新しい職務を新皇帝より賜って以来、多忙を極める夫を待ちながら、アンジェリカは一人居間のソファーに腰を下ろしていた。
三年前に父が夫に爵位を譲ると決めたのも、訪ねてきたヒルダやキルヒアイスと未来への思いを語り合ったのもこの居間だった。
どこか気詰まりな夫婦であった頃、打ち解けてからの日々、その人を支えたいと願った時間、寂しさも幸福も、多くのものが詰まった場所だとアンジェリカは思う。
今日夫が帰ったら、一日の疲れを労おう。
「お帰りなさいませ、お食事はお済みでいらっしゃいますか」、きっと夫は済ませてきたと答えるだろうから、入浴をすすめて寝室で待とう。
その日一日の出来事を、夫はいつも寝物語に聞かせてくれる。
『アンジェリカ、聞いてくれ。今日はロイエンタールのヤツがな……。』
決して折り合いが良いとはいえない元帥府出身の三人の尚書は、その距離が却って良いバランスを作り出しているらしく、頻繁に言い争いながらも順調に国を導いているらしい。
誰よりも大きな声で、誰よりも裏表のない真心を語る夫の姿を思い浮かべる時、アンジェリカの胸は温かくなる。
──かつては、そうだった。
今はそのすべてが悲しみに満たされて、明るい夫の声も、優しい指先もどこか遠い。
残された時間は決して多くはないのだという思いが、アンジェリカの心を重くしていた。
遠く離れた惑星にいる父親からアンジェリカに連絡があったのは、ほんの少し前のことだった。
アンジェリカは久しぶりに父親の顔を見たいと思ったが、「顔を見てはとても話せない」と父は言う。
何事かと問いかけたアンジェリカに、彼女の父は何度も言い淀みながら、告げた。
『ああ、アンジェリカ。この先どんなことがあろうとも、お父様はおまえの味方だよ。』
それは、彼女の夫であるビッテンフェルトに、フェザーンの有力者の娘との縁談が持ち上がっているというものだった。
ローエングラム王朝はフェザーンを支配下においているが、未だ情勢が安定してるとは言い難い。
そこで、有力者との間にいくつかの閨閥を築くことで、その支配を安定させたいと考えているらしいと父は言う。
『でも、お父様。フリッツ様はそのようなことは何も……。』
衝撃に胸を貫かれ、アンジェリカは声を震わせる。
『そうだね、アンジェリカ。きっとそうだと思った。あの方はとても優しい方だ、だから……きっとおまえに言えるはずがないと思ったよ。』
父にとってもビッテンフェルトはマッテルスブルク領を守り続けてくれた恩人であり、何よりも病弱であった娘を娶り、慈しんでくれた大切な婿である。
『聞いた話では、彼は縁談を承知したわけではないらしい。それが必要なことだとわかっていても言えぬのだろう……なぜだかは、わかるね。』
貴族の娘として生まれたからには、アンジェリカにも閨閥の何たるかは理解できる。
実際に、アンジェリカとビッテンフェルトの結婚も当初は貴族社会の崩壊から身を守るために結ばれた関係だった。
それどころか、アンジェリカは自ら望んで──彼を利用したのだ。
新進気鋭の艦隊司令官であった夫は、今は広大な領土を守るべき国務尚書である。
アンジェリカは夫に対して、「とにかく無事でいてさえくれればいい」と願っていた。
しかし、アンジェリカが望んだよりもずっと遠く、そして高い位置に彼は今立っているのだ。
自分で選んだことに、自分で幕を引く。
それは自然なことだと思えた。
彼女の選択は、彼女にとって、暗く、冷え冷えとして、あまりに苦しいものであったが、それが戦禍の中で自分を守ってくれた夫に対する恩返しではないかと思えるものでもあった。
利用価値のない自分が、彼のそばにいていいはずがない。
今や公人となった夫に対しアンジェリカは秘かな決断をし、それを父に伝えた。
『本当に……お優しい方でしたわ、お父様。いつでも、どんな時でも、わたくしたちのことを案じてくださった。けれど、いつまでもご負担をおかけすることはきっと……罪深きことですわね。』
「罪」、その言葉はアンジェリカの胸にすっと落ちていった。
あの日、生きるために夫の愛情を利用した自分が、ついに裁かれる時が来たのだと──彼女は思った。