなことは絶対にない、この俺が必ず守ってやるからな。」
夫婦としての理想には遠い部分も確かにあるが、誰が何と言おうと彼女はビッテンフェルトの妻なのだ。
何かきっかけがあればもっと打ち解けられるはずとか、いや、犬さえいなくなればとか、心の中で言い訳をしつつ過ごす日々が終わる見込みは今のところないのだが、それでもビッテンフェルトの「愛する妻を守りたい」という気持ちは変わらなかった。
「ええ……。」
しかし、ビッテンフェルトの力強い言葉にもアンジェリカの憂いが晴れる様子はない。
「何かほかに心配があるのか。」
尋ねれば、彼女は少し思案してから口を開いた。
「ブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯は大貴族中の大貴族。大軍を抱えているあの方たちにまさかそんな考えはないだろうとは思いますが……もしも、テロや暗殺によって事態を変えようという者がいたとしたら……。」
「そ、それはどういうことだ……。」
古今東西の歴史上、身内を味方の人質として差し出したり、逆に敵方の妻子を奪ったりということは幾度となく繰り返されている。
「いえ、過剰な心配かもしれません……けれど、もしローエングラム侯やそのお身内を直接手にかけようとする者がいたら……。」
不吉にも思えるアンジェリカの言葉だったが、忠義心の厚いビッテンフェルトの使命感はこれに強く刺激された。
反射的に椅子を蹴って立ち上がると、ビッテンフェルトはすぐさま彼の部下に連絡を取り、ラインハルトと彼の姉、グリューネワルト伯爵夫人の居宅の警備を命じた。
まずは御身を守ることが肝要と考えてそれらの処置を取った後、ビッテンフェルトはラインハルトに状況を報告するために家を出る。
その彼に、もたらされた部下からの連絡。
シュワルツェンの館に不審者の影があるという報告を聞き、ビッテンフェルトは深夜の街を駆けた。
「ローエングラム侯をお守りするのだ!不審者を逃がすな、必ず捕らえろ……!」
衛兵たちさえも蹴散らすほどの勢いで、ビッテンフェルトは猛進する。
彼の自慢の部下たちも同様だった。
実は、シュワルツェンの館はキルヒアイスとその部下五千名によって厳重に警備されていたのだが、ビッテンフェルトはこれを知らず、しかし知らずにいたゆえの行動が期待以上の戦果を生み出した。
この襲撃事件の犯人を捕らえたのである。
キルヒアイスによる厳重な警備をもくぐりぬけようかという巧妙な作戦であったようだが、リーダー格の男がビッテンフェルトに捕らえられたと知ると、あとはバラバラになって逃げだしていった。
狩猟の成果を誇る猛獣のごとき猛々しさで、ビッテンフェルトはラインハルトの前に捕らえた男を引きずり出した。
大恩のある上官を殺そうとした男はあまりに許しがたい存在であり、ラインハルト自身の手でこそ処断されるべきだと彼は思った。
「この暗殺計画の首謀者は卿か。」
「……はい、私です。」
若い白皙の青年の前に膝をついた男は、潔く罪を認めて首を垂れる。
「ですがこれは私の独断であり、ブラウンシュヴァイク公とは関係ございません。」
「ほう、主君を庇うのか。」
潔い姿勢と主君の命だと言わない忠誠心にラインハルトは感心するが、男は違うと首を振る。
「あの方は、大身であるご自身たちが決してあなたに負けるはずがないと大手を振って出ていかれました。しかし私は……帝国を二分する大戦となった場合、惨禍はあまりにも大きく、勝者も傷つくに違いないと考えました。」
ラインハルトは破壊と再生を目指す立場だが、門閥貴族たちはその逆。
だとすれば、被害が最小限に済むほうを選ぶべきだと考えたと男は言う。
命の瀬戸際に立たされていることを感じさせないほどの大胆さで、立て板に水を流すがごとく男は喋り、再び身を低くした。
男の言い分は既に十分過ぎるほど大胆不遜なものであったが、もっと普通でなかったのはその先だ。
「これを上申して私はブラウンシュヴァイク公に見放されましたが、私のほうも気持ちは同じです。」
ビッテンフェルトの拳で痣のできた頬を床につくほどに低くして、男は言った。
「つきましては、ローエングラム侯の部下として、私の居場所を賜ることはできないでしょうか。」
男は、暗殺計画をあっさりと認めたどころか、自分の意見を受け入れない主君のことはもう見限ったからローエングラム陣営に加えてくれと堂々と言い放ったのだ。
これにはさすがのラインハルトも驚き、不快というより呆れ果てたという顔で男を見下ろす。
「……卿に忠誠心はないのか。」
「忠誠心というものは、その価値を理解できる人物に対して捧げられるものでしょう。人を見る目のない主君に忠誠を尽くすなど、宝石を泥の中に放り込むようなものです。」
呆れるラインハルトを前に、彼はそう言い切って「自分を部下にしてくれ」と再度頭を下げる。
「ぬけぬけと言うやつだな。」
いっそ清々しいほどの割り切りの良さに感心したラインハルトは、苦々しく笑いながらも男の発言に陰湿さがないことを認めた。
「それほどまでに言うならば、良いだろう。」
彼は、男が自らの配下に加わることを許可し、大佐の地位を保証した。
そして、言った。
「ビッテンフェルト。」
「は!」
男を連れてきた猛将に向かってラインハルトは頷いて、
「卿のところで使ってやれ。」
「は、え……ええ?!は、はい……!」
こうして暗殺者から幕僚として取り立てられるという奇妙な変遷を辿った男が、ビッテンフェルトの配下に加わった。
男の名前は、アントン・フェルナーといった。