自由惑星同盟との停戦を機に、ラインハルトは幼い女帝を退位させ、自ら皇帝の冠を戴いた。
新銀河帝国発祥の元年である。
アンネローゼはグリューネワルト大公妃の称号を贈られ、キルヒアイス、オーベルシュタイン、ロイエンタール、ミッターマイヤー、そしてビッテンフェルトの五名が帝国元帥へと席を進めることとなった。
しかし、未だ解決していない問題もある。
新銀河帝国の人事と同盟から帝国に派遣される弁務官の人選である。
長きに渡り敵対してきた両国にとって、互いに派遣される弁務官はいわば人質のような存在、当然のことながら協議は難航した。
戦局を有利に進めていた新銀河帝国はこれにヤン・ウェンリーを求めたが、未だ調整がついておらず、一方で誰を同盟領に派遣すべきかということも非常に難しい課題であった。
その頃──
実に七ヶ月ぶりとなるオーディン帰還を果たしたビッテンフェルトは、愛する妻の待つ我が家へと真っ先に向かっていた。
アンジェリカと夫婦となって三年目の夏はすぐそこだが、そのうち一年近くの日々を彼は遠征で留守にしている。
オーディンにいる間は少しでも妻と過したいとビッテンフェルトは思ったし、これほどの間離れていたことは初めてであったから、特に逸る気持ちもあった。
図々しい部下に言われた通り、彼は中継地のフェザーンで土産を買った。
オーディンで花を買い、服装の乱れがないことを確認し、そしてついにアンジェリカの待つ邸宅の門を潜る。
「フリッツ様……!」
少女のような身軽さで自分の胸に飛び込んできたアンジェリカに、ビッテンフェルトは目を見張った。
果たしてこれは本当にアンジェリカだろうかとさえ、彼は思った。
彼の妻は美しく可憐な容姿を持っているが、どちらかというと引きこもりがちであったはずだ。
国内外の不穏が高まる中では特に気鬱さを増し、ほとんど体調不良という様子であるにもかかわらず何かに追われるように薄暗い書斎に籠もり続けていた。
そのアンジェリカが、今は陽の光を浴びてビッテンフェルトの腕の中にいる。
「あ、アンジェリカ……。」
「ただいま」と照れながら告げた彼に、蕩けるように微笑んで「お帰りなさいませ」とアンジェリカが長い睫毛を瞬かせる。
薄暗い室内で表情を曇らせるアンジェリカばかりを見慣れていたせいで、素直な彼女の微笑みというのがどうにも現実感がない。
「どうかなさいましたか。」
ビッテンフェルトの逞しい腕に身を委ねたままでアンジェリカが言い、形のいい大粒の瞳が彼を見上げる。
別人のような明るい笑顔を向ける彼女は新鮮で、ずっと妻であったはずのアンジェリカに、今また恋に落ちるような気分をビッテンフェルトは感じていた。
「い、いや。だが、少し……痩せたのではないか。」
「そうでしょうか。」
「ああ、きっと痩せた……!もっとしっかり食わないといかんぞ、アンジェリカ。長く心配をかけたが、これからは情勢も落ち着くだろう。」
側にいられる時間も増えるはずだと華奢な身体を抱きしめれば、背中にまわされた腕がそっとビッテンフェルトを抱き返す。
夢の中の存在のような儚い美女であったアンジェリカも美しくはあったが、今のほうがずっといいと改めて思う。
アンジェリカもこんな風に笑えるのだ、こんなにも素直に言葉を返して、こんなにも愛情深く自分を思ってくれている。
長きに渡った戦禍は終わりが与えた奇跡に、自然と心が軽くなる。
「フリッツ様がご無事でいてくださることが、わたくしにとって一番大切なことなのです。」
「こうして笑っていてくれれば、俺はそれが一番いい。」
思えば長い間、すれ違うことの多い夫婦だった。
祝福され、世間に認められた二人であるにもかかわらず、アンジェリカはどこか内に籠もりきりであったし、ビッテンフェルトも妻に対して自信を持ちきれずにいた。
だが、それはもう過去のこと。
手を取り合い、寄り添い合って、歩いていけばいい。
決して遅すぎるということはない、二人は夫婦なのだから。
愛とは力であり、未来への希望である。
ビッテンフェルトの心は、かつてないほどの喜びに満ちていた。
それからしばらくの間は、ビッテンフェルトとアンジェリカにとって結婚以来もっとも穏やかな時間となった。
戦後処理で多忙なビッテンフェルトではあったが、ひとまずの講和によって出撃準備に追われることはない。
朝食も夕食もアンジェリカとともに過ごすことができたし、夜になれば互いに一日の出来事を報告しあって寄り添った。
「要職と弁務官さえ決まってしまえば、時勢も落ち着くだろう。」
「皇帝陛下もお悩みになっていらっしゃるのですね……。」
時代は確実に新たな段階へと入っており、これまでの軍事中心から内政中心へとラインハルトも視線を移さざるを得ない。
言うまでもなく傑出した英雄であるラインハルトだが、本当の意味で皇帝としての真価が問われる時期はこれからだとも言えるだろう。
「本人の才もあるし、これまでの武功へ報いる必要もある。難しい采配だが、あの方ならばきっと良い案をおつくりになる。」
なかなか定まらない人事案はそれが今後の銀河帝国にとっていかに重要なものかを示しており、ラインハルトの熟慮の様子が伺われた。
「そうですね。特に国務尚書や財務尚書は、戦後の政治運営の要……難しい選択ですわね。」
そう言ってから帝国領土内の不均衡にアンジェリカは触れると、貴族社会が崩壊したとはいえ未だ軌道修正の道筋が見えたとは思えないという不安を遠慮がちに口にする。
「自らが恵まれた立場にあるのに、このようなことを申すのはおかしなことかもしれません。けれど……辺境の生活や身分制度による就労の壁についてなどは、調べるほどに課題が多いと感じざるを得ません。」
自分と出会った頃は政治経済からそれこそ軍事軍略まで幅広いことに興味を示していたアンジェリカであったが、このところは行政改革の行方について特に強い関心を抱いているようだった。
「平時であればこそ行政、財政は国の要。辺境や庶民の生活にも目を配ってくださるような方を選んでいただきたいと願っておりますわ。」
何不自由のない暮らしをしてきたアンジェリカが人々を思う様にビッテンフェルトも感心するが、「フリッツ様が教えてくださったのです」とアンジェリカははにかむようにして頬を染める。
「わたくしがいかに世間知らずであったか、今は恥じ入る思いです。」
「そんな風に思う必要はないと思うぞ。一人一人が国を思うことが大事なのだ、それぞれができることをすれば、国は今よりもずっと良くなるはずだからな。」
アンジェリカの博識はビッテンフェルトも認めることであったし、何よりもそれが自分の影響だと言われれば嬉しくもある。
「財務尚書はカール・ブラッケかオイゲン・リヒター辺りだろう。皇帝陛下の腹心とは言えない分不安はあるが、この道においては第一人者だからな。」
ラインハルトのもとに社会制度の改革にあたってきた二人の貴族は、名前からあえて「フォン」を外している急進派である。
彼らの有能さはビッテンフェルトも聞き及んでいたが、一方で不安があるのも事実だった。
ともすれば急進的すぎる考えに傾く可能性をはらんだ思想家でもあり、発足したばかりのローエングラム王朝にとっては、あるいは諸刃の剣となりかねない。
「国務尚書は、マリーンドルフ伯であろう。フロイライン・マリーンドルフの父親だが、早い段階から皇帝陛下に賛同を示され、お支えしてきた立場であるし、経験としても申し分ない。」
「ヒルデガルド様のお父様……。」
アンジェリカは、一度ヒルダと会ったことがある。
体調を崩したアンジェリカを見舞いに、ヒルダがビッテンフェルトの家を訪れたのだ。
「マリーンドルフ伯のことは存じ上げませんが、ヒルデガルド様のお父様であればきっとご立派な方なのでしょうね。」
安心したように目を細めるアンジェリカの頬に、ビッテンフェルトは触れた。
「俺は軍人だからな、平時であれば暇になる。だが、それも悪いことではないだろう。」
ローエングラム元帥府で旗艦を賜って以来、彼は激動とも言える日々を駆け抜けてきた。
今やそれも一段落ついたと思うと、猛将であるはずのビッテンフェルトも別の時間を欲しいと思う気持ちが湧いてきている。
「アンジェリカ……。」
陶器のように滑らかな頬がうっすらと色付く様に、愛しさが募る。
胸に浮かんだ言葉を発そうとするビッテンフェルトだったが、まっすぐにアンジェリカに見つめられるとつい照れて言い淀んでしまう。
「その、ああと……あれだ。いや、その……なんというか……。」
そっと向けられた眼差しに映る自分の姿を見れば、心臓の音が大きくなる気がした。
アンジェリカの透明度の高い澄んだ瞳が、今は夫である自分だけを見つめているのだ。
「こ、子どもが……ッ、できたら良いなと、思うのだが。」
「子ども……。」
夫婦となってしばらく経つが、未だ二人に子はいない。
結婚当初にはすれ違う時期もあったし、戦時のビッテンフェルトは多忙を極めていたため、それも仕方なかったのかもしれない。
しかし、平時となった今、できれば家族をというのがビッテンフェルトの願いだった。
それを告げた。
「まあ、フリッツ様。」
顔を赤らめさせた夫の言葉に、アンジェリカも頬を染める。
「ええ、わたくしも……そうなったらいいなと思っておりましたの。」
「そ、そうか……!アンジェリカもそう思うか!」
言いながらまた照れくさくなってビッテンフェルトは視線をそらすが、アンジェリカのあたたかな眼差しが彼を追いかける。
「フリッツ様……?」
「い、いや……なんだか暑いな、今日は!」
苦し紛れの一言にアンジェリカは「ふふ」と小さく笑って、ビッテンフェルトの胸に細い身体を預ける。
紛れもなく彼だけのものである妻の身体を抱き寄せれば、甘く花のような香りがしてビッテンフェルトの思考をゆらりと溶かしていく。
「アンジェリカ……。」
名前を呼んで口付けると、柔らかな妻の口唇がそれに応えるように細く吐息を吐き出して──。
この時が永遠に続けば良いと、彼らは願っていた。
そして、願いは今まさに身を結ぼうとしていた。
ようやく許された穏やかな時間の中で、大神オーディンの前に誓った愛を彼らはまた──確かめる。