ビッテンフェルト提督の麗しき結婚生活   作:さんかく日記

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【8】歴史は動いた

フリードリヒ四世の崩御以来、帝都に立ち込める暗雲は日を追うごとに厚くなっていった。

「その日」が近づいていることを、アンジェリカは今まさに感じている。

幼帝を戴くローエングラム侯、リヒテンラーデ公連合と、それに反目するブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯を中心とした貴族連合の対立は日に日に高まり、一触即発という様相を呈している。

 

もう何時間も書斎の椅子にかけたままだったアンジェリカだが、詰めていた息を大きく吐き出すと、あるデータの書かれた紙を手に立ち上がった。

重い決断ではあるが、時は差し迫っている。

迷っている暇はないのだと自分に言い聞かせ、彼女は父が預けてくれた執事を呼んだ。

 

 

その日、父を招いての夕食を終えた後で、アンジェリカは父と夫の二人を居間へと促した。

娘からの招待を喜んだマッテルスブルク侯だったが、食事中とは違うアンジェリカの深刻な雰囲気に、何事かと顔を曇らせる。

 

「お父様、大切なお話がございます……。」

紅茶をもってきたメイドを下げさせて、三人だけになった部屋。

注意深く声を低め、アンジェリカは口を開いた。

事の重大さを強調するような彼女の言い方にビッテンフェルトも眉をあげ、何事かとアンジェリカの端麗な横顔を見つめる。

 

「こちらをご覧くださいませ。」

テーブルの上に、アンジェリカが一枚の用紙を置く。

そこには、銀河帝国の財政収支、貿易収支、そして国内の貴族たちが蓄えているとされている私的財産の予測額が記載されていた。

 

「アンジェリカ、これは……。」

彼女の父も夫も、まさか彼女がこのようなものを持ち出してくるとは考えていなかった。

しかし、戸惑う彼らを前に、彼女ははっきりとした口調で告げた。

 

「銀河帝国の収支は非常に厳しい状況にあります。けれど、少なくとも……財政収支については、解決の糸口がありますわ。」

「まさか!」と言ったのは、マッテルスブルク侯爵だった。

 

「いいえ、お父様。その“まさか”はすぐそこまで近づいているのです。」

淀みない口調で彼女は言い、それからビッテンフェルトを見た。

 

「リヒテンラーデ公とローエングラム侯は……いいえ、ローエングラム侯は、敵対勢力を打倒し、それを機に貴族財産を召し上げるおつもりなのですわ。」

アンジェリカから発せられた言葉に、ビッテンフェルトは思わず声を荒げた。

 

「ばかな!アンジェリカ、何を言うんだ!ローエングラム侯は……!」

ビッテンフェルトの声は彼らしくかなり大きなものだったが、彼の視線を受けてなおアンジェリカは動じず、静かな眼差しを夫に向けて問いかけた。

 

「貴族社会の不等を正す、とローエングラム侯はおっしゃっているのではありませんか。」

 

「ッ、」

 

「不等とはこういうことですわ、フリッツ様。国民の財産は、大半が貴族に偏っていて、しかもそれらはほとんど課税されることなく積み上がり続けている、そしてご存知の通り不正も多い。」

貴族の令嬢であるアンジェリカが冷静に貴族社会を論じる様子は、彼女の父にとっても夫にとっても相当に驚くべきことだったが、突きつけられた内容の衝撃のほうが大きい。

 

「これらを国庫に納めれば、財政収支は立ちどころに改善します。」

マッテルスブルク侯爵にとって、ここもとの不穏は当然心配の種であったし、ビッテンフェルトにとって、ラインハルトの思想は身近なものだった。

その二人が、顔を見合わせる。

アンジェリカは、彼らの視線の前にもう一枚の紙を重ねて見せた。

 

「これが、昨年の軍事費。そして、これが……将来の自由惑星同盟への遠征費の試算です。」

 

「遠征……。」

ごくり、とビッテンフェルトが喉を鳴らす。

ラインハルトは腐敗した現体制には是正が必要だと言っているし、この頃は貴族社会の打倒という目標を隠す様子もない。

しかし、現体制を崩壊させ、さらには自由惑星同盟領土へ侵攻すると本当に考えているのだろうか。

 

「ビッテンフェルト提督、あなたはどう思われる。」

マッテルスブルク侯爵は、素直な疑問を彼の娘婿に向けた。

 

「私は……。」

義父の問いかけに、ビッテンフェルトは考えた。

考えても容易にはわからず、しかしラインハルトの意志の強い眼差しを思い返した時、ビッテンフェルトは確信する。

頷いたビッテンフェルトに、「ああ!」とマッテルスブルク侯爵は悲鳴のような声を上げ、自分が行き着いた答えに愕然とする婿と静かに目蓋を伏せる娘とを交互に見た。

 

「ご安心ください、お父様。」

ふと、アンジェリカの声が柔らかくなり、彼女はそっと、隣に座る夫の手に自分のそれを添えた。

ただそれだけの仕草だったが、重ねられたたおやかな手の温かさにビッテンフェルトの心臓は跳ね上がり、そうなるともうアンジェリカの白く細い指先だけしか目に入らなくなる。

動揺を瞳に映す夫を前にアンジェリカは一度深く俯いて、それから憂いを含んだ瞳でビッテンフェルトを見上げてから告げた。

 

「フリッツ様がわたくし達をお守りくださいますわ。」

 

「!」

娘の言葉の意味を察したのは、やはり彼女の父親のほうだった。

新妻の指先に集中するビッテンフェルトの意識を置き去りにして、マッテルスブルク侯爵は俄かに思案顔になると、しばらくの沈黙の後でついに頷く。

 

「……そうだな、アンジェリカ。」

マッテルスブルク侯爵とアンジェリカ、父と娘の瞳が同じ意志をもってビッテンフェルトを見つめる。

 

「え……。」

真剣な父娘の様子にようやく気が付いたビッテンフェルトだったが、彼の気づかぬ間にどうやら議論は終結してしまっているらしい。

マッテルスブルク侯爵は、商人に近い感覚をもった貴族である。

交易の拠点となる星系を治め、彼の領土の多くはフェザーンとの貿易網で網のようにつながっているのだ。

温厚な人物であったが、決断は早かった。

 

「ビッテンフェルト提督。」

侯爵は、若く、力強く、そして頼りになる彼の娘婿に言った。

 

「あなたに爵位を譲ろう。」

 

「なッ……!」

ビッテンフェルトは、確かに侯爵令嬢と結婚した。

しかし、爵位を継ぐとか、領地を相続するとかそういう話はずっと先のことだと思っていたし、それどころか現実として想像したことがなかったほどだった。

それが、突然降って湧いたのである。

 

「な、なぜです……!」

思考の追い付かない彼だったが、マッテルスブルク侯爵の考えは変わりそうにない。

ラインハルトが門閥貴族を滅ぼし、財産を召し上げるというなら、マッテルスブルク侯爵家も無事では済まされない。

国内の収支改善をはかった上で、さらに自由惑星同盟への遠征を行うというのなら、資金はいくらあっても多すぎるということはないのだ。

しかし、ラインハルトの幕僚であるビッテンフェルトが当主となればどうだろうか。

 

「ローエングラム侯はいまや新皇帝の守護者。この意向、どうか提督よりお伝え願いたい。」

 

その日、銀河の歴史が一つ──確かに変わった。

銀河帝国の大貴族提督、侯爵ビッテンフェルトが誕生したのである。


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