ジークフリード・キルヒアイスは、ラインハルトの一番の腹心である。
しかし、「もはや“だった”と過去形にすべきではないか」とキルヒアイス自身は思っている。
今や全宇宙の半分を手にしたラインハルトに対し、「キルヒアイス提督の特別扱いをやめるように」と参謀役であるオーベルシュタインが進言したことは、彼自身も知っていた。
もはや過去のラインハルトとキルヒアイスではない、ラインハルトは宇宙最高の権力を手に入れつつあるのであり、だとすれば誰か一人の部下を特別待遇するべきではなく、忠臣たちを等しく扱うことでこそ、彼らの力を引き出し、万事が成せるというのである。
寂しいとただ純粋に思いつつも、それが必要なことだとキルヒアイスも理解している。
「キルヒアイス提督。」
見るともなしに空を眺め、ラインハルトやアンネローゼと出会った頃に思いをはせていたキルヒアイスに、背後から声がかけられた。
振り返れば、くすんだ金色の髪を短く切りそろえた女性、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフが立っていた。
「フロイライン・マリーンドルフ。」
ラインハルトの首席秘書官である彼女の名前をキルヒアイスは呼び返し、「なにか」と問いかけた。
「いえ、」
独立心あふれ、闊達な彼女にしては珍しくふと視線をそらして、
「申し訳ありません。考えもなしに話しかけてしまって……。」
そう言って口ごもる。
「私のほうこそ、職務中にこのような態度ではいけませんね。頼りない有様では、ローエングラム公や提督がたの足を引っ張ってしまう。」
ラインハルトに並ぶほどとも言える意志の強さをもった彼にしては弱気な発言だった。
その言葉の微妙な機微を、ヒルダはすかさず捉えた。
「何か……お悩みがあるのではないですか。」
冷静な観察眼をもつ彼女の一言にキルヒアイスは苦笑し、しかしそれを言うべきかと迷う。
迷い、やはり口にすべきではないと、彼らしい微笑みでやり過ごそうとした時だった。
「お待ちください……!」
ヒルダのほうが慌てた様子で彼を呼び止めた。
「キルヒアイス提督のお悩みは……もしかして、わたくしと同じものではないでしょうか。」
いつもは活き活きと輝くブルーグリーンが、今はわずかに憂いを帯びている。
その瞳の中に、キルヒアイスも確かに同じものを見た。
彼らが案じていること──それは、これから始まるであろう大きな戦いとその後に待っている広大な未来。
はかり知れないほど広大なその未来の予想図を、美しく描ききれないでいることへの戸惑いだった。
ラインハルトの視線の先には、自らの手によって統一された宇宙が見えているはずだ。
そして、それは現実のものに近づきつつある。
それなのになぜ、自分たちは輝かしい未来を描けずにいるのか。
それは、彼ら自身こそが感じている不可思議な戸惑いだった。
不正を廃し、公明で正大な治世を、それがラインハルトの嘱望するところである。
彼の人ならば成し得るはずと彼らは思い、ラインハルトのためならばどれほどの知力でも尽くそうと決めている。
不安を口にすることは、彼の臣下として相応しくないとわかっている。
しかし、言えないままの不安を心の奥に仕舞い込んでいることを、彼らは互いの視線で理解した。
ラインハルトは破壊と再生を宇宙にもたらす創造主であるが、果たして彼は安定と成長を促す導き手となり得るのだろうか。
そうであって欲しいと願い、きっと彼ならばと望み、それでも不安を捨てきれない理由──それは、とりわけ軍事行動を好む若き征服者の性質と、彼がオーベルシュタインという劇薬を腹に飼っていることにある。
実際に、ヴェスターラントでの事件について、キルヒアイスはラインハルトと意見を対立させたことがあった。
臣下である自分がラインハルトに従うのは当然のことで、意見したことを咎められれば結局は引き下がるしかなかった。
それに──いつかはわかってくださる、ラインハルト様であれば。
誰よりもキルヒアイスこそがそう願っている。
「……平和を選ぶ道はないのでしょうか。」
女性らしく平和と安定を願う気持ちを前面に出して、ヒルダが問う。
しかし、それを口に出すこと自体が危険をはらむものであることは疑いようがない。
危うい問いかけにキルヒアイスも思わず緊張し、慎重に言葉を選んで答えた。
「覇道に犠牲はつきものと思いますが、それが多すぎるということがあって良いとは思いません。」
彼は知っていた、講和の道を選ぶつもりなどラインハルトは毛頭ないこと、そして、自由惑星同盟征服に向けた本格交戦の号砲の用意がオーベルシュタインの手によって着々と進みつつあることを。
ヴェスターラントの一件でラインハルトとキルヒアイスの間に生じた溝は、その後の親交をもっても埋めきれたとは言い難い。
その隙間にオーベルシュタインという存在が入り込んでいる現状は、キルヒアイスにとって苦々しく歯がゆいものだった。
「これからも、我々はすべてをもってローエングラム公をお支えしていかなければなりません。」
これ以上の議論は危険であるとキルヒアイスは判断し、ヒルダも彼の言葉に従った。
ラインハルトの側を離れるつもりも、まして彼を裏切るつもりなどない。
けれど──創造のための破壊がもたらすものは、本当に彼の人の望む光なのか。
戦いの先に待っているものは、果たして真実の平和なのか。
若き英雄の苛烈さと彼に付き従う影、そこから生み出される世界を彼らは信じきれないでいる。
そして、偉大なる王のために自分たちが果たせる何事かはないのかと、ラインハルトを慕う彼らだからこそ迷い佇む気持ちを抱えているのだった。
「ところで」と、キルヒアイスは話題を転じた。
彼がアンジェリカの名前を出したのは、今後もヒルダと会話をする自然な理由づけを求めてのことだった。
「ビッテンフェルト提督の奥様は、あまり具合がよろしくないとか。」
「まあ、そうですの。」
初耳というようにヒルダは驚いて、随分と妻を溺愛していると噂に聞くビッテンフェルトのことを思い浮かべる。
「ええ、ミッターマイヤー提督の奥様がご自宅に伺ったりもしているようですが。ビッテンフェルト提督は特に奥様を大切にしていらっしゃいますから、心配なことですね。」
ヒルダもまた、キルヒアイスの意図を正確に汲み取った。
「では、わたくしもお見舞いに伺おうかしら。女性同士でお話しすれば、気が紛れることもあるかもしれません。」
「ええ、是非そうして差し上げると……ビッテンフェルト提督も喜ばれるでしょう。」
彼らはアンジェリカとビッテンフェルトについていくつか言葉を交わし、そして別れた。
キルヒアイスはビッテンフェルトにアンジェリカの様子を尋ね、ヒルダはラインハルトにビッテンフェルトの妻が病気で伏せっているらしいとさりげなく伝えた。
そして、その週の半ばに、ヒルダは見舞いの花束を抱えて、ビッテンフェルトの私邸を訪れたのである。