その日、アンジェリカはいつもの通り夫よりも早く起きて身支度を整えていた。
いつもの通り美しい絹を纏い、美しく髪を整えて朝食の席で彼女の夫を待っていた。
「おはようございます、フリッツ様。」
いつもの通り食事を終えて、いつも通りのコーヒーを飲み、そしていつもの通りに妻の頬に口付けて、いってきますの挨拶をする。
それが、ビッテンフェルトが予定していたその朝のスケジュールだった。
しかし、その日は何かが違っていた。
一緒に食事をするはずのアンジェリカの前には、空の皿が置かれているだけだったのだ。
食欲がないのだと彼女は言って、「フリッツ様の召し上がるところを見ていたいのです」と恥ずかしそうに言った。
そんな妻を愛らしいと思ったし、けれど少しばかり心配ではあった。
それが「少し」で済まないと知ったのは、朝食を終えた後のことだった。
「少しだけ、お時間を頂戴してもよろしいでしょうか。」
「あ、ああ。うん、どうした、アンジェリカ。」
膝の上に乗せた両手を重ねて、アンジェリカはビッテンフェルトをじっと見た。
時間が欲しいと言ったのに何も言い出そうとしないアンジェリカに戸惑うが、息を詰めた彼女は何度も顔を上げては言い淀みを繰り返している。
それを、待った。
「あの、」
やっぱり夜の方がと彼女は言い、一度立ち上がろうとした。
それを引き留めたのは、ビッテンフェルトのほうだった。
けれど、やはり引き留めなければよかったと直後に後悔することになった。
「フリッツ様、わたくしは……。」
ビッテンフェルトの見たことのない表情をしたアンジェリカの眼差しが彼を見ている。
思い詰めた様子で、けれど戦乱に憂いでいたかつての彼女とは違う、決意をはらんだ瞳だった。
「わたくしは……お暇を頂戴したく存じます。」
何を言われたのか、最初はわからなかった。
「暇を取る」とはどういう意味だったかと、頭の中で辞書を引いたほどだ。
「馬鹿なッ……!何を言うんだ、アンジェリカ!」
反射的に飛び出した言葉は半ば叫び声のようでもあったが、アンジェリカは固い表情を崩さずにビッテンフェルトを見ている。
「父のもとに……わたくしは戻らねばなりません。」
アンジェリカの父である元侯爵は、現在マッテルスブルク星系の別の惑星に居宅を構えて隠居生活を送っている。
その義父のもとに、彼女は戻りたいと言う。
「義父上に……何かあったのか。」
所領をビッテンフェルトに譲ってからしばらくの間は家令とともに領地の管理の引き継ぎに尽力していた義父だったが、それを終えると同時、いっそ潔いほどの引き際で隠居を決めてしまっていた。
「婿殿のおかげで早々に引退できたし、これからは余生を楽しませてもらうよ」と朗らかに笑っていた義父だったが、それが新時代を担おうというビッテンフェルトに対する遠慮であることは彼も承知していた。
「……実は、父の具合があまり良くないのです。」
移り住んだ惑星で新しく事業を始めたらしいと聞いてはいたが、まさか体調を崩しているとは知らなかった。
「そうなのか?すまない、アンジェリカ……そんなこととは知らず俺は……。」
政務の多忙に紛れて義父への礼を失していたのではないかと慌てるが、アンジェリカは首を振る。
「フリッツ様のご活躍をいつも喜んでおりましたもの。どこを探してもこんなに立派な方はいないと……ええ、父は誇らしそうにしておりましたわ。」
アンジェリカの口唇が微笑みを浮かべてみせるが、その眼差しには悲しみの色が浮かんでいる。
「だが、アンジェリカ。」
義父の不調はわかった。
それについては自分も勿論心配であるし、アンジェリカが父親を見舞うのを止めるつもりはない。
しかし、だからといって自分のもとを去るというのは飛躍しすぎだとビッテンフェルトは思う。
彼がそれを告げようとした時、アンジェリカは視線をそらして俯いた。
「どれほど身勝手なことかはわかっております。けれど、父はわたくしに自分のもとに戻ってほしいと申しておりますし、わたくしも父に応えたいのです。」
娘を溺愛していた義父がアンジェリカに会いたがるのは当然のことだと思えたが、それにしてもやはり納得のいく話ではない。
「オーディンにはいつ戻れるかわかりません。ですから……。」
父親の看病で夫のもとを離れるからそのまま別れてくれなどとは、いくらなんでも突飛な申し出で、わかりましたと容易に言えるようなことではない。
「アンジェリカ、無茶を言うな。どんなことがあっても夫婦であると俺たちは誓ったのではなかったか……?!」
「それは……。」
語気を強めるビッテンフェルトにアンジェリカは顔を上げるが、それでも首を縦に振ろうとはしなかった。
「フリッツ様、わたくしは……。」
嘆きの色に声を染め、視線を彷徨わせながら、アンジェリカが言葉を探している。
戸惑いを滲ませるアンジェリカの様子に、「ゆっくり義父を見舞えばいい。たとえ長引いたとしても自分は必ず待っているし、政務が落ち着けば自分も義父のもとを訪ねよう」、そうと言えば済むことだとビッテンフェルトは思った。
政務で多忙な自分のそばにいられないことをアンジェリカは気に病んでいるのかもしれないが、義父の身を案じる妻に、そんなことは気にするなと言ってやりたかった。
思いやり深く妻を見つめたビッテンフェルトだったが、彼女が告げた言葉は彼の求めるものとはまったく異なるものだった。
それは、彼女をこそ最愛の妻だと思い続けていたビッテンフェルトに鉄槌を打ち下ろすごとき衝撃を与えた。
「わたくしは……フリッツ様を利用したのです。」
「な、に……。」
寄越された言葉の意味をはかろうとするビッテンフェルトの前で、アンジェリカの眼差しは様々に色を変える。
不安、悲哀、そして決意──彼女の意志がどこにあるのか、見つめるほどに混乱した。
アンジェリカの繊細な睫毛が、小さく瞬きを繰り返す。
「わたくしは知っていたのです、フリッツ様。貴族社会の終焉が近いこと、ゴールデンバウム王朝さえいずれ崩壊するであろうこと。そうなればマッテルスブルク家も無事では済まない、だから……わたくしは自らの保身のため、あなたと結婚したいとお父様にお願いしたのです。」
蒼白な頬のままビッテンフェルトを見つめ、アンジェリカは言葉を続ける。
──自分を利用した、自分との結婚をアンジェリカは保身のために利用した。
冷たい水を流し込まれたように、胸が冷えていく感覚をビッテンフェルトは感じていた。
四年分の出来事を、記憶の中に振り返る。
壮健で頼りになる夫をと義父は言った、戦地へ向かう自分と一刻も早く夫婦になりたいと望んだのは他ならぬアンジェリカだった、怪我を負った自分を懸命に看護してくれた、帰還した自分を心から喜んでくれた──そのすべてが偽りであったというのだろうか。
「ローエングラム陣営の一員であるから」、ただそれだけのために自分の妻でいたというのだろうか。
オーディンから遠い惑星で暮らしていたアンジェリカが、なぜ貴族社会の終わりや新王朝の出現を予見していたのかはわからない。
しかし結果としてマッテルスブルク家は時代の風雲から逃れ、領地と平穏とを勝ち得たのは揺るぎようのない事実だった。
「邪知深い女だと……お思いになったでしょう。」
可憐な乙女と思っていた妻が政治判断のもとに自身に嫁いできたという話はビッテンフェルトの心に冷え冷えとした感情を呼び起こし、熱く抱いていた想いさえ揺らいでいくような気分にさせた。
それでも愛しいと慟哭する胸に、激しい憤りが去来する。
「アンジェリカ、俺を……謀っていたのか。」
否定して欲しいと思った。
たとえ侯爵家のための結婚であったとしても、自分たちには重ねてきた絆があるはずだと信じたかった。
「フリッツ様、どうか……どうかお許しくださいませ。」
今や消え入りそうなアンジェリカの声は、それでも頑なにビッテンフェルトを拒絶する。
「わたくしは、フリッツ様には相応しくない妻なのです。」
こんな時であってさえ彼の妻は変わらずに美しく、自分に向けられていたはずの微笑みや触れた頬の体温が記憶の中によみがえり、ビッテンフェルトの苦痛は増した。
「計算高く狡猾なばかりで……可愛げのひとつもない、それがわたくしです。貴族の生まれというのに社交界の何たるかを知らず、いたずらに知識を積み上げたところで活かすべき世知もない……そんなわたくしにフリッツ様をお支えできるとは思えません。」
過した日々のすべてを否定するように告げて、アンジェリカは俯いた。
その姿は悲しみを溢れさせているように見えたが、決して道を譲ろうとはしない頑なさがあった。
「なぜ……。」
なぜこんなにも自分と夫婦であることを拒絶するのかと問いかけようとして、思い当たった答えに愕然とする。
(ま、さか……。)
行く先を探して惑うビッテンフェルトの脳裏を過ぎったのは──ルビー色の鮮やかな髪。
(他に……想う相手がいるということか……!)
赤い髪の僚友、キルヒアイスはもうすぐ彼の希望した通りにハイネセンへと旅立つことになっている。
ハイネセンにラインハルトの腹心であるキルヒアイスを、オーディンにヤン・ウェンリーを、それが二国に交わされた講和の一文である。
(ずっと……キルヒアイスのことを?!)
つい言葉を失った。
もしかしたらアンジェリカはキルヒアイスのことを想っているのではないか、これまでに何度か描いたことのある想像ではある。
自分たちへの結婚祝いを持参してきた日、見舞いに訪れた日、そして、オーベルシュタインとともにやってきたあの時──気になるたびに質の悪い妄想に過ぎないと頭から追いやってきたそれが、悲しみの中によみがえる。
義父の病状は確かに重いのかもしれない、アンジェリカが望んでビッテンフェルトを利用したというのもあるいは事実かもしれない。
しかし、それ以上にアンジェリカを頑なにさせる理由があるとしたら……。
自分を愛していないのかとは、ついに尋ねられなかった。
それを聞くための勇気は、歴戦の猛将であるはずの彼が持ち合わせていない種類のものだった。
「フリッツ様……こんなわたくしをそばにおいてくださり、本当にありがとうございました。」
柔らかな朝日の差し込む部屋。
二人して幾度も食事をしたその場所が、今は絶望だけを詰め込んだ死刑台のごとき場所に変わる。
「アンジェリカ、俺は……。」
大切な妻だと思っていた。
生涯をかけて守り抜きたいと思っていた。
その妻から告げられた言葉はビッテンフェルトの心と脳の両方を支配し、一層深い絶望へと彼を誘い込んだ。
「フリッツ様は人の心を理解できる方、きっと良い国務尚書におなりです。だからどうか、邪魔なものは今日ここに、捨て置いてくださいませ。」
それは、積年の絆をきっぱりと断ち切る言葉だった。