冬にしては暖かい、穏やかな陽気に恵まれた日だった。
澄みわたる空はどこまでも高く、未来へと歩みだす二人を祝福するように晴れわたっている。
年明けを迎えて暫くが過ぎたその日、ローエングラム元帥府の艦隊司令官であるフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトとマッテルスブルク侯爵の娘アンジェリカの挙式が執り行われた。
娘の体調を心配したマッテルスブルク侯爵が「春まで待ってはどうか」と提案したが、アンジェリカは気に留めなかった。
「このところ調子が良いのです。」
微笑んで言う娘に、「もしかして本当に“壮健な軍人”との結婚が功奏したのだろうか」と侯爵は驚き、武骨さの象徴のような娘婿をまるで救世主のように感じていた。
しかし、当のビッテンフェルトはあまり元気がない。
アムリッツァの失敗を悔やんでいるのだろうと言う者もいたが、「あれに後悔などという感情があるとは思えぬ」と身近な提督たちに取り合う者はおらず、不調の原因は不明のまま。
ビッテンフェルトが彼らしさを欠いている実際の理由は、帰宅後に日々行われている「勉強会」にあるのだが、これを知る者はいない。
ビッテンフェルトが元帥府で職務に当たっている間、彼の妻は政治経済から艦隊の運用まで様々に検証と分析を行っているらしい。
日を追うごとに積みあがる知識と精度の高い考察はほとんど研究の域に入り、今やアンジェリカは、内政に外政、財務や金融についてだけではなく、艦隊戦術についてでさえビッテンフェルトと互角の議論を交わすまでになっていた。
妻が自分の仕事に関心をもってくれるというのは、世間一般で見れば望ましいことなのかもしれない。
とはいえ、ビッテンフェルトの場合、妻の知識欲は彼の想像を大きく超えたレベルであり、しかもものの数ヶ月で職業軍人たる彼の知識に追いつきつつある。
銀河帝国軍の提督が妻と軍略について会話をしているというだけでも異様だというのに、このままいけば、そう遠くない時期に教官役を取って代わられかねない。
夫としての威厳を維持するため、これまで以上に軍部内の各部署を訪ねるようになった彼は、今まではあまり寄りつかずにいた戦略計画部門や方策部門といった長期的軍略を専門とする部署や戦史資料室といったほとんど馴染みのない場所までも訪ね歩くようになり、長期に渡り休暇状態にあった脳の知識野を積極的に活動させていた。
感情の人であるビッテンフェルトにとって、知識の蓄積や論理的思考を強いられることは大変な疲労を引き起こす作業であったが、幸いなことに彼の妻は、ビッテンフェルトの感情を刺激する上で非常に有用な容姿を持っていた。
ついに訪れたその日──アンジェリカの花嫁姿は、疲れ果てたビッテンフェルトの脳に大いなる刺激を与え、なお余りあるほどの効果をもたらした。
純白のなめらかなシルクが、アンジェリカの細い身体を包み込んでいる。
裾を長く引いたウエディングドレスが、侯爵令嬢に相応しい高貴さと新妻らしい純真さとを際立たせていた。
白い薔薇にブルースターをあしらったブーケを手にした彼女が目の前に現れた時、ビッテンフェルトはあまりの感激に胸を震わせた。
アンジェリカよりも美しい女性はこの世にいないと思ったし、この清廉でしとやかな女性を妻にできる自分は宇宙一の幸せ者だと思った。
この瞬間、苦難の書斎生活は麗しい思い出へと昇華し、「美しいだけでなく聡明な妻であればなお良いではないか」と、ビッテンフェルトは自身の生活のすべてを潔く肯定した。
大神オーディンに永遠の愛を誓うと、ついに妻と夫が向き合う瞬間がやってくる。
そして──繊細なレースを捲り、そこにアンジェリカの薄紅色の口唇を見つけた時、ビッテンフェルトは確信した。
(アンジェリカは俺の女神なのだ……!)
遣わされた女神を生涯かけて大切にしようと太古の神々に誓い、ビッテンフェルトは万感の思いを込めて彼女の肩を引き寄せる。
初めて触れるアンジェリカの肩は、強く掴めば折れてしまいそうなほど華奢だった。
「ッ、アンジェリカ……。」
誓いの口付けの手前、思わず名前を呼んだビッテンフェルトに、アンジェリカの目蓋がそっと持ち上がる。
長い睫毛が間近で瞬き、思わずごくりと喉を鳴らしたビッテンフェルトを大粒の眼差しがまっすぐに見返した。
アンジェリカの目蓋が再び閉じられた時、ビッテンフェルトは息を止め、愛する妻に──二人にとって初めてとなる口付けを送る。
ほんの一瞬だけ触れたキスの後、聖堂は歓声に包まれ、ビッテンフェルトは歓喜のあまりつい涙ぐんだ。
宇宙中に響く声で、「アンジェリカは自分の妻なのだ」と叫びたい気分だった。
見れば、アンジェリカの父であるマッテルスブルク侯爵は涙を抑えることもせずに、何度も頷きながら笑顔で祝福を送っている。
なんと幸せな結婚だろうかとビッテンフェルトは思う。
何を悩んでいたのか、なぜ憂鬱になっていたのか、すべてのマイナス要素が吹き飛んで消えた気がした。
今日までは書類上の夫婦であった彼らは、この場でついに人々に認められて、一歩を踏み出すこととなったのである。
場所を移して行われたパーティーには、ビッテンフェルトの同僚であるローエングラム元帥府の提督たちも顔を出していた。
上官であるラインハルトと彼の腹心のキルヒアイス提督こそ不在であるものの、新進気鋭の提督たちの居並ぶ様子は壮観なものであった。
「本当に美しい方だったのですね。」
「どういう意味だ、メックリンガー。」
アンジェリカとの結婚について、一番はじめに相談されたメックリンガーが素直な驚きを口にする。
「いえ、決してビッテンフェルト提督の美的センスを疑っているわけではないのですが。」
十分に疑っているとわかる言い回しで彼は言い、
「美人だ美人だとあまりにおっしゃるので、逆に信じられなかったのが本音です。」
芸術家提督らしいといえばそうなのかもしれないが、遠慮なくビッテンフェルトのセンスをこき下ろすメックリンガーに周囲が苦笑する。
「しかし、マッテルスブルク侯爵というのは、よほどの酔狂者なのだろうな。」
誰よりも彼らの結婚を喜んでいるらしい侯爵の様子を眺めながら、ロイエンタールが言う。
「そう言うなよ、ロイエンタール。」
「何をどう考えたら、あんな猪のような男に娘をやろうと思うのか。卿はそう思わぬのか、ミッターマイヤー。」
ビッテンフェルトの横で俯きがちに座っている花嫁は、ロイエンタールの基準から見ても十分に美しく、彼としてはそれが納得できないらしい。
「だからといって、マッテルスブルク侯爵が卿を婿にと望んだとしたら、卿は困るのだろう。」
何度言っても身を固めるつもりのないらしい親友に向かってミッターマイヤーが言い、
「まあ、そうだが。」
ロイエンタールも渋々といった様子で頷く。
「しかし、花嫁を見ろ。俯いてばかりで、実はあまり気乗りがしないのではないか。」
ビッテンフェルトとは同期であるワーレンが、遠慮のない言葉を口にした。
「アンジェリカ嬢は、あまりお身体が丈夫ではないらしいからな。もしかしたら長いパーティーは身体に堪えるのかもしれない。」
ルッツが助け船を出すが、「ふん」とロイエンタールが鼻を鳴らして、
「ならば尚更、あの男では負担が大きかろう。」
「おい、ロイエンタール!」
まるで酒場にいるような物言いをミッターマイヤーが窘める。
「お気の毒だと言ったまでだ。」
言いながら、ロイエンタールはアンジェリカとビッテンフェルトを交互に一瞥してから視線を逸らせた。
「まさかとは思うが、手を出そうなどと考えるなよ。いくら卿であっても、ビッテンフェルトの拳には敵わないだろうからな。」
おとなしい様子のアンジェリカとは対照的に、豪快な笑顔やら、照れたり困ったりやら、バラエティー豊かな表情を浮かべて、ビッテンフェルトが来客の対応をしている。
平素の猛将ぶりが嘘のように浮足立った同僚の様子とミッターマイヤーの冗談に皆が笑って、やがて話題は世間話へと移っていった。
「あれだけ、おまえは来るなと言っておいたのに……ロイエンタールのやつ……。」
長いパーティーの後で屋敷に戻ってきたビッテンフェルトは、女性の心を盗んでは捨ててを特技とする同僚の名前を出して、一人毒づいた。
「……ロイエンタール提督?」
「い、いや!その名前は忘れてくれ、アンジェリカ!」
慌てるビッテンフェルトだったが、アンジェリカはそれきり何を言うでもない。
ほっとすると同時、一日分の疲れが襲ってきた。
身心壮健を誇るビッテンフェルトだが、大貴族からの挨拶が続いたパーティーでの心労はなかなかのものだったと言わざるを得ない。
「あ、アンジェリカも……今日は、その……疲れたよな?」
純白の衣装を脱いで平服に戻ってなお、花嫁らしい清廉さを保っている新妻に尋ねると、彼女はそっと微笑んだ。
その微笑みに──期待した。
夫婦となって数ヶ月、一緒に暮らしてからもそれなりの時間が経過しているが、夫婦の寝室は未だ別々のままだった。
それでも「式を挙げるまでは」とビッテンフェルトは自分に言い聞かせていたし、かなりの理性と忍耐を要するこの誓いを、彼は誠実に守った。
それが、ついに今夜……!
手に汗を握り、アンジェリカの返答を待つ。
「お気遣いありがとうございます、フリッツ様。確かに疲れましたので、今日はもう休ませていただきますわ。」
ふわりと背を向けて自身の寝室に去っていくアンジェリカに、ビッテンフェルトの肩ががくりと落ちる。
一瞬だけ触れた口唇の柔らかさや細い肩筋、覗き見た華奢なデコルテラインが夢の中でまでよみがえり、その晩はいつになく眠りの浅い夜となった。
「アンジェリカ……。」
愛しい妻の名前を呼ぶが応える相手はなく、やがて夜は更けていったのだった──。