「どう、何か進展があった?」
上官の妻に対するとは思えない気軽さでフェルナーが話しかけるが、アンジェリカがそれを問題にする様子はない。
書斎の中にいる間、彼らは共通の「事情」を抱えた冒険者であり、最大の協力者なのだ。
「残念だけど……。」
彼女の書斎には、今後起こるであろう出来事のシミュレーションや対策について記されたファイルが新しく積み上げられている。
「キルヒアイス提督生存ルートにおける各事項の変化に関する予測」、「オーベルシュタイン総参謀長による謀略とその結果」、「自由惑星同盟との各戦役と結果について」といった様々にラベルの貼られたファイルがあるが、そのどれも未だ有効活用にいたっていない。
特に、「地球教とテロリズムについて」というファイルには、ほとんど新しい情報さえ加えられないままだった。
「そっか、なかなか難しいものだね。イゼルローン攻略の後援部隊としてミュラー提督が出撃したし、”原作”通りならロイエンタール提督とミッターマイヤー提督の援軍がもうすぐ派遣される。となると……。」
ローエングラム元帥府の主要提督のうち、最初の犠牲者となるのは、「原作」通りであればケンプ提督である。
二人の子をもつ父でもある彼を救う方法はないものかとこれまでもフェルナーと二人で議論を重ねてきたが、ガイエスブルクのワープアウト実験を差し止める方法は思いつかないまま、作戦はついに実行に移っている。
ため息をついてファイルをめくっていたフェルナーが、ふと脇の書棚に押し込まれた書類の束を見つけた。
ファイリングされていないそれを手にとって、彼は目を丸くした。
「“戦前、戦後のインフレ率予測”、“税制改革に関する素案”、“社会保険制度の導入に関する試算”って……何これ?いつの間にこんなもの……。」
「ああ、それは息抜きに少し……。」
「い、息抜き?!どういう頭してんの?!」
わずかの期間にアンジェリカがつくりあげたらしい「趣味の作品」に絶句して頭を振り、フェルナーはしばらくの間、それらの書類をぱらぱらと眺めていた。
「ああ、これは俺も思ってたやつだ。“産業育成と銀行制度改革について”、“証券取引所の設立に関する法整備について”。専制政治だからなのかな、昔あったはずのものが当たり前にないのが不思議だよね。」
ラインハルトのもとには、カール・ブラッケやオイゲン・リヒターといった財務顧問がおり、あるいは彼らもこういった施策を模索しているかもしれないとフェルナーは言う。
しかし、今のところラインハルトは軍事行動に重きをおいており、経済問題などはこの財務顧問二人が中心となってあたっているらしい。
「新法なんかもできてるけどね、まあ優先順位ってやつなのかな。個人的には、ローエングラム公は内政に集中してもいい時期に来てると思うけど、あくまで自由惑星同盟の制圧にこだわってるっていうところは“原作”通りだね。」
「原作」通りであればいずれ皇帝となるラインハルトだが、軍人皇帝というより皇帝軍人といったほうがイメージに近いのだとフェルナーは言い、軍事力による解決と宇宙全土の制圧にこだわること、そして、自らの手で「ヤン・ウェンリー」を打倒することを目標にしている点が彼の「原作」における特徴なのだという。
「親友であるキルヒアイスが生き残ってくれたわけだから、そのあたりの攻撃的な部分が変わってくれてるって期待したいんだけど、どうなんだろうな……。」
「原作」における最大の分岐点を過ぎたはずなのにあまり違いがないように感じるとフェルナーは思案顔で言って、それから手にしていた書類を棚に戻さずに揃え始める。
「こういうのもさ、ファイルしておいたらいいんじゃないかな。社会保険とか医療制度改革とか、いつか世に出せたら役に立つかもって思うし。」
フェルナーの言葉に、思い詰めた様子だったアンジェリカも頬を緩める。
「そうね。自分が貴族の身分だからあまり気づかずにいたんだけど、フリッツ様……ええと、ビッテンフェルト提督が辺境とか平民の暮らしがもっとよくなったらいいのにってよく言ってて……。」
マッテルスブルク家の所領を受け継いだビッテンフェルトは、当初こそ自分の立場に戸惑いを見せていたものの、今では領地、領民に心を砕く良き為政者と所領の民にも随分と慕われているらしい。
そのビッテンフェルトの影響を受け気になって調べたのだと告げたアンジェリカの微笑みに、フェルナーが意外そうに眉を跳ねさせた。
「へえ。」
「なに?」
「いや、ほら。なんか……君と旦那さんってあんまり合わなそうだなって思ってたけど、案外そうでもないんだなって。」
「ッ、」
アンジェリカの顔が赤い。
それは、フェルナーから見てもかなり珍しいことと言えた。
ビッテンフェルトのほうはいかにもアンジェリカを溺愛しているが、アンジェリカからはあまりそういう要素を感じたことがないと思っていた彼としては、なんとなく彼女の反応が嬉しくもあった。
「でも、あの人ってそういうところあるよね。艦隊の運用でもさ、攻撃一辺倒かっていうとそうでもなくて、案外、後援の補給部隊とか病院船なんかに気を配ってるんだよね。」
ビッテンフェルトに対する援護射撃のつもりでそう言ってみると、アンジェリカは曖昧に視線を揺らしたが、結局「そうなんだ」と小さく呟いただけだった。
しかし、ここで引いてしまってはせっかくの「ワイヤーロープの神経」が泣く!と彼は思った。
「いい旦那さんだと思うけどねえ。それとも……誰か他に気になる人でもいるの?!」
彼らしい思い切りの良さで、あっさりと尋ねてみせる。
「原作」の女性人気なら、キルヒアイスかロイエンタールあたりだろうかと興味半分で問いかけるが、
「はあ?!」
およそ貴族令嬢とはほど遠い反応を返した後で、「いないから、そんなの」とアンジェリカは憮然として沈黙してしまった。
「ふうん。」
聞いたフェルナーのほうとしてもさほど重要と思って尋ねていないので、それきり深追いはしなかった。
一方のアンジェリカは、元のファイルに戻り、改めて前途多難な状況にため息をつく。
その脳裏に、一人の青年の姿が浮かぶ。
その人は、体調が優れないと噂になっているらしいアンジェリカ宛てに、つい先日も花束を送ってくれていた。
一度目は結婚の祝いに、二度目は負傷した夫を訪ねてやってきたその人のことを思い出し、「もしかして彼ならば」とアンジェリカは思う。
ラインハルトに最も近い人物であり、「原作」と最も違う未来を歩んでいる人──ジークフリード・キルヒアイスならばあるいは……。
キルヒアイスから届けられた花はディーライトの白い花弁の花束で、今は玄関の花瓶に活けられている。
その人の穏やかな笑顔と眼差しを記憶の中にたどりながら、アンジェリカはまた書類へと目を戻した。