アンジェリカは、心に立ちこめる暗雲を振り払えないでいた。
夫であるビッテンフェルトは軍務に復帰し、宰相となったローエングラム公を中心として着実に新しい社会制度が整えられつつある。
幼帝を守護するラインハルトと彼の部下たちによって新しい時代が拓かれようとしていることを、帝国全土が感じていた。
そんな状況下にあって、アンジェリカが不安を濃くする理由──それは、フェルナーと自身で幾度となく知識の摺り合わせとシミュレーションとを繰り返しているものの、今後起こるであろう戦乱を止める方法が何一つ見つけられないでいるためだ。
フェルナーの知識によれば、この年は「ガイエスブルク要塞のワープアウトによるイゼルローン攻略」と「幼帝ヨーゼフ二世の誘拐事件」が発生する。
そして、その後は怒濤のごとき大戦へとなだれ込むというのである。
キルヒアイスの生存により回避されるのではと期待していたガイエスブルクのワープ作戦は既に認可が出てしまっていると聞いているし、幼帝の誘拐事件を密告したところでラインハルトが黙認するという筋書きは変えようがない。
フェルナーとアンジェリカの考えでは、「原作」でヤン・ウェンリーが模索していた「講和条約の締結によるとりあえずの平和」を妥当な行き先としているのだが、道筋をつけたくとも糸口が見えない。
フェルナーはあくまでビッテンフェルトの部下であるし、アンジェリカは家から出ることもままならない女性の身なのである。
どれほど知識を捏ね回してみたところで現実に抗うほどの力はないのかと、日々絶望は濃くなるばかりだった。
世界は広く、自分はいかに小さな存在かと思い知らされる。
それでも、諦められない──希望と絶望とを繰り返す毎日に、アンジェリカの心身は疲労していった。
「奥様、気分転換に散歩に出てみてはいかがですか。」
塞ぎ込むアンジェリカに言ったのは、彼女の家の執事である。
「散歩?」
「ええ。犬の散歩はいつもわたくしがしておりますが、よろしければご一緒に歩いてみてはいかがでしょう。もうすぐ春も近いですし、外を歩くときっと気分も変わりますよ。」
「そうね、そうしようかしら。」
気鬱に押しつぶされそうになっていたアンジェリカだったが、思いやりある執事の言葉に素直に従うことにした。
外の空気を吸えば気分もすっきりするし、どこまでいっても行き止まりの思考にも少しは光が差すかもしれない。
外出のための服に着替えると、アンジェリカは年老いたダルマチアンと執事と共に屋敷を出た。
「もうネモフィラが……。」
街の花壇に植えられた青い花に、アンジェリカが足を止める。
「春はすぐそこでございますよ、奥様。」
ふと、ビッテンフェルトと出会った頃を思い出す。
草花がみずみずしい季節だった。
あの日、緊張した面持ちを隠そうともせずに父の別邸を訪れた夫が、自身の顔を見て頬を紅く染めたこと。
それが、昨日のことのように思い出される。
自身とマッテルスブルク家の保全のために結婚を選んでからもうすぐ二年、彼と出会った季節がまた巡ってくる。
あの日以来、アンジェリカが望む通りの逞しさで、ビッテンフェルトは生き抜いてくれている。
アムリッツァ星域の会戦でも、その後のリップシュタットの戦役でも、彼は生きて帰ってきてくれた。
アンジェリカの希望は叶えられ、それだけでもどれだけ有り難いことかわかっている。
(彼は……私のこと、どう思ってるんだろう。)
一つ屋根の下で暮らし、世間にも認められた夫婦である。
雄々しく逞しい夫だが、意外なほどの優しさでアンジェリカに接してくれている。
自分はそれに──応えられているだろうか。
だったらどうしたいのかと聞かれてもうまく答えられる自信のないアンジェリカだが、それでもビッテンフェルトのことを思うと複雑に胸の奥が揺れる。
「どうりで暖かいはずね。春の庭を眺めるのが、楽しみだわ。」
曖昧に揺れる心の波から目を逸らすようにして、アンジェリカはまた前を向き、犬を連れた執事と並んでまた歩き出す。
しかし、ある屋敷の前まで来た時だった──
「ほら、わんちゃん。どうしたの、行きましょう。」
「困りましたね、いつもはこんなことはないのですが……。」
散歩コースだという道の途中で、ダルマチアンが足を止めて座り込んでしまったのだ。
アンジェリカが諭しても、執事がリードを引いても、犬はその場を離れようとしない。
その二人の前に、現れた人影。
春が近いというのに、凛烈と言えるほど寒々とした冷気を感じた。
実際に気温が下がったわけではもちろんないのだが、まるでそう感じるような存在感だった。
「……そこで何をしておいでか。」
丁寧だが、有無を言わせない口調だった。
低く、聞き取りづらい声であったが、アンジェリカの耳には感情のない彼の声がはっきりと届いた。
そして飼い犬に向けていた顔を上げた時、目の前に立っている男の視線に射すくめられ、アンジェリカは息をのむ。
彼が誰なのか、尋ねなくてもわかった気がした。
節張った手指、薄い喉元と無表情で見下ろす瞳。
感情を宿さない彼の瞳は、それが義眼ゆえなのか。
「あ、わたくしは……。」
パウル・フォン・オーベルシュタイン──夫からもフェルナーからも何度となく名前を聞かされた人物、きっと彼がその人なのだと、アンジェリカはほとんど第六感で確信する。
怜悧冷徹なローエングラム公の懐刀。
ラインハルトのためにこれまでも様々な策謀を巡らせてきた彼は、「この後」も恐るべき頭脳と一切の感情を介さない研ぎ澄まされたナイフの如き判断力で、政権の基礎を築き上げていくことになる。
それらのすべてが脳裏を巡り、アンジェリカは言葉をうまく発することができない。
「申し訳ありません……こちらのお宅の方でしょうか……。」
彼の視線から逃れるように瞳をそらせ、アンジェリカはなんとか告げた。
「いかにも。あなたは?」
助けを求めるように犬の頭を撫でるが、年老いたダルマチアンは変わらずその場を動こうとしない。
アンジェリカは家名を名乗り、家の前で立ち往生する非礼を詫びた。
「もしかして、こちらで飼われていたわんちゃんでしょうか。ちょうど一年前に迷い犬を夫が保護してそれ以来、我が家にいる子なのですけれど……。」
名乗り返さない相手に対し、慎重に言葉を選びながらアンジェリカは邸宅の立派な門を見る。
彼が誰でどんな人物なのか知っている、アンジェリカの中でそれはいつの間にかほとんど確かな事実へと変わっている。
「……私の犬に見えますかな。」
静かな口調で彼が尋ねた時だった。
「クゥン。」
甘く鼻を鳴らして、老犬が立ち上がる。
「あッ……。」
慌ててリードを引こうとした執事の手を逃れるようにして犬は男に向かって歩き、「くう」と小さくまた鳴いて彼の足下に身体を擦りつけたのだ。
「も、申し訳ございません!」
これに慌てた執事が、いよいよ強くリードを引こうとする。
しかし、それを止めたのは、彼だった。
「良い、好きにさせてやりなさい。」
甘えるように男に擦り寄って鼻を鳴らした犬が、尻尾を振って彼の足下にまとわりつく。
自分にとって恐怖の対象である男に老犬が懐く様は、アンジェリカには驚くべき光景に映った。
「あ、あの……。」
アンジェリカは戸惑うが、それで態度を変えるような相手ではないらしい。
じゃれつく老犬に構うことはせず、しかし好きなように甘えさせていた男だったが、やがて再び口を開く。
「私の犬に見えるのであれば、置いていかれるがいい。」
「えっ……。」
どういう意味かと聞き返そうとするが、青白い皮膚を張った無表情に見つめられるとつい萎縮してしまう。
そんなアンジェリカに向かって、彼が言った。
「あなたのご夫君は犬が苦手なのだ。だから尚更、置いていかれるといい。」
まさかと思っていた夫の犬嫌いを彼が指摘したことに驚かされ、アンジェリカはまた言葉を見失う。
この人は一体何者なのか、どれほどの世界を見通しているのかと畏敬と恐怖がない交ぜになって彼女を襲い、アンジェリカは目の前の男の表情のない顔を見返すしかできなかった。
「奥様、よろしいのですか。」
それでも、執事に尋ねられれば、アンジェリカの答えは自ずと導かれる。
この人のもとに居るべき犬なのだと、知っている。
「彼の人間性を示す貴重な存在だ」と、フェルナーは確かに言っていた。
今日この日の巡り合わせは、きっとそれが正しいことを示しているのだろうとアンジェリカは思う。
「ええ、どうか……可愛がってあげてくださいませ。」
なんとか告げた彼女に、男の目がわずかに細められた。
「私は、パウル・フォン・オーベルシュタイン。ご夫君には私からも伝えよう。」
ようやく彼の名前を聞いた瞬間、ひやりとした感覚がアンジェリカの背筋を走る。
悪寒に似た感覚だったが、果たして彼の迫力だけに由来するものだろうか。
「ありがとうございます、オーベルシュタイン様。」
静かに視線を下げたアンジェリカの前で、オーベルシュタインの手が犬の頭をそっと撫でる。
その動きの意外な優しさにはっとなるが、アンジェリカが顔を上げた時にはもう、オーベルシュタインはその場を立ち去った後だった。