気の早い草花がオーディンの地面を彩り始めた頃、悶々とした表情で銀河帝国軍の官舎に向かって歩いている男がいた。
訪れていたマッテルスブルク侯爵家から官舎までの道のりは決して近いとは言えなかったが、今は一人で歩きたい──彼、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは思っていた。
豪快な性格で知られるビッテンフェルトだが、平素の堂々とした態度はすっかりなりを潜めてしまっている。
つい先日、設立されたばかりのローエングラム元帥府で新たな人事を賜った時とはまるで別人である。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、弱冠20歳の帝国元帥であり、中将であるビッテンフェルトより九歳も年下である。
しかし、先のアスターテ星域の会戦での勝利で史上最年少の元帥へと昇進した彼のことをビッテンフェルトは心から尊敬していた。
美しい容姿ばかりに目がいきがちなラインハルトであるが、ビッテンフェルトが心酔するのは、非凡な戦術家としての才能と清貧を旨とする性格である。
しかも、貴族であり、皇帝の寵姫の弟という恵まれた立場であるにもかかわらず、ラインハルトは平民出身の者を分け隔てすることがないのだ。
現にイゼルローン攻防戦でのビッテンフェルトの活躍を評価し、元帥府に招聘すると同時、彼の夢であった提督の地位を与えてくれた。
彼は、自身の乗艦を含む艦隊を黒く染め上げ、
この時のビッテンフェルトは闘志に燃えていたし、出撃の機会を今かと待つ勇猛な武将であった。
その彼が、今は首を垂れて、頼りなげに官舎への道を歩いている。
「何かあったのですか。」
官舎の入り口をくぐったところで、声をかけられた。
ローエングラム陣営の同僚であり、軍事面以外における趣味、造詣の深さから芸術家提督と名高いメックリンガーである。
芸術肌の彼と見た目通りの猪武者であるビッテンフェルトは、本来であれば決して気の合うタイプではない。
しかし、この時ばかりは誰かに頼りたい気分であったし、自分より世間に詳しそうなメックリンガーは最適の相談相手に見えた。
「聞いてくれるか、メックリンガー。」
常ならぬ同僚の様子にメックリンガーも当然と頷いて請け合うと、二人連れだって士官用のラウンジに向かう。
少し早い時間ではあったがラウンジはそれなりに賑わっており、ビッテンフェルトとメックリンガーは向き合う形で椅子に腰をかけた。
「実はだな……。」
運ばれてきたビールを勢いよく半分ほど飲み干して、ビッテンフェルトが口を開く。
「み、見合いの話があるのだ。」
「なんと……!」
これにはメックリンガーも驚いた。
ビッテンフェルトは今年29歳の軍人で中将、しかも艦隊を率いる提督である。
立場を考えればいくらでも見合いの話くらいありそうだが、この男の容姿、性格を考慮すれば驚かずにはいられない。
筋骨隆々とした壮健な肉体に、オレンジの髪。
威風堂々を絵に描いたような容姿だが、性格も見ての通り粗暴である。
決して無能ではないし、悪い男でもないのだが、如何せん女性向きとは言いがたい。
その男に「娘をやりたい」とは、一体どんな話であろうか。
「めでたい話ではないですか、何をそんなに落ち込んでいるんです。」
ひとまず傍観の姿勢から入ることにしたが、メックリンガーとしてもなかなか興味深い話ではあった。
しかし、彼の同僚が発した次の一言で並々ならぬ事態であることを知る。
「しかし、メックリンガー!あ、相手が……!相手が、マッテルスブルク侯の娘なのだぞ!」
「な……マッテルスブルク侯?!」
その家名には、メックリンガーも驚きを禁じ得ない。
「本当にあのマッテルスブルク侯なのですか。」
「そ、そうだ!あの!マッテルスブルク星系のマッテルスブルク侯だ!」
マッテルスブルク星系は、惑星オーディンとフェザーン回廊の間に位置し、交易の要所として栄える惑星群の呼び名である。
その中心にある惑星マッテルスブルクを所領とするのが彼の侯爵家であり、銀河帝国でも特に富裕な一族として知られている。
オーディンにあるマッテルスブルク侯爵家の別邸にビッテンフェルトは招かれ、侯爵の一人娘であるアンジェリカ嬢との結婚を打診されたのだという。
「フリッツ・ヨーゼフ・フォン・マッテルスブルク、いや、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト・フォン・マッテルスブルクだろうか、長いな……。」
思わず独りごちたメックリンガーに、「そういう問題ではない!」とビッテンフェルトが声を荒げ、その大きさにラウンジにいた何人かが振り返る。
「それで……ローエングラム伯は何と言われてるのです。」
メックリンガーは咳払いをし、それから至極当たり前のことを聞いた。
貴族が相手の結婚となれば銀河皇帝の許可がいるし、平民であるビッテンフェルトがそれを得るためには当然ながらラインハルトの力添えが必要である。
「ローエングラム伯は……。」
「それは良い話だ!」と二つ返事で了承し、早速にでも皇帝陛下に申しあげようと言っているとビッテンフェルトは肩を落として言い、
「“マッテルスブルク星系は交通の要所、卿の所領となるならば心強い”と……。」
はあ、と彼らしからぬため息をついて頭を抱えてみせた。
それもそうだ、とメックリンガーは思う。
設立されたばかりのローエングラム元帥府にとって、重鎮の後ろ盾があることは有り難いことだし、マッテルスブルク星系が自陣に加わるということは長い目で見ても非常に有益と言える。
「失礼ですが、」
と頭を抱えるビッテンフェルトを見てメックリンガーはもう一度咳払いをし、あり得ないだろうと思いつつも一応は聞いた。
「ビッテンフェルト提督には、決まった恋人がいらっしゃるのですか。」
「ッ!」
ガッと勢いよく、ビッテンフェルトの顔が持ち上がる。
しかし、返ってきた答えはメックリンガーの予想通りのものであった。
「……いない。」
でしょうね、とはあえて言わず、「だったら悪い話ではないのでは?」と聞いたのは、本心からであった。
貴族相手というのは確かに気後れするかもしれないが、ヴェストパーレ男爵夫人をはじめ、幾人かの貴族と芸術を通して付き合いのあるメックリンガーとしては彼らもそう捨てたものではないと思っている。
気詰まりな者も愚鈍な者も確かに多い、しかしラインハルト自身を含め元帥府にも貴族の同僚はいるが、悪い者ばかりではない。
むしろ、この猪のような平民出の武辺者をわざわざ一人娘の夫に欲しいと言うくらいなのだから、マッテルスブルク侯という人物は余程の変わり者なのだろうと興味が沸いたほどだった。
恋人もいない身分でありながら何をそんなに嫌がるのかと半ば呆れながら、一つの可能性に辿り着く。
「もしや、アンジェリカ嬢という方は……あまり、その……お美しくないとか?」
それであれば納得もできる、とメックリンガーは思った。
ビッテンフェルトにそれ程の高望みができるとも思わないが、彼も艦隊の提督となるくらいの男ではあるのだから、女性の容姿に多少の拘りを持つ権利はあるだろうというのがメックリンガーの一応の考えだった。
しかし、
「それは違う。」
ビッテンフェルトが即答する。
「いや、本人に会ったわけではないのだが、その……写真を拝見してな、それは……すごく、うん、ものすごく……う、美しかった!」
そう告げたビッテンフェルトの顔が赤い。
困ったように置場のない手をさまよわせ、ビールグラスを掴んだものの結局またテーブルに戻して両手の指を組んだ。
「しかし、美人すぎるのだ!どう思う、メックリンガー!」
喘ぐように言ったビッテンフェルトは確かに困り果てており、しかし否定一色ではなく──写真で見たという美女への恋慕に近い表情が浮いては沈みを繰り返している。
「……なるほど。」
とメックリンガーは頷いて、それから整えられた髭をひと撫でした。
同僚として、友人として、ビッテンフェルトに言ってやれることは一つだった。
メックリンガーは一呼吸をおいてからビッテンフェルトの茶色の両目を見つめ、もう一度頷いた。
「断る理由も、断れる理由もないでしょう。ご結婚おめでとう、ビッテンフェルト提督。」
目を見開いたビッテンフェルトの表情は驚愕といった様子であったが、議論の余地がないことを彼も悟りつつあるようであった。
マッテルスブルク侯爵家は、ゴールデンバウム王朝における屈指の名家である。
しかも、娘のアンジェリカは侯爵のたった一人の子供であり、ビッテンフェルトとの結婚は彼が侯爵家の後継となることを意味している。
フェザーンへと続く要所がビッテンフェルトのものとなれば、ローエングラム陣営にとって大きな有利をもたらすことになり、ついてはラインハルトも賛成している。
となれば、ビッテンフェルトに選べる道は最初から一つしかない。
彼が望むと望まざるとに関わらず、アンジェリカ嬢を娶り、彼女のよき夫となって尽くすより他ないのである。
自らの運命を自分で選び取れないことに多少の同情はするが、美しく富裕な令嬢との結婚であれば悪い話ではないだろう。
これらの理由をもって祝福すると結論づけたメックリンガーにビッテンフェルトはわなわなと肩を振るわせたが、結局は彼も他の選択肢を見つけられずにまたがっくりと肩を落とすのだった。