ガイエスブルク要塞がついにワープアウトに成功し、イゼルローンの攻略作戦が始まる頃、アンジェリカは以前にも増して書斎に籠もるようになっていた。
やがてミュラーの艦隊が後援のために出撃すると、ビッテンフェルトの職務も忙しさを増した。
彼自身は出撃を命じられてはいないものの、近づく自由惑星同盟との決着に向けて、艦隊の調整やら作戦の立案やらで帰宅が遅くなることもしばしばだった。
そんな中、もともと身体が丈夫ではないらしいアンジェリカが一層塞ぎ込んでいる様子は、ビッテンフェルトの心配の種だった。
落ち込むアンジェリカを見るたび、苦手な犬を譲渡してしまったことさえ後悔するようになっていたビッテンフェルトだが、まさか返してくれとも言えない。
使用人たちが言うには、アンジェリカは一日のほとんどを書斎で過しているそうだし、あまり眠れないのか、夜になってもなかなか寝室に戻ろうとしない。
塞ぎ込む妻の側についていてやりたいとは思うのだが、艦隊司令官である彼にとってそれはとても許されることではなかった。
夜遅く帰っては花や紅茶や菓子などを手渡すのが精一杯なのだが、翌朝にまた顔を合わせると、日ごとに白さを増すアンジェリカの肌が今にも消える淡雪のように見えて心配で仕方ない。
「アンジェリカ、辛いなら横になっていたほうがいい。」
「ありがとうございます、フリッツ様。わたくしは大丈夫ですわ。ですから、フリッツ様……今日もどうかご無事で。」
青ざめた表情で我が身を案じてくれるアンジェリカが愛おしい。
妻のためならばなんだってしてやりたいのにと思うビッテンフェルトだが、アンジェリカは「どうかご無事で」と繰り返すだけだった。
いつも通りの豪毅さをもって職務に当たりながら、しかし時々顔を曇らせるビッテンフェルトに声をかけてきた人物である。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは、ローエングラム元帥府の中では珍しい妻帯者である。
この点においてビッテンフェルトと共通点のある彼が、ビッテンフェルトの様子がいつもと違う理由に気がついたのだ。
「ビッテンフェルト。もしかして、卿は奥方のことで何か悩みがあるのではないか。」
問われて驚いたのは、ビッテンフェルトだ。
「な、なぜわかったのだ!ミッターマイヤー?!」
相手の洞察力の鋭さに驚くが、ミッターマイヤーは照れたように笑って、
「なに、俺もエヴァと何かあると……まあ、ちょうど今の卿のような感じになるのだ。」
同じ妻帯者同士、夫婦間に問題を抱えている時の顔は職務におけるそれと違うとすぐにわかると言う。
「そ、そういうものか。」
ビッテンフェルトも照れるが、生憎とミッターマイヤー夫妻の悩みとは異なっている。
とはいえ妻をもつ身である彼の言葉はありがたく、ビッテンフェルトは素直に悩みを打ち明けた。
「アンジェリカのことなのだが……最近ずっと落ち込んでいるし、あまり体調もよくないようなのだ。」
何も出来ない歯がゆさと心配な気持ちとをミッターマイヤーに告げると、少し予想外だったらしい彼は言葉を飲んで腕を組んだ。
「もともと身体が丈夫ではないからな、あまり無理をさせたくないのだが……原因もわからぬし、困り切っているのだ。」
豪快な男らしさで知られる彼が肩を落とす様子に、相談を受けたミッターマイヤーも思案顔になる。
「失礼を承知で伺うが、何か病気というわけではないのだな。」
「あ、ああ。それは医者にも診てもらった。」
「となると、やはり気分のせいも大きいのではないか。」
ミッターマイヤーに言われると、ビッテンフェルトの不安は大きくなる。
軍人の妻になどなったばかりに心労をかけているのではないかとか、自分に不足があるのではないかと、後ろ向きなことばかりが浮かんでくる。
そんなビッテンフェルトに向かって、ミッターマイヤーは意外な提案をして寄越した。
「そうだ、女には女の気分転換があるらしいぞ。」
「なに?」
ミッターマイヤーいわく、彼の妻、エヴァンゼリンは明るい性格だが、それでも女性特有の気鬱で落ち込むことがまれにあるらしい。
そんな時、彼の妻は好きな菓子作りに没頭したり、一日中買い物にでかけたりして気分を紛らわせるらしい。
身体が丈夫でないなら買い物は億劫だろうから、「妻を紹介するから、エヴァンゼリンと一緒に菓子でも作ったらどうか」というのがミッターマイヤーの提案だった。
「確かに……それはいい提案かもしれんな!」
気分転換という言葉に、ビッテンフェルトは惹かれた。
深窓の令嬢であるアンジェリカは、普段料理をしない。
しかし、女性なら料理には興味があっても不思議ではないし、ミッターマイヤーの妻となら気楽に楽しむことができるのではないかと思ったのだ。
「さっそくアンジェリカに提案してみよう……!」
我が意を得たりとビッテンフェルトは気持ちを明るくして、次の日の朝早々にアンジェリカに切り出した。
「ミッターマイヤーからの提案なのだが。」
嬉しそうに告げた夫に、アンジェリカは素直に頷いて、「ありがたいお話ですわ」と小さく微笑んだ。
アンジェリカの反応を喜んだビッテンフェルトは早速にミッターマイヤーのもとを訪ね、彼の妻がビッテンフェルト家に菓子作りの指導に訪れることになった。
「火は強めにして、そのまま……少ししんなりするまで炒めてくださいね。」
ビッテンフェルト家の広いキッチンで、アンジェリカはミッターマイヤーの妻、エヴァンゼリンとパイ作りにいそしんでいた。
薄く切った林檎をバターで炒め、砂糖で甘みをつけていく。
甘い香りのただよう鍋が一段落すると、今度は小麦粉に牛乳と水を混ぜてこね、薄く伸ばして生地をつくった。
アンジェリカにとっても「かつての彼女」にとっても初めてのパイ作りである。
(こんなに手間がかかるなんて、買ったほうがよほど早いのに……。)
職人のような手際の良さでカスタードクリームを混ぜるクリームと同じ色の髪を眺める。
「アンジェリカ様……!大丈夫ですか、お具合が悪いようでしたら……。」
「あ、いいえ……!そうじゃないの、ただまるでプロのようだから感心してしまって……。」
実際、エヴァンゼリンの技術は素晴らしかった。
さすが毎日主婦業に勤しむ女性は違うと感心させられたし、こんなにも愛らしく料理上手の妻がいるミッターマイヤーは幸せものだと素直に思う。
(買ったほうが楽だなんていう発想自体が、女として終わってるのかも……。)
そっと、彼女の目から逃れるようにしてアンジェリカはため息をついた。
思えば、前の世から決して家庭的な自分ではなかった。
外食が多かったし、平日の夜であれば体型維持のためにヨーグルトやサラダだけということもしょっちゅうだったと思う。
そんな自分だから──といらぬ記憶が甦ってきて、アンジェリカは首を振った。
「もう、林檎の熱が取れたかしら。」
アンジェリカの目の前にある鍋を、エヴァンゼリンがのぞき込む。
「ちょうど良さそうね。あとは包んで焼くだけですから、もう少しですよ。」
「ええ、楽しみ……。」
微笑んでみせながら、愛らしい春の燕のような彼女と自分を見比べる。
温かみのある笑顔を向けられると、いよいよ自分には妻としての資質がないような気がして落ち込むが、それを振り切るようにしてアンジェリカはエヴァンゼリンに倣ってパイ作りを続けた。
翌朝、食卓に昨日につくったアップルパイを添えると、ビッテンフェルトはそれを大いに喜んだ。
「アンジェリカが作ったのか……?!」
「ええ、ミッターマイヤー様の奥様と一緒に。」
身体を動かしたせいかアンジェリカの顔色もいつもよりよく見えて、それが嬉しかった。
頬を綻ばせる夫の様子にアンジェリカも胸が温かくなり、素直な微笑みが零れる。
「食べてしまうのがもったいないな。」
「そんなに喜んでくださるなら、また何か挑戦してみますわ。」
「本当か?!」
エヴァンゼリン直伝のアップルパイはとても美味しく、沈んでばかりだった妻の笑顔も見られた。
しかも、また料理をしてもいいと言ってくれている。
ミッターマイヤーの助言に従って良かったとビッテンフェルトは心から思ったし、何があっても変わらずに妻を支え続けようと誓う気持ちを強くした。
「では、行ってくる……!」
決心したようにビッテンフェルトは立ち上がり、ずっとしてみたかったことを行動に起こした。
アンジェリカの笑顔には、それだけの勇気を与える効果があった。
彼はまっすぐに腕を伸ばすと、逞しい胸に愛する妻を抱きとめて、「アンジェリカ」と愛しさを込めて彼女の名前を呼んだ。
「何も心配しなくていい。アンジェリカはこの俺の妻なのだから、俺だけを信じていればいいんだ。」
腕の中にいる妻の顔を見る瞬間は、どうしても照れた。
もう二年近く一緒にいるというのに、アンジェリカの姿を間近に見ると未だに胸が高鳴って落ち着かない。
しかし、ビッテンフェルトは夫らしく彼女の頬に触れ、精一杯の優しい仕草で陶器のような肌を撫でた。
そして、
「それじゃあ行ってくるよ、アンジェリカ。」
彼の理想通りのシナリオで、ビッテンフェルトは妻の頬にそっと口付ける。
いかにも夫婦らしいやりとりに緊張と興奮とでどうにかなるのではないかと思ったが、アンジェリカが黙ってそれを受け入れたことで、ビッテンフェルトはなんとか平静を装うことができた。
「いってらっしゃいませ、フリッツ様。」
しかし、アンジェリカの思いは、ビッテンフェルトの期待するものとは少し違っていた。
彼女は思っていた、彼を守らなければと。
夫を、そして死にゆく定めが迫る彼の戦友たちを、この世界で生きる人々を一人でも救いたいと──そう願いながら、アンジェリカは静かに瞳を閉じるのだった。