ジークフリード・キルヒアイスが、ビッテンフェルトの新居を訪ねたのは、彼の挙式のすぐ後のことだった。
自身とラインハルトのパーティーへの不参加を詫びてから、彼は二人分の祝いの品をアンジェリカに差し出した。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。」
当主であるビッテンフェルトは外せない軍務があり不在であったため、アンジェリカと執事とで彼を迎えることとなった。
実のところ、ビッテンフェルトはキルヒアイスをあまり快く思っていない。
彼の有能さを認めているものの、ラインハルトの幼なじみという特別な場所を得ている彼に対して、嫉妬に近い感情を抱えている。
そんな事情もあってか、彼は執事に「アンジェリカにあまり近づき過ぎないように見張ってくれ」と強く言い含めていたのだが、これは一応は杞憂に終わった。
しかし、アンジェリカは、ビッテンフェルトの心配とはまた違った思いをもって訪問者を迎えていた。
「お身体の具合はよろしいのですか。」
ルビーを溶かしたような赤毛の青年が、アンジェリカに問いかける。
ビッテンフェルトの新妻は身体が弱く、ほとんど家に籠りきりであるというのは、このところの社交界やローエングラム元帥府の提督たちの間では定説となっていた。
「ええ、最近はずっと……落ち着いております。」
優しい面差しの青年を前に、アンジェリカは俯きがちに答える。
「では、ビッテンフェルト提督も安心ですね。」
「ええ。とても不思議なのですけれど……夫と結婚してから、今までのように不調になることが減ったのです。」
もっともらしく答えながらアンジェリカは頷き、目の前の赤毛の青年を注意深く観察した。
「ジークフリード・キルヒアイス」、結婚祝いを持参して訪ねてくるという彼の名前を聞いた時、彼女の胸に衝撃が走った──その名前を知っている……!
「ビッテンフェルト提督は特に壮健な方ですから、もしかしたら良い影響があったのかもしれませんね。」
はにかむようにして答えるキルヒアイスを見ながら、アンジェリカは痛む胸を隠して微笑んだ。
「そうかもしれません。」
キルヒアイスは、柔和で人当たりの良い青年だった。
アンジェリカに対して紳士的であるだけでなく、女性だからとないがしろにする雰囲気もない。
ラインハルトにとって第一の腹心だということだが、軍人然とした雰囲気さえ感じないくらいだとアンジェリカは思った。
彼女が、「前世の記憶」として持っている知識は、そう多くない。
亡くなる登場人物について記憶しているのは、ラインハルト、ヤン・ウェンリー、そしてキルヒアイスの三名のみ。
他にも幾人もの名前をまとめサイトで見たはずなのだが、今のところ思い出せていない。
他に覚えていることと言えば、ゴールデンバウム王朝がラインハルトによって滅ぼされ、銀河帝国は新しい支配者を迎えることになるということ、その新銀河帝国が自由惑星同盟も打倒し、宇宙を統一するということだけである。
何がどうなってそれらが為されるのかという時系列も、誰がどのタイミングで亡くなるのかもかなり曖昧だが、ただ一つはっきりしていることがある。
──ジークフリード・キルヒアイスは、「早く殺し過ぎた」と作者によって評されている。
一方のキルヒアイスもまた、秘かにアンジェリカを観察していた。
ローエングラム元帥府の一員であるビッテンフェルトに娘を差し出したマッテルスブルク侯爵の意図とは一体何なのか、ラインハルトもキルヒアイスもそれをはかりかねているのだ。
フェザーン回廊へと続く要所を抑えられることは有り難く、マッテルスブルク侯爵が単純にラインハルトや彼の部下たちを評価しているのであれば問題ない。
しかし、何か深い意味があるのだとしたら、それは注意が必要なこと。
「キルヒアイス様は、ローエングラム侯とは長いお付き合いなのだそうですね。」
「ええ、もう随分と古く……ローエングラム侯とグリューネワルト伯爵夫人と知り合ったのは、まだオーディンの幼年学校に入る前のことです。」
他愛もない会話の中から、マッテルスブルク侯爵の意図を探ろうとキルヒアイスは試みた。
「アンジェリカ様は長く惑星マッテルスブルクにお住まいだったそうですが、お父様の勧めでビッテンフェルト提督と?」
「……はい。」
と俯きがちに睫毛を瞬かせて、アンジェリカが頷いた。
「ご親戚は驚かれたのではないですか。」
キルヒアイスの質問は、徐々に確信へと近づいていく。
そのキルヒアイスの爽やかな青い瞳を、アンジェリカがはっとなったように見つめた。
しかし、すぐに驚きの表情を消すと、彼女は小さく首を傾げた。
「確かに……夫が貴族ではないことをあれこれとおっしゃる方もいたようですが……。」
困ったように眉を下げて見せる彼女は、それでもなお美しく可憐で、純真さを保っていた。
しかし、彼女ははっきりと言った。
「父は、肩書きや家名などよりもただ壮健でお優しい方を、と思ったようですわ。」
完璧な答えだ、とキルヒアイスは思った。
政治的な意図からきれいに外れた物言いをした彼女の聡明さに感心し、そして十分な収穫があったと思った。
マッテルスブルク侯爵に、ラインハルトを害する意図はない。
むしろ侯爵は、来るべき未来を見通した上で、最も信頼できる相手としてラインハルト配下の主要提督を愛娘の伴侶に選んだのだろう。
アンジェリカからの答えにキルヒアイスは満足し、彼女に微笑みを持って応えた。
美しいがか弱くはかない女性というアンジェリカの印象は、キルヒアイスの中で随分と変わった。
彼女の父がそうであるように、アンジェリカ自身も広い視野をもった女性なのだろう。
貴族社会の中で育った世間知らずの令嬢ではなく、父親の意図を正しく理解し、自分の役割をきちんとこなせる女性、それがアンジェリカに対するキルヒアイスの印象だった。
「あの、キルヒアイス様。」
キルヒアイスが来訪の目的を遂げ、腰を上げようとしたところで、アンジェリカが口を開いた。
「なんでしょう。」
静かに尋ね返したキルヒアイスに、アンジェリカは不安そうな視線を向ける。
「その……キルヒアイス様から見て、夫はどのように見えますでしょうか。」
故郷と自身の安全を願う彼女は、今もってなおビッテンフェルトとの未来に対する不安を払拭できないでいる。
一方で、キルヒアイスはアンジェリカの質問をやや意外な気持ちで受け止めていた。
キルヒアイスが知る「世間一般の基準」では、アンジェリカとビッテンフェルトは必ずしも似合いの夫婦とは言えない。
そのアンジェリカが彼女の夫について尋ねたことを、キルヒアイスは、アンジェリカからビッテンフェルトへの深い愛情と受け取った。
「ビッテンフェルト提督は、ローエングラム陣営随一の勇将です。軍人を夫にもつというのはご不安もおありでしょうが、あの方に限っては安心なさってよろしいと思いますよ。」
アンジェリカはまだ何かを問いたそうにしていたが、それ以上を口にすることはなかった。
キルヒアイスとアンジェリカ──二人の考えは微妙にすれ違っていたのだが、こうしてアンジェリカとキルヒアイスは対面を終えた。
(彼のような人が……死んで良いはずがない!)
穏やかで聡明なキルヒアイスの笑顔を思い出すほどにアンジェリカはそう願い、なんとか彼の運命について思い出そうとする。
ラインハルトの腹心であるはずの彼が、一体どのような理由でその身を危険に晒すことになったのか。
戦場でのことだろうか、あるいは違う場所か、考えても答えは浮かばず、歯がゆさばかりが増した。
「作者が殺し損ねた」という自分の夫とは真逆の運命を背負った青年、その笑顔を思い出して、アンジェリカはまた胸の痛みを強くするのだった。