「フリッツ様、ご無理をなさらないでください。お着替えはわたくしが手伝いますから。」
ベッドから身を起こしたビッテンフェルトに、妻の手が触れる。
細く美しい指先は少し冷たく、しかし羽根で撫でるような優しさでビッテンフェルトの肌に触れていた。
「う、うん……。」
子どもっぽく頷いてしまった自分に気が付いて顔を赤らめるが、アンジェリカは気にする様子もない。
アンジェリカの白い手指や桜色の爪先は、ビッテンフェルトにとって長く思うようにならない攻略対象であったが、そんな過去が嘘のように、今は何度も往復したりくすぐるように触れたりして、ビッテンフェルトの肌を撫でている。
重症といえる怪我を負った彼にとって、貴重な光明だった。
ガイエスブルクでの捕虜謁見式で、ブラウンシュヴァイク公の臣下であるアンスバッハ准将が、ラインハルトを襲撃しようとした。
キルヒアイスとビッテンフェルトによって防がれたが、それぞれが大きな怪我を負ってしまった。
キルヒアイスは右腕を、ビッテンフェルトは肩を負傷し、互いに療養生活に入ることとなったのだ。
この功績をもってビッテンフェルトは二階級特進し、上級大将の肩書きを賜っているが、実はそれ以上に彼が喜ばしいと思っているのは、自宅で療養にあたる自分を献身的に看護してくれる妻のことである。
ビッテンフェルトと彼の妻、アンジェリカは、長く奇妙な夫婦関係を続けてきた。
書類を交わして共に暮らすようになっても、式を挙げてからも、それからもずっと──薄暗い書斎と書類の山、そして犬にまで邪魔されて、睦まじい夫婦と言い切るにはやや無理のある状況だった。
もしかして妻は自分を嫌っているのではないだろうか。
それは、ビッテンフェルトにつきまとっていた不安だ。
心の奥が見えないという点を除いては、アンジェリカは申し分のない妻だった。
美しく、折り目正しい。
家はいつも居心地よく整えられているし、使用人たちも皆アンジェリカを慕っている。
父親の前では夫を立ててくれるし、ふとした時に見せるアンジェリカの笑顔に出会えた時は、それだけで心が和む思いだった。
夫の仕事に対して興味関心を抱きすぎているきらいはあるが、それだって決して疎ましいわけではない。
身分の違いだろうか、あるいは別の原因かと──今一つ遠く感じるアンジェリカとの距離はビッテンフェルトに苦しい時間を課してきた。
しかし、それももう終わりだと彼は思っている。
怪我をした自分のことをアンジェリカは心から心配してくれ、一日とあけずに見舞いに通い、病院から自宅へと移ってからはほとんど付きっきりで看護をしてくれている。
ビッテンフェルトが負傷したと聞いた時などは、普段表情の乏しいアンジェリカが、誰が見ても明らかなほど激しく動揺して周囲を驚かせたと執事から聞かされていた。
「痛むようでしたら、お薬をお持ちしますわ。」
悩まし気に眉を寄せ、自分の顔を覗きこむアンジェリカに、胸が熱くなる。
妻のためにも早く怪我を治さなければと思いながら、ビッテンフェルトは愛しい恋人の手を取った。
触れた手を優しく握り返す指の動きを見れば、怪我が治ったあかつきには、美しい夫婦となれることは間違いないと思えた。
「大丈夫だ、アンジェリカ。君がいてくれれば、それだけで十分だよ。」
かつての彼であればとても言えなかったであろう台詞も、今ならば言えた。
怪我を負って軍務から遠ざからなければいけないのは辛いことだが、こうして妻との時間が取れたのだから悪いことばかりではない。
そう思い、愛しさを深くする。
その時だった。
「失礼いたします、旦那さま。」
扉をノックする音がして、執事が顔を覗かせた。
「キルヒアイス提督がお見えです。」
「なに、キルヒアイスが?!」
彼も同様に怪我を負ったが、ビッテンフェルトよりも少しばかり早く退院していた。
そのキルヒアイスが、ビッテンフェルトの見舞いに来たのだという。
「わかった、通してくれ。」
やってきたキルヒアイスは、アンジェリカに白い花弁の清楚な花束を手渡して、彼女に案内された椅子に腰かける。
ベッドの脇に置かれた椅子に座ると、彼はまず感謝の言葉を口にした。
「ビッテンフェルト提督がいなければ、私は生きていなかった。どうしても感謝の気持ちを伝えたく、ご自宅まで伺わせていただきました。」
かつては気に食わないと思ったこともある相手だが、殊勝に言われれば悪い気はしない。
「気にすることではない、キルヒアイス。卿も俺も無事で……とにかくローエングラム侯にお怪我がなかったのだからそれで良いではないか。」
ビッテンフェルトは彼らしい豪気さで答えて、自由になるほうの手をキルヒアイスに差し出した。
「そうおっしゃっていただけると……。」
キルヒアイスが手を握り返し、彼も微笑んだ。
そこまでは良かった。
問題は、部屋を出ていったアンジェリカがティーセットの載ったトレイを携えて戻ってきた時だった。
「紅茶でよろしいでしょうか。」
伏し目がちにキルヒアイスを見るアンジェリカの視線と、謝礼を述べて見返したキルヒアイスの視線とがぶつかった。
先に視線を逸らしたのはアンジェリカで、キルヒアイスの温かみのある青い瞳がそれを追いかける。
それを、ビッテンフェルトは見てしまった。
まさか、とは思った。
確かにキルヒアイスは以前にもアンジェリカと会ってはいる。
しかし、彼らの口からお互いの名前が出ることはなかったし、それに──近頃のアンジェリカは思いやり深い優しい態度でビッテンフェルトに接してくれていた。
頭に浮かんだ質の悪い妄想を振り払って、ビッテンフェルトはキルヒアイスと向き合う。
彼は、その後の出来事についてラインハルトから聞いた内容をビッテンフェルトに仔細に伝え、誠実な態度を崩す気配は微塵もない。
そうなれば、先ほどの出来事はやはり気のせいだと思えてくる。
キルヒアイスの話によれば、リヒテンラーデ公をラインハルト暗殺の首謀者として血祭にあげたオーベルシュタインは、彼の一族を含む門閥貴族の大部分を謀反人として処罰し、服毒死や流刑へと追いやったのだという。
オーベルシュタインの名前に嫌悪感を露わにしたビッテンフェルトだったが、キルヒアイスのとりなしで当主以外の者は助命され、流刑に処せられたと聞き、ほっと安堵の息をついた。
時として苛烈さの目立つ若き宰相の穏健な判断を聞き、ビッテンフェルトはそれが嬉しかった。
ローエングラム陣営随一の猛将と名高い彼だが、こういった篤実さが部下に慕われる要因にもなっている。
新体制の今後について等、ラインハルトからの伝言をいくつか済ませると、キルヒアイスは再び礼を言って屋敷を辞した。
アンジェリカが、彼を見送って玄関へ出る。
二人並んだ後ろ姿に一瞬ドキリとなったビッテンフェルトだったが、再び頭をもたげた弱気な妄想を頭から追い出そうと首を振って、ベッドにもぐりこんだ。
そんな彼のもとに、二人目の訪問者が現れたのは、そのすぐ後のことだった。
「お加減はいかがですか、閣下。」
やってきたのは、先の戦役の前にビッテンフェルトの部下となった男である。
「……何の用だ、フェルナー。」
膨らみかけた不安を振り払うためにも、ビッテンフェルトはアンジェリカと過ごしたかった。
もう一度彼女の手に触れれば、こんな誤解は吹き飛ぶはずなのにと思っていた。
ところがやってきたのはいけ好かない部下で、しかし彼は珍しく申し訳なさそうな顔を浮かべている。
「いえ、閣下がお怪我をなさったのはどうも小官のせいのような気がして……お詫びに伺わねばと思っていたのです。」
確かに、ビッテンフェルトが怪我をしたのはこの男が予言めいたことを言ったせいかもしれないが、逆に言えばこの男の妄言がラインハルトを救ったとも言える。
ビッテンフェルトに彼を責める理由はなかった。
それを伝えると「なるほど、よかった」とあっさりと変心していつもの顔に戻ったフェルナーだが、ビッテンフェルトがあの言葉の理由を尋ねても首を傾げるだけだ。
「正直なところ、自分でもよく覚えていないのです。一体何を言ったのか……あの時はどうかしていたとしか思えません。」
「なんだ、はっきりせん話だな。」
言いながら、ビッテンフェルトはさほど気にしていない。
ただでさえこの図々しい部下とはどうにも馬が合わないのである、この上予言者などといううさんくさい属性が加わったら余計に苦手になりかねない。
「まあ、いい。俺はこの程度の怪我でどうこうなる人間ではないし、気にしてなどいない。それよりも俺の艦隊はどうなのだ。」
「ええ、それはもう滞りなく。いつ閣下が戻られても大丈夫なように、総員万全の備えでお待ちしております。」
フェルナーからの報告に、ビッテンフェルトは満足げに頷いた。
「あら、いけないわ。わんちゃん、待ちなさい……!」
彼の自慢の妻の声がしたのはその時で、彼女が開こうとした扉を押し開けてダルマチアンが入ってきた。
慌てたアンジェリカがティーセットをテーブルに置いて、主人のベッドへ向かおうとする老犬に向かって手を差し伸べる。
「ほら、いらっしゃい。お客さまのお邪魔をしてはダメでしょう。」
これに驚いた表情を見せたのが、フェルナーだった。
「閣下は……犬を飼っておいででしたか。」
「別に好き好んで飼っているわけではない。こいつが元帥府から俺の後をついてきて、住み着いてしまったのだ。」
その言い方がまずかったらしい。
聞いていたアンジェリカが悲し気に眉を寄せ、ダルマチアンの頭を撫でる。
「まあ、フリッツ様。そんな風に思っていらしたなんて……だから、未だに名前をお決めになってくださらないのですか。」
責めるように言われて、ビッテンフェルトが顔色を悪くする。
「ち、違うのだ。アンジェリカ、そういう意味ではなく……ただ、そいつはどうにも食も細いようだし、我が家に馴染んでいないのではないかと思ってだな……。」
ついしどろもどろになって言いかけるが、横で聞いていたフェルナーがなぜか訳知り顔で頷いた。
「……柔らかく煮た鶏肉を食べさせてやるといいですよ、奥様。」
老犬にはそれがいいのだと彼はもっともらしく言ったが、なるほどと首を振るビッテンフェルトと対照的に、何か不審なものを見るような目でアンジェリカはフェルナーを見ている。
「それにしてもお美しい方だと評判はお聞きしていましたが、なるほど閣下は大変な幸せ者でいらっしゃる。」
「そうだろう!わかるか、フェルナー。」
「ええ、こんなにお似合いのご夫婦はそういらっしゃいません。」
機嫌をよくして鼻をふくらませるビッテンフェルトと対照的に、アンジェリカは表情を曇らせたままだった。
甘いデザートを大皿に積み上げるがごとく盛大にお世辞を述べた後で、フェルナーは「身体に障るといけない」と席を立って挨拶を述べた。
「すみません、奥様。突然押しかけてしまって。」
「いいえ。こちらこそ、お気遣い感謝いたしますわ。」
「………。」
玄関まで見送りに出たアンジェリカを、碧色の視線がじっと見る。
「おかしいなあ、銀英伝の世界では……ビッテンフェルト提督は結婚なんてしてなかったはず。」
「!」
ぱっとアンジェリカの目が開き、二人はしばらく沈黙した。
「それでは、小官はこれで。」
「ッ、待って……!」
珍しく感情を表に出したアンジェリカに使用人たちが驚くが、それに構う余裕は彼女にはない。
「フェルナーさん、あなたは……。」
玄関を飛び出してきたアンジェリカの瞳を、フェルナーの両眼が意味を込めて見返した。
彼は予言者でもなければ、老犬に詳しいわけでもない、ただし──ある特殊な事情を抱えている。
それが自分と同じだということをアンジェリカは知り、フェルナーもまた彼女が何者なのかを確信したのだった。