ビッテンフェルト提督の麗しき結婚生活   作:さんかく日記

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【29】父と娘

「まずは私が病気ということにしてオーディンを離れ、しばらくしたら父親である自分から離縁の申し込みをしよう。」

マッテルスブルク元侯爵はそう言って、運命を決断した娘の背中を押した。

長く貴族社会で重責についてきた彼は、娘以上に閨閥の何たるかを理解している。

今や彼の婿は国家の重鎮であり、自分やアンジェリカの気持ち一つでつなぎ止めておける相手ではない。

物わかりよく夫との離別を受け入れた娘を哀れには思うものの、どうしてやれるものではないと娘よりも早くに父親はそれを受け入れていた。

 

気鋭の艦隊司令官であったビッテンフェルトと結婚したいと娘が言い出してからの日々を思い出せば、それでも目頭が熱くなる。

見た目の通り気ざっぱりとした彼の婿は、猛々しい猛将という評判とは対照的に、妻となった愛娘に心優しく接してくれた。

爵位を譲ることで保全されたマッテルスブルク家の大領は、今や名実ともにビッテンフェルトのものとなっている。

初めの頃こそ不慣れな領地の管理に戸惑っていたようであったが、家令の言うことによく耳を傾け、領民たちに心を配る様子は、広大な所領の主として相応しい姿であった。

 

私財をまとめて近隣の惑星に移り住んでからも、ビッテンフェルトの評判は元侯爵の耳によく届いた。

帝国元帥へと上り詰め、多忙でありながらも所領への配慮を忘れない領主のことを、領民たちが慕い、誇りに感じている様子が実によく伝わってくる。

ついに国家の重鎮へと駒を進めたと知った時の喜びは、言葉では言い表せない。

「娘にとって良き夫であってくれたらそれでいい」、そう思っていたはずだったが、同じ男であればこそ逞しい婿の立身出世は我がことのように嬉しく、頼もしくあったのだ。

 

銀河帝国に訪れた久方の平和が、自分の娘にとっては別のものになってしまったことを聞かされたのは、新しい土地で始めた事業がようやく軌道に乗り始めた頃のことである。

国務尚書という高位にあると同時、ビッテンフェルトが治める所領はフェザーンとの交易の拠点に位置している。

その彼に、未だ支配の安定しないフェザーンとの間に閨閥をという話が持ち上がっているらしいと人づてに聞いたのだ。

最初にそれを聞いたのはフェザーンの商人たちの噂話の中だったが、慌てて連絡を取ったマッテルスブルク領の家令も同じ話を耳にしたという。

いよいよ困惑し、かねてより親交のあったフェザーンの有力商人にこれを打ち明けた。

銀河皇帝その人の意向らしいという証言に愕然とした彼だったが、呆然としているだけの時間は許されないと同時に思った。

新皇帝の意思であるならば、その道は違えようがない。

未だ縁談を承諾していないらしいという婿の気概を有り難いと思うほどに、彼の将来を守らなければと強く思った。

 

ビッテンフェルトは、娘にとって常によき夫であった。

マッテルスブルクの領民にとってよき領主であった。

「ただの男であったなら」と、もはや手の届かないほど高位にある娘婿に向けられた一瞬の割り切れなさを、しかし彼は断ち切った。

 

「ああ、アンジェリカ。決してあの方を恨んではいけないよ。マッテルスブルクの土地が戦禍に巻き込まれずに済んだのはあの方のおかげだ……我々は国務尚書に感謝しなければいけないのだからね。」

別離の言葉は自分から告げたいと申し出た娘の、夫に向ける深い愛情を知ってなお、彼は決断を変えることをしなかった。

一刻も早く愛しい娘を抱きしめてやりたいと、ただそれだけを願っていた。

 

 

一方で、父への申し出の通り、夫に別離を告げたアンジェリカは、オーディンの邸宅を出て行くための準備を整えていた。

去ると言った自分に対し、「マッテルスブルクの領地はどうするのか」、「本当に生活は困らないのか」と夫は最後まで親身な言葉を向けてくれた。

 

アンジェリカの父のものであった爵位と領土は既にビッテンフェルトのものであり、離婚したからと言って彼女の父に返されるわけではない。

彼女の父もそれは承知している。

ビッテンフェルトとアンジェリカの結婚から四年、彼女の予見通りに貴族社会は崩壊し、銀河帝国はその姿を大きく変えた。

領地は戦禍を免れ、二人で暮らすには十分な私財もある。

「何も心配いらないから、早くお父様のもとに帰っておいで」と鼻をすすりながら告げた父親の言葉を伝えると、夫は「そうか」と言ったきり黙り込んでしまった。

 

泣いて縋ってしまいたい。

すべてを打ち明けて、そばにいたいと伝えたい。

けれど、それが許されないということは十分に承知している。

 

今や国家の重鎮となった夫である。

彼の身の処し方ひとつで政治が動き、時勢が変わるのだ。

離れたくないと言えば、心優しい夫は自分を守ってくれるだろう。

しかし、それを口に出してはいけないということは父親に言われずとも理解していた。

 

 

老いたダルマチアンはオーベルシュタインのもとに、そしてフェルナーも彼のもとに。

あるべき場所へと戻っていった物語を思う。

だとしたら自分は──、

 

(私は……もともと彼のもとにいた人間ではなかった……。)

だから自分もあるべき場所へ帰るのだと、自分自身に言い聞かせる。

 

離別へと踏み出すアンジェリカの脳裏に、ふと、結婚を控えて準備に追われていたいつか、恋人に別れを告げられた「前世」の記憶がよみがえる。

今はもう遠く霞む記憶──それを辿る中で思い出したことがある。

 

──もしも生まれ変わるなら……。

守ってあげたいと誰しもに思われるような女になりたいと、あの日確かに願った。

病弱でか弱く可憐な乙女であったアンジェリカ、それが神から与えられたものだとすれば、彼女の願いは叶えられたことになる。

けれど、自分を守ろうという夫に対して自分は何かを返せただろうか。

愛らしく素直で可憐な妻、それをこそ夫は望んでいたはずだ。

それなのに自分は……。

罪の意識はより一層重くのし掛かり、「夫に相応しくない」という言葉は、深くアンジェリカの心へと落ちていった。

 

(もしも……。)

もう一度生まれ変わることがあればと考えかけて、首を振る。

そんなことはもう考えたくないと思った。

たとえ離れてしまったとしても、夫と出会えたこの世をこそ大切に生きたい。

共にあれた時間を抱きしめて、明日からの日々も夫への感謝とともに生きたい。

 

見送りはいらないと使用人たちに告げて家を出て、そっと背後を振り返る。

二人、暮らした家だった。

丁寧に磨かれた白い壁は、それでも以前よりくすんでいて、夫と暮らした時間と思い出とが、アンジェリカの胸に迫る。

 

幾度も振り返り、ようやく地上車に乗り込んだ。

向かう先は、宇宙港。

父の暮らす惑星へと飛び立てば、もうオーディンに戻ることさえないだろう。


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