アントン・フェルナーは失意の中にいた。
ビッテンフェルトの幕僚として
「ダメだったのか……。」
はからずもラインハルトの秘書官ヒルダと巡り会ったアンジェリカから、「英雄の苛烈さを諫める存在も時には必要だ」という考えを彼女に伝えることができたとは聞いていた。
しかし、それが十分とは言えないことは彼も承知している。
ラインハルトとヒルダの間に主君と臣下以上の関係が生まれれば、この先に待つヤン・ウェンリーとの直接対決や多くの犠牲を強いることになる同盟領征服作戦を止めることができるのではないかと期待していたのだが、どうやらそれは叶わなかったらしい。
フェルナー自身の考えでは、アンジェリカと出会ったことでビッテンフェルトの性格や思考はやや変わったと感じていたし、自分が仕えている相手もオーベルシュタインではなくビッテンフェルトになった。
何よりもキルヒアイスが救われたのだ。
だとすれば、もっとラインハルトにも大きな変化があってもいいのではないかと彼は願っていた。
しかし、「歴史」は、彼の記憶の通りの方向に確実に進んでいる。
ヒルダでもキルヒアイスでもこの遠征を止めることができないのだとすれば、後はもう「原作」通りの道を進むだけなのかもしれない。
そうなれば──また多くの人が死ぬ。
──「歴史」が、再び異なる方向に舵を切ったことを知ったのは、担当星域に進軍しているはずのキルヒアイスの艦隊から送られた通信を、
作戦では、同盟領各地に諸提督を派遣してラインハルト自身が囮となり、ヤン・ウェンリーをおびき出す。
この上で、幾重にも重ねた防護壁で同盟軍の消耗をはかり、やがてヤン・ウェンリーを討ち果たした後に、ラインハルト自身がハイネセンを急襲することになっていた。
自らの戦域へ向かうビッテンフェルトやフェルナーがそれを知ることはなかったが、ヤン・ウェンリーがこの策を見破り、疑似艦隊をつかってブリュンヒルトと各艦隊の分断をはかったところまでは、「原作」通りに事が運んだ。
キルヒアイスの生存により「原作」以上の機動力を有していた帝国軍であったが、ブリュンヒルトの孤立化とヤン・ウェンリーによる集中砲火までは、ほとんど「原作」通りの流れを辿ったのである。
しかし、
「閣下、キルヒアイス提督から通信です。」
キルヒアイスからの通信を上官に告げながら、フェルナーは言葉にできないほどの高揚と安堵を感じていた。
「ビッテンフェルト提督。ローエングラム公の旗艦は未だ通信状況が不安定であるため、代行として私からご連絡いたします。」
キルヒアイスの赤い髪が、モニターの中に鮮やかに映し出されている。
「ローエングラム公はたった今……自由惑星同盟に停戦の申し出をされ、これは受理されました。」
ミッターマイヤーとロイエンタールによるハイネセン急襲ではなく、他ならぬラインハルト自身によって停戦が申し込まれ、自由惑星同盟にも受理されたという。
「停戦……?!」
驚きを露わにしたビッテンフェルトだったが、すぐに居住まいを正すと「承知した、追って指示を待つ」と短くキルヒアイスに連絡を返す。
彼はまだ知らないが、ラインハルトが停戦を決意したのには大きな理由があった。
それは──乗艦を押しとどめるも聞かず、彼のブリュンヒルトに乗り込んだ一人の女性の存在だった。
ヒルダを乗せていなければ、ラインハルトはたとえ命を賭けた決戦であっても矛を収めることをしなかっただろう。
しかし、彼はその苛烈なる剣を収めた。
ヒルダという一人の女性のために。
『自由惑星同盟政府は、銀河帝国からの講和の申し込みを受け入れる……!』
終始に渡り戦況を優位に進めていた銀河帝国からの停戦申し入れを、自由惑星同盟の政治家たちは受け入れた。
ラインハルトを打ち破ろうとしていたヤン・ウェンリーの善戦よりも黄金の獅子からの停戦の申し出が甘美であったいう点は、首都襲撃を経ずともどうやら「原作」と同じだったらしい。
やがてハイネセンより通達がなされ、ラインハルトとヒルダ、そしてキルヒアイスが自由惑星同盟の首都へと向かうこととなった。
地上からの通信を聞きながら、フェルナーはひそかに隣に立つ上官の顔を盗み見る。
そこにあったのは──誰も見たことのない表情を浮かべた猛将の姿。
彼が知る「原作」の中のビッテンフェルトであれば、きっとそんな顔はしていなかっただろう。
しかし、彼は今、フェルナーと同じように安堵の表情を浮かべている。
「あの」ビッテンフェルトが、安堵の表情をもって停戦を受け止めているのだ。
──「歴史」は、変わろうとしている。
ビッテンフェルトやキルヒアイス、ヒルダが少しずつ未来を変化させているように、ラインハルトもまた、苛烈な軍人皇帝ではない未来を選ぶことになるのかもしれない。
そうなれば、きっと平和は近いはずだ。
講和条約の締結のためにハイネセンへと向かったラインハルトをキルヒアイスが迎え、手を握り合う様子を、フェルナーは未だ宙域にとどまった
高速通信を通じて送られてきた映像の中、黄金の髪を揺らすラインハルトはどこまでも神々しく、その隣にはキルヒアイスの赤い髪が寄り添っている。
ラインハルトの隣にキルヒアイス、それは彼が最も強く求めていた「歴史」の形でもあった。
なんと感動的な光景だろうかと、フェルナーは今日までの日々を振り返って思う。
「これで閣下もご自宅に帰れますね。」
ハイネセンの街へと降り立つラインハルトを感動の眼差しで見つめる上官に告げると、「余計なことを」というねめつける視線が返ってくる。
だが、それが嬉しかった。
心地いいと思った。
「フェザーンで奥様に土産を買われては?」
軽い調子でそう言って、不機嫌と上機嫌を行ったり来たりする上官の顔を見る。
これ以上何か言えば、短気なビッテンフェルトに悪態をつかれるのは目に見えている。
だが、それも悪くないと思えた。
未来は今、彼の望む通りに動き出したのだから。