犬がオーベルシュタインの家に貰われていったことを聞いたビッテンフェルトは、なんとも複雑な表情をしてこれを受け止めた。
犬が苦手な彼としてはダルマチアンが出ていったことを有り難いと思ったが、自分の家の犬が貰われていったということは、改めてオーベルシュタインに犬の世話を頼まなければならないのではないかということが、とにかく嫌なのである。
ビッテンフェルトとオーベルシュタインは、水と油のような存在と言える。
猛る思いのままに剣を振るうビッテンフェルトと感情の一切を廃した絶対零度の剃刀、意見が合致するということのほとんどない組み合わせだ。
徹頭徹尾正論推しの権謀家であるオーベルシュタインがなんの理由もなく犬を引き受けるとも思えず、ビッテンフェルトの苦痛は増した。
しかし、このところ塞ぎがちだった妻がさらに肩を落として、「あの子のためにはそれが一番なのですわ」と犬の使っていた食器やら毛布やらを整理する様子を見ると、結局彼は難題を引き受けるより他なかった。
翌日、ビッテンフェルトは犬が愛用していたあれこれを袋に詰めて、渋々も渋々といった態度で、オーベルシュタインの執務室を訪れた。
「あの犬のことだが、」
単刀直入に切り出すと、電子の光を宿した義眼がひたりとビッテンフェルトを見返した。
まず外見が気に入らないのだとビッテンフェルトは思ったが、他ならぬ妻の頼みである。
「卿の家がよほど居心地がいいのだろう。もともと行き場をなくしていたようであるし、引き取ってもらえて助かった。」
絶対に何か言い返してくる、とビッテンフェルトは思った。
しかし、違っていた。
「そのことであれば、私から奥方に申し出たことだ。」
「なに?!」
犬を引き取る代わりに何事か厄介ごとを押しつけられてもおかしくないと身構えていたビッテンフェルトは、つい間の抜けた声を出してしまったことに慌てて、咳払いをして取り繕った。
「そ、それだけか。オーベルシュタイン……。」
そんな馬鹿なという思いが強すぎて、つい疑心暗鬼になる。
「何か企みがあるのではないだろうな?!」
怒っているのか怯えているのかわからない態度になりながら、手にした袋を握りしめてビッテンフェルトは聞くが、
「取引が望みなら、何事か考えてはみるが。」
オーベルシュタインは表情なく視線を滑らせただけで、執務机から腰を上げようともしない。
「取引」などとオーベルシュタインが言い出せば、もちろん悪い予感しかしない。
そんなものは当然お断りだった。
「ふざけるな、そんなもの誰が受けるか!」
反射的に嫌悪感を露わにし、しかしビッテンフェルトは持っていた袋をオーベルシュタインの机の上にどさりと置く。
犬用の毛布、犬用の皿、遊ぶということをあまりしない老犬が、それでも気に入っていた玩具。
「あの犬には、鶏肉を煮て食わせてやれ……!」
そう告げて部屋を出ていったビッテンフェルトを、オーベルシュタインの冷えた視線が見つめていた。
オーベルシュタインは多くを語る人間ではなく、巨大なコンピューターのような脳の容量とは裏腹に、必要最低限のことしか口にしない。
感情を持たない機械のようだとか、陰湿な策謀を巡らせる死に神だとか、多くの者が嫌悪する通りの印象と、実際の彼はそう違わない。
しかし、それが彼のすべてというわけではないらしい。
このことを知る人間が、この世界に三人だけいる。
ビッテンフェルト、フェルナー、アンジェリカ。
彼ら自身でさえ、オーベルシュタインの意外な一面が何か重要な意味をもつのかそうでないのか、そのことについて判断することはできなかった。
しかし、まず事実として、年老いたダルマチアンはビッテンフェルトのもとからオーベルシュタインの家へと移り住んだ。
そして、ことごとく交わらないビッテンフェルトとオーベルシュタインだが、ビッテンフェルトの犬嫌いに対して、オーベルシュタインはどうやら逆の属性を持っているらしい。
自身の執務室まで戻ってきたところでビッテンフェルトは大きく息を吐き出し、陰気な男との望まぬ面談を忘れようと一つ伸びをする。
ここまで来て犬にはまだ名前がないということを思い出したのだが、それを言うためにオーベルシュタインの執務室まで戻るというのはあまりにも気鬱であった。
(名前くらい、奴が好きにつけるだろう……!)
潔く判断し、彼は自身の軍務へと戻ることにした。
あのオーベルシュタインが一体どんな名前を愛犬につけるというのか、ビッテンフェルトとしてもまったく興味のない話ではなかったが、それはまた別のお話……。