ビッテンフェルト提督の麗しき結婚生活   作:さんかく日記

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【30】この星の果てまでも

「卿は馬鹿か。」

「馬鹿」などという極めて非論理的かつシンプルな言葉が、目の前の男から飛び出したことに驚いた。

今、ビッテンフェルトの前にいるのは、彼が知る限り最も陰気で、最も侮りがたい男である。

しかし、一方で最も論理的かつ正論を述べる男だということもビッテンフェルトは知っている。

その男に「馬鹿」と言われたということは、つまり自分は真実阿呆なのかなどと思いかけ、危うく思考の迷路に入り込みそうだったビッテンフェルトだったが、「そもそも何を話していたのか」を思い出し、はっとなって首を振る。

 

「どういう意味だ、オーベルシュタイン!」

とりあえず、素直に意味を問うてみる。

侮蔑されたというのに疑問でしか返せない己が憎いが、今の彼が求めているのは剣呑なやりとりではない。

 

「……二度、同じことを言わせるのか。」

じとりと感情のこもらない視線を向けて、オーベルシュタインが嘆息した。

たとえ嘆息だけでも彼にとっては十分に人間らしい動作であったのだが、生憎と彼の数十倍豊かな感情をもつビッテンフェルトには、オーベルシュタインの嘆きは簡単には伝わらないらしい。

 

そもそも、反りの合わない二人がどうしてわざわざ顔を突き合わせているのかというのには、のっぴきならない事情がある。

離縁状を置いて出て行ってしまったアンジェリカについて、ビッテンフェルトは途方に暮れた。

悲しみも怒りも憤りも、あらゆる感情が彼の中にはあったが、どれを取り出してどれを我慢すれば良いのか、それさえもよくわからない。

妻に出ていかれたからなどという理由で出仕しないわけには行かず、彼はいつも通り職場へと向かった。

なんとか自由な時間を見つけた彼が、最初に頼ったのは同じ妻帯者であるミッターマイヤーだった。

泣きついたビッテンフェルトだったが、「俺に色恋はわからん」と彼に匙を投げられ、次にロイエンタールに押し付けられた。

彼は無言でビッテンフェルトをオーベルシュタインのもとに引っ張って行き、「うるさいから預かってくれ」とだけ言った。

せめてミュラーはいないのかと思ったが、要職を賜る最年少の同僚は彼らしい機智で見事にビッテンフェルトに見つからない場所へと雲隠れしてしまっているらしい。

要するにたらい回しにされた結果、最も相応しくない相談相手のところに巡ってきてしまったわけだが、今や国家の重鎮である彼にとって平等に悩みを打ち明けられるのは彼らよりほかにいなかった。

 

「くそう。ミッターマイヤーにロイエンタールめ……。」

オーベルシュタインなどに相談して夫婦問題が解決するわけがないとビッテンフェルトは憤り、ならば自分で考えたほうがマシだと踵を返そうとした。

 

「離縁状をもっていると言ったな。」

 

「なに?!」

背後からかけられた声に振り返ると、オーベルシュタインが表情を変えぬままでビッテンフェルトを見ている。

 

「ならばそれを置いていけ。私が最大限有効に使ってやる。」

 

「なッ……んだと?!」

アドバイスとはまるで真逆の言葉に、ビッテンフェルトの青筋が濃くなる。

長い間忌々しい相手だと思っていたが、ついに殴ってやる時が来たかと彼は思った。

 

「卿を利用した、と奥方は言ったのだろう。」

今にも殴り掛かりそうなビッテンフェルトであったが、オーベルシュタインはそれを意に介する様子もない。

 

「そんなことは貴族の結婚では当たり前だ。それを正しく理解しているというのだから、卿の奥方はやはり賢い。賢く、美しく献身的。ヒルデガルド皇妃にこの先何もないとは限らぬ、だとしたら保険をかけておくのも悪くない。」

 

「な……!」

以前、新王朝発足の祝賀パーティーで、オーベルシュタインは言った。

「美しく献身的で、政治から遠い父親がいるのなら、皇帝の后として調度良い」と。

ラインハルトの妻はもちろんヒルデガルド皇妃であるが、オーベルシュタインは「万が一の保険」としてアンジェリカの身を預かりたいなどと言う。

当然、ビッテンフェルトは怒った。

しかし、彼の怒りがいよいよ沸点へと差し掛かろうかという時だった。

 

「世の中には利用しがいなどない人間のほうが多い。だというのに、マッテルスブルク侯爵家の大領と一人娘の身柄と、それだけのものを賭けてもらっても卿は足りぬというのか。」

 

「ッ、」

貴族にとって結婚は閨閥を築くための手段であり、マッテルスブルク家はその所領の未来をビッテンフェルトに託した。

アンジェリカ自身もまた──自らの人生をビッテンフェルトに賭けた。

それだけの価値がある男だと思ったからこそそうしたのだろうと、オーベルシュタインは言う。

その何が不足かと。

 

そして、

 

「それからもう一つ。」

一体どこからそれだけの情報を得ているのかと空恐ろしくなるが、とにかくビッテンフェルトの犬嫌いまで把握していたオーベルシュタインである。

 

「卿に来た縁談のうちいくつかは、ほとんど真実のように形を変えて……マッテルスブルク殿に伝わったようだ。自分の夫が国家のための婚姻を勧められていると言われたら、賢い貴族の女性なら果たしてどうするだろうか。」

 

「!」

そこまで言ってやらねばわからぬのかと、ついにオーベルシュタインの表情が崩れた。

ビッテンフェルトの人生にとって、おそらく最初で最後であろうオーベルシュタインの呆れ顔であった。

 

「アンジェリカ……!」

ほとんど反射的に駆け出していたビッテンフェルトは、オーベルシュタインの財務尚書室の扉を勢いよく開け放ち、廊下へと飛び出した。

国務尚書の肩書きは、今は忘れた。

どれほどの重責だろうと立場だろうと、今この瞬間だけはアンジェリカ以外に優先すべきものはないと思った。

 

なぜもっと話さなかった、なぜちゃんと尋ねなかった。

なぜアンジェリカを引き留めなかった。

他に想う男がいるかなど、関係あるものか──!

 

 

「ビッテンフェルト提督……!」

激情に任せて皇宮を飛び出そうとしたビッテンフェルトを古い呼び名で呼んだ者がいた。

 

「失礼、国務尚書。けれど、それほど慌ててどちらに行かれるのですか。」

知的な光を宿すブルーグリーン、今や皇妃となったヒルダである。

 

「ヒルデガルド皇妃、失礼を……!」

重い立場であるにもかかわらず、以前のように身軽に立ち歩く様が彼女らしい。

その彼女相手とあっては、国務尚書であるビッテンフェルトもさすがに足を止めて直立せざるを得ない。

 

「は、実は……その、妻を……む、迎えに……。」

出ていかれたとはさすがに言えず、冷や汗を拭って彼は答える。

 

「まあ、どちらに。」

いつの間にかアンジェリカと親しい関係になっていたらしい彼女が、目を細めて尋ねる。

 

「宇宙港……なのですが。」

なぜと聞かれれば困る答えをビッテンフェルトが述べると、ヒルダはその明るい瞳を輝かせて言った。

 

「それではキルヒアイス様にもお会いになるかもしれませんわね。あの方も今日、宇宙港から発たれるのですよ。」

ハイネセン駐在の弁務官となるキルヒアイスの出立は、確かに今日であった。

けれど、それを改めて突きつけられるとビッテンフェルトの苦しみは増した。

もしかしてアンジェリカはキルヒアイスと一緒にいるのではないか、最悪の想像が頭を過ぎり、彼は思わず沈黙した。

 

「それにしてもおめでたいことですわね。」

 

「な、何がです……。」

なんとか絞り出したビッテンフェルトの声は、苦しみのあまり歪んで掠れてしまっていた。

 

しかし、

 

「本日はグリューネワルト大公妃がキルヒアイス様のお見送りに立たれているのですよ。大公妃様のお相手として、皇帝陛下がキルヒアイス様をお認めになる日も近いと皆申しておりますわ。ご存知ありませんでしたか。」

 

「?!!!」

すべての疑問と出来事が、一箇所に集まり、ぶつかり合い、氷解した。

 

「ヒルデガルド皇妃、失礼いたします……!」

彼はもう、目の前にいる皇妃にすら構っていられなくなった。

 

急がなくては、急いで追いかけなくては。

アンジェリカを探し出して、その手を取って、抱きしめて──そして、伝えなければ。

どうか、これからも自分の妻でいてくれと……!


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