ビッテンフェルトとの見合いのため、初めて故郷の惑星を出たアンジェリカは、オーディンの邸宅で彼との対面を果たした。
(……なるほど。)
心の声を表情の隅にさえ出さない慎重さで、アンジェリカは自分の夫となる人物を見つめていた。
見合い相手の容姿に感動する様子はいかにも単純な男だと思えたし、猛将という評判に相応しい見た目だとも思った。
筋骨隆々という表現が適当なまさしく武人タイプの見合い相手は、見た目の通り語彙力に乏しく、一方で感情に対して極めて素直だった。
繊細で可憐な美女のアンジェリカとビッテンフェルトもなかなかに不似合いだが、冷静に彼を観察する彼女とビッテンフェルトの中身も同じくらい不似合いで、つまり、何一つ「お似合い」という要素がない。
それでも、アンジェリカの答えは決まっている。
今日に至るまで、何度も「原作」のストーリーを思いだそうと試みたが、彼女の記憶にある知識では、ビッテンフェルト以外に夫に相応しい人物が誰かいるのか、結局わからなかった。
とにかく「死なない」ことを最優先にすると、彼しか選択肢がない。
アンジェリカは無感情な表情筋をおおいに活用し、静かに頷くことで結婚を承諾した──が、実のところは、いかにも気が合わなそうな目の前の男とどのように夫婦生活を営んでいくべきか、決して明るいとはいえない思案を巡らせていたのだった。
アンジェリカの憂鬱は、その後も広がりを見せた。
それは、「そもそもビッテンフェルトは本当に“死なないのか”」ということである。
見合いの日の彼を思い出してみると、そのたびに不安は増す一方だった。
いかにも猛将といえば聞こえがいいが、直情的な性格は噛ませ犬キャラによくいるタイプと思えたし、駆け引きなどとても無理そうな単純さはただただ心配だった。
改めて考えてみると「殺し損ねた」という表現は、そもそもかなり危うい。
要するに「作者は彼を殺そうと考えていた」、「ほんの少しの要素で死ぬ可能性がある」ということではないかとアンジェリカは思う。
それに、「原作」の世界では、ビッテンフェルトは結婚などしていなかったはずだ。
だからこそ、アンジェリカと結婚するにいたったのである。
だとすれば、この結婚こそが「死亡フラグ」になってしまうのではないか。
もしビッテンフェルトが戦死した場合、自分はどうなるだろうかと考える。
婚約者を失い、父は落胆するだろう。
そして、新しい見合いの話をもってくるに違いない。
そうなれば、まさしく「振り出しに戻る」である。
貴族と結婚しても破滅、結婚しなくても破滅──結局「ビッテンフェルトと結婚して、彼に生き延びてもらう」以外に有用な選択肢は見いだせなかった。
だとすれば、アンジェリカの成すべきことは一つ。
「とにかくビッテンフェルトを死なせない!」、それがこの世界で彼女に与えられた使命である。
アンジェリカは決意した。
そのビッテンフェルトから挙式を延期したいという申し出があったのは、夏が近づくある日のことだった。
「自由惑星同盟に不穏な動きあり」という報が帝国軍にもたらされたのだと、彼は申し訳なさそうに侯爵に説明し、アンジェリカの父はそれなりに落胆した。
病弱で故郷の惑星を出ることさえ難しいかもしれないと思われていた娘の花嫁姿を見ることは、侯爵にとって生涯の夢とも言えるものだったからだ。
しかし、マッテルスブルク侯爵の落胆は、すぐに驚きに変わった。
アンジェリカが「では、書類だけでも」と言ったからである。
いざ出撃となれば、軍人である夫が無事に帰ってくる保証はない。
もしビッテンフェルトが戻らなければ、アンジェリカは式も挙げぬまま未亡人になってしまうことになる。
マッテルスブルク侯爵は、必死で娘を止めた。
「一度決めたことです。それに、この先何があろうと、ビッテンフェルト様以外との結婚などわたくしには考えられませんわ。」
慌てる侯爵を、アンジェリカは静かに見返して告げる。
かつてなら父に従うばかりだったはずの彼女の眼差しには、今は確かな意志が込められていた。
アンジェリカの強い意志は父親を驚かせ、そしてビッテンフェルトを感動させた。
今まさに戦地へ向かう軍人と結婚したいという映画のラブストーリーさながらの申し出は、ビッテンフェルトのシンプルな思考に大いなる刺激を与え、まるで長年愛し合った恋人同士だというような錯覚さえ起こさせた。
ビッテンフェルトはほとんど感涙といっていいほど心を打たれ、マッテルスブルク侯爵に、彼の知る限りの言葉を使って感謝を伝えた。
「必ず帰ってくる」、「必ずアンジェリカを幸せにする」という彼の誓いはともかくも、愛する娘の願いに、父親が選べる選択肢は一つ。
マッテルスブルク侯爵は娘の願いを受け入れ、アンジェリカとビッテンフェルトの結婚を認めた。
そして、眩しい夏の日差しが降り注ぐ某日──二人は書類を交わして正式に夫婦となり、アンジェリカはオーディンのマッテルスブルク邸に、ビッテンフェルトはローエングラム元帥府の官舎にそれぞれ住まいながら、新しい人生のページを捲ることとなったのである。
やがて、マッテルスブルク侯爵は、ローエングラム元帥府のほど近くに新しい屋敷を買い求めた。
言うまでもなく、可愛い娘のための新居である。
戦地から戻るまでは官舎で暮らすという夫からの節度ある申し出を、アンジェリカはとくに悲しむでもなく当然のように受け入れた。
結果、主のいない「ビッテンフェルト邸」へ、妻だけが移り住んだ。
といっても、アンジェリカの場合、父が故郷から呼び寄せた昔馴染みの使用人たちに囲まれてのことである。
使用人たちが新しい調度品の手入れに勤しむ中、アンジェリカは一人──うずたかく積まれた書籍に囲まれていた。
父がビッテンフェルトから聞いてきた話では、近く自由惑星同盟との衝突が起こる可能性が高いらしい。
もしそうなれば、夫はしばらくオーディンには帰ってこない。
彼女はこの期間を、「猶予期間」と捉えていた。
ビッテンフェルトが戻るまでに──この世界を生き抜くための知恵を身につけなければいけない。
「作者が殺し損ねた男」であるはずのビッテンフェルトだが、アンジェリカにとってはその設定がすでに揺らぎ始めている。
学ばなければ、そして備えなければと彼女は考えていた。
まず何をすべきかと考える。
最初に思いついたのは、投資だ。
「前世」、社会に出て最初のキャリアが投資銀行だった彼女にとっては、一番身近なことだった。
しかし、マッテルスブルク家には有り余るほどの資産がある。
既に使いきれないほどある資産を増やしたところであまり意味があるとは思えないし、第一、近い将来ラインハルトによって貴族社会が否定されれば、財産などは意味をなさないかもしれない。
だとすれば、政治だろうと彼女は思った。
政治を知るには、まず基礎は歴史である。
ある時は歴史書をめくり、またある時は電子端末に向かい、彼女はこの宇宙と人類、そしてゴールデンバウム王朝の成り立ちについて紐解いていった。
関心は、現代の政治体制へと移っていく。
どのようにして国家が運営され、どこから予算が生み出されているのか、この国にはどんな産業があり、どんな思想が息づいているのか、学ばなければいけないことはあまりに多く、しかし時間は有限。
昼となく夜となくアンジェリカは真新しい書斎に籠り続け、ただひたすら知識を蓄積することに努めた。
いくつもの専門書や公的に提供されるデータを収集し、やがて関心の対象が夫の職業である艦隊運営に向かうと、アンジェリカは父親に頼んで艦隊戦用のシミュレーターまでもを手に入れた。
この時、彼女は大いなる不安に襲われたが、それは買い物の金額の大きさではない。
──この先に起こること、それは間違いなく血で血を洗う内乱だろう。
大貴族には莫大な財産があり、さらに星系を治めているとはいえ私設軍の保有を許される自由がある。
「原作」通り、ラインハルトが貴族社会を滅ぼすのだとすれば、各々の所領に私設軍を抱える貴族たちとの武力衝突が当然に起こるだろうと予見された。
マッテルスブルク家は、軍部に遠い穏健派とはいえ大身の貴族。
当主である父が内乱に巻き込まれずに済む保証はない。
果たして、自分がビッテンフェルトと結婚した程度で無事で済むだろうか。
考えるほどに不安は尽きないが、不安を払拭するためにはまず知識が必要──アンジェリカは一層書斎に籠りきりになり、心配する使用人たちをよそにひたすらに書類の山と格闘を続けるのだった。