ビッテンフェルト提督の麗しき結婚生活   作:さんかく日記

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【番外編】ビッテンフェルト提督の”もう少しで麗しくなりそうな”結婚生活【挿話】

大輪の薔薇より純潔を表す白い百合。

いや、それよりも春の終わりに咲く鈴蘭のような魅力が我が妻にはある、とビッテンフェルトは感じている。

光に透けてしまいそうな白い肌や可憐でありながら楚々とした澄んだ美貌、夏の暑さの前に萎れてしまう儚さもよく似ていると思うのだ。

 

(可愛らしく見えて、根や茎に毒があるというところまであるいは……。)

書籍の山とコンピューターの仄暗い光の中に埋もれて一日を過している妻の様子を思い出すと頭痛がする気もしてくるのだが、それでも不快だとは思えない。

 

「フリッツ様」と名を呼ぶ鈴のような声を思い出すと、胸が熱くなる。

恒星輝く漆黒の銀河を駆ける時や居並ぶ敵艦隊を前に激情を高ぶらせる瞬間とはまた違う、甘く胸を締め付けられるような高揚、それは紛れもなくアンジェリカだけがもたらしうるものなのだ。

 

その妻との関係は、いよいよ進退窮まった状況に置かれている。

戦場においては、「攻勢あるのみ」と猪突猛進で知られるビッテンフェルトであるが、風にも耐えぬというような妻を前に完全に攻め手を欠いてしまっていた。

夫婦のために設えられた寝室に、ビッテンフェルトは未だ一人。

私室から移る様子のないアンジェリカをどうにかして呼び寄せたいと思うのだが、ひたすらに武門の人であるビッテンフェルトに深窓の令嬢との交際歴などあるはずもなく、いかんせん方法が思いつかないでいる。

 

振り返るほどに、婚儀の夜が悔やまれる。

「疲れているか」などと尋ねずに、そのまま抱きすくめてしまえばそれで良かったではないかと思うのだ。

けれど、病がちで世間知らずという彼女の性質と触れればたちまち溶けてしまいそうな白い肌を思えば、とても強引に迫る気にはなれなかった。

それ以上に、いかにも世慣れない様子の妻に無理を強いた結果、もしも嫌われてしまったら──。

とにもかくにもそれだけは絶対に避けたいという思いが、今もって強くある。

 

 

だが、ここにきて夫婦にとって新たな問題がついに発生した。

別々の部屋で過す夜を幾晩と重ね、もはやこれが普通になってしまうのではとビッテンフェルトが危惧し始めた矢先、アンジェリカの様子が変質した。

所作がおかしいというのではない。

彼女にとってはありがちなこととも言えるのだが、ひどく塞ぎがちになって顔を曇らせることが多くなり、ビッテンフェルトの顔を見ると狼狽えるように顔を青ざめさせるようになった。

彼女の性格について、ビッテンフェルトの知るところでは、「ひどく心配性」というものがある。

有力貴族の娘として生まれながら社交界すら縁遠く、故郷の惑星で引き籠もるような暮らしをしていたのだから、ある意味では仕方のないことなのかもしれない。

世俗を知らぬ令嬢から艦艇を率いて戦線に立つ帝国軍人の妻となったことで、その明晰な頭脳も手伝い、彼女の頭は不安や心配で埋め尽くされてしまっているらしい。

 

一方で、銀河帝国内部の政治対立も深まりつつある。

第36代皇帝、フリードリヒ四世が崩御したのだ。

漁色を好み、複数の女性との間に13人の子をもうけたが、生き延びたのはわずか二人の皇女と幼い孫一人のみ。

宮廷を牛耳るリヒテンラーデ侯と皇女の外戚であるブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯の対立は深まり、ビッテンフェルトの上官であるラインハルトもこれに深く関わろうとしていた。

 

執務のため遅い帰宅が続く中、アンジェリカと顔を合わせる時間は減っている。

どんなに戻りが遅くなろうと必ず自分を待ち、夫の無事を確かめるように安堵の視線を寄越すアンジェリカを健気とも思い、もどかしくも感じていた。

 

その晩も、ビッテンフェルトの帰宅は遅かった。

いつものように使用人たちに出迎えられ、奥の居間へと向かう。

そこでアンジェリカの青白い顔が夫の帰りを迎えるのも、平素の通りだった。

 

「アンジェリカ。身体が辛いなら、先に休んでいても良いのだぞ。」

心細そうに視線を揺らして自分を見るアンジェリカについそう告げた。

はっとなったように妻の目が見開かれ、「いえ」と小さく言うのだが、その声はほとんど消えそうなほどである。

傷ついたような表情をしてアンジェリカが顔を伏せたのと、「しまった」とビッテンフェルトが自分の失言を悔いたのはほとんど同時だった。

 

「ち、違うのだ。アンジェリカ、俺が言ったのは……待っていなくてもいいという意味ではなく……!」

慌てて言い繕いながら、彼女に土産を買っていたことを思い出した。

滋養に良いと評判の質の高い蜂蜜で、彼の副官が多忙な上官に代わって街で手に入れてきたものだった。

花や菓子などあらゆるものをビッテンフェルトは妻に贈っていたが、何がアンジェリカの心に響くのかは実のところよくわかっていない。

有り体に言えば早くもプレゼントのネタ切れというところだったのだが、「奥様はお身体が弱いということですから、蜂蜜などいかがですか」という幕僚のアドバイスによってその一品にたどり着いたのである。

 

「疲れが取れて、身体にもいいらしいのだ。これはオイゲンが……。」

言いかけてまたはっとなる。

「副参謀長に選んでもらった」など、やはり余計な一言である気がした。

 

「ありがとうございます、フリッツ様。」

弱り切ったと眉を寄せるビッテンフェルトの手から蜂蜜の小瓶を受け取って、アンジェリカは礼を述べた。

微笑もうと口角を上げて見つめる仕草は不器用で、それでもなお美しい。

 

いつもの通り自室へと引き上げていった妻の後ろ姿を見送って、途方に暮れた。

なんという女性を妻にもらってしまったのだと、畏れとも後悔ともつかぬ感情がつい湧いてきている。

美術品に生命を吹き込んだかという美女である。

そのような女と自分のような武辺者が釣り合うはずがなかったのではないか、生まれも育ちも違う者同士が添うということがこれほど難しいことだとはと、勇壮な武人で知られる彼らしからぬ考えに囚われそうになった。

 

「旦那さま。」

肩を落としたビッテンフェルトに声をかけたのは、執事の男である。

アンジェリカの父であるマッテルスブルク侯が故郷の惑星から呼び寄せた、老年の紳士だった。

過保護の上に過保護を重ねたようなマッテルスブルク侯が、「娘の家を任せられる」と太鼓判を押す、いわば侯爵の腹心とも言える人物である。

 

「な、なんだ。」

夫婦関係の不調を侯爵に報告されでもしたらと身構えたビッテンフェルトだったが、執事の発言は彼の疑いとはまるで真逆のものだった。

 

「出過ぎたこととは思いますが、奥様……いえ、お嬢様のことでございます。」

幼い頃からのアンジェリカをよく知るという執事は、その篤実そうな顔に若者を諭すような優しげな表情を浮かべて言った。

 

「私はお嬢様が幼少の頃よりお仕えしておりますが……旦那さまもご存じの通り、お嬢様は世知というものにお詳しくございません。ですが、その分だけ素直で心優しい方なのです。」

 

「……うむ。」

アンジェリカに邪な部分があるとは、勿論思っていない。

そんなことはわかっていると執事の意図をはかりかねるが、老年の男はなおも言い聞かせるような表情でビッテンフェルトを見ている。

 

「お嬢様のご心配は、きっと旦那さまと同じものだと思うのですが。」

 

「!!」

瞬間、全身の毛穴が開いたようになり、冷や汗が吹き出してきた。

恥ずかしさで火照る顔を隠せずに、ビッテンフェルトは慌てた。

 

「そ、それは……!それは、俺とて男だ。妻に触れたいと思わないはずがない。だが、アンジェリカは身体が弱いと聞くし、それに俺はこのような男であるから、そのつまり……つまりだな……ああ、くそッ!」

開いた口が自然に喋り出し、ますます慌てる。

むず痒いような決まりの悪さと言い訳がましい自分への羞恥で、ビッテンフェルトの勇ましい顔は真っ赤に染まった。

 

「同じでございますよ。」

宥めるように笑みを浮かべて、執事が言う。

 

「お嬢様もきっと同じでございます。旦那さまに嫌われているのではとご心配なさっておいでなのです。」

 

「な、アンジェリカが……?!」

「嫌われるのが怖い」という惰弱を見抜かれたことは、気にしないことにした。

そんなことよりも、アンジェリカの気鬱の原因が、自分自身にあるのだとしたら……?!

 

「旦那さまからお声をお掛けくださいませ。」

 

「う、うむ……。」

執事の言葉は、慣れぬ恋に臆病になっていた男を十分に勇気づけるものだった。

勇猛にして果敢、精錬にして豪毅、退くことをこそ卑とするのが、ビッテンフェルトという男である。

猛将の呼び名に相応しく、彼は前進を決めた。

全速前進、全艦集中、一気呵成、彼が取るべき戦術は、常に前を向くことと定まっている。

 

 

「あ、アンジェリカ……!」

新妻の私室の扉を叩く声は、緊張と興奮で高く上擦ってしまった。

発した声の気まずさを「んん」と喉を慣らして整えて、もう一度妻の名を呼ぶ。

 

「アンジェリカ、まだ起きているか。」

今度は、優しく呼びかけることに成功した。

 

緊張で身体が強ばり、脂のような汗がじわりと滲む。

どれほど困難な戦局であっても恐れを知らぬ勇将の胸は、今、期待と不安という二種類の感情に激しく揺さぶられている。

呼びかけた部屋から返る言葉はなく、けれど中で人の動く気配がする。

 

「今日買ってきた蜂蜜なのだがな、何やら高級な花から集めた珍しいものらしい。そのような嗜好品に俺はあまり詳しくないが、その……とても美味いと聞いているし……。」

カタリ、と何かが当たる音がして、それからゆっくり扉が開く。

顔を覗かせたのは、未だ青白い顔をした彼の妻だった。

 

「フリッツ様……。」

けれど、その妻の表情が、ビッテンフェルトを見つめた途端にほんのりと朱を滲ませて染まる。

帝国軍随一の猛将は、進撃を告げた。

 

「ワインに入れてもいいらしい。だから、どうだろう。明日の夜は出来るだけ早く帰るから……二人で少し……話さないか。」

涼やかな湖面を染める太陽のように、アンジェリカの頬をまばゆい光が横切った。

 

「では、良いワインを……用意しておきますわ。」

花が綻ぶように微笑んで、勇気ある夫の申し出を彼女は素直に受け入れた。

思わずほっと息を吐いたビッテンフェルトに少しだけ驚いたような表情をしてから、彼女は小さく頷いたのだった。

 

 

そして、翌日の晩──

落ち着かない気持ちで一日を過し、駆けるようにして帰宅したビッテンフェルトは妻と久方ぶりの食卓を囲み、そして蜂蜜を垂らしたワインを手に向き合った。

 

「あ、アンジェリカ……?」

淡く色づく頬と葡萄酒の色に染まった口唇。

何も知らぬ清らかな乙女という風情だった妻の表情は、まるで別人のように変わっている。

 

「どうなさったのですか、フリッツ様……?」

青白く透けてしまいそうだった手の甲までが生気を帯びて輝き、細い指先がほんの少し動くだけでも艶やかに感じるほどだった。

瞳の縁を酒精に染めて夫を見る妻の表情は、その涼やかな美貌と相まってこの世の存在とは思えぬほど美しく、そして蠱惑的だった。

 

手を取ってやると、いつもは冷たいほどの指先が熱く燃えるようだ。

このまま抱き締めて口付けたいという衝動が激しく胸を突くが、きっと礼儀に反するだろう。

それに、何も急がずとも美しい妻のすべては夫である自分のものと定められているではないかと己に強く言い聞かせる。

今宵、ついに名実ともに夫婦となるのだと思えば、心震えずにはいられない。

 

「少し横になるといい。アンジェリカ、寝室に行こう。」

新妻の夫らしく、極めて紳士的に声をかけ、身体中で暴れる熱を押しとどめる。

夫に手を引かれ、アンジェリカも立ち上がった。

 

縋るように絡みつく指先の強さや甘く漏れるため息、そのすべてに感動しつつ、妻の新しい一面を知ったことに驚かされている。

美しいながらどこか人形のようだとも感じていたアンジェリカに対し、生身の女としての情熱をはっきりと感じていた。

 

「あっ……。」

立ち上がったアンジェリカの身体がよろめいて、ビッテンフェルトの逞しい胸へと倒れ込む。

「オーディンよ!」と思わず叫びそうになった彼だったが、これを耐えて細い身体を抱き留めた。

 

強く抱けば折れてしまいそうなほど華奢な、愛しい妻の身体。

襟元から覗く肌は淡い桃色に染まり、夫に触れられることを望むように色づいている。

視線は、釘付けになった。

ごくり、とビッテンフェルトの喉が大きく上下し、口に溜まった唾液を嚥下する。

 

「フリッツ様……。」

それを感じ取ったようにアンジェリカの顔が持ち上がり、勇ましい夫の顔をじっと見つめた。

 

「フリッツ様、わたくし……。」

濡れて艶めく紅い口唇に、引き寄せられる。

吐息がかかるほどの距離になり、ついに二つが触れ合うかという瞬間──

形のいいアンジェリカの口唇が「すう」と息を吐き出し、そのまま目蓋が閉じられた。

 

「あ、アンジェリカ……?」

 

今やすっかり脱力したアンジェリカの身体が、ビッテンフェルトの腕の中にある。

アルコールで火照り、そして相変わらず完璧な容貌をしていたが、彼女は確かに──眠っていた。

 

「アンジェリカ?おい、大丈夫か、アンジェリカ……!」

慌てて両腕で抱きかかえ、瞳を閉じた新妻の顔を覗き込む。

その表情は安らかで、彼女が穏やかな眠りの中にいることをはっきりと示していた。

名を呼べば、「うんん」と返事ともつかぬ反応が返ってくるが、幾度声をかけても目を開ける様子はない。

 

「なんということだっ……!」

「世間知らず」の妻は当然に酒とも縁遠いという事実を、見落としていた。

そのことに今、気づかされている。

愛しい妻は夫の腕の中にあり、しかし穏やかな眠りの世界の住人となっていた。

 

 

こうして、決意のもとにその日を迎えた二人にとって、麗しき夜となるはずの時間は、思いもよらぬ結末で幕を閉じた。

けれど、ともかくもビッテンフェルトはこの晩、夫婦の寝室に妻を迎えるということに成功した。

それは、この一組の夫婦にとって間違いなく大いなる一歩だった。

生まれも育ちも、容姿も性格も、あまりにも共通点のない歪な二人だが、どうやら生来の真っ直ぐさだけは似た性質をもっているらしい。

 

いつかきっと、心重ねるその日まで。

オーディンよ、どうか彼らの行く末をあたたかく見守ってほしい──。

 




四年に一度のビッテンフェルト提督のお誕生日に、提督とアンジェリカの結婚生活の「挿話」を投稿いたします。二人が結婚して少し経った頃……というイメージで書いています。
楽しんでいただけたら幸いです!

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