オスカー・フォン・ロイエンタール。
その名前を聞かされたのは、同じ「フォン」の文字を持つシェーンコップからだった。
ローエングラム元帥配下として特に名前を知られる人物で、艦隊の指揮における緻密さと大胆さの両方において他に類を見ないほどの才覚を有しているという。
銀河帝国内での内戦で実際に彼と相対したというメルカッツは「当代で右に出る指揮官はそう多くない」と評する相手である。
その彼がイゼルローン要塞攻略のための遠征軍を率いて出兵するという情報が、ヤン艦隊の元へもたらされていた。
「そんなに……恐ろしい人物なのですか。」
老練の提督をして手放しとも言える評価を受ける艦隊司令官を回廊攻略の最前線に送るということは、ラインハルトの宣戦布告が決して形だけではないことを示している。
「まあ、帝国軍の双璧などと言われているようですから、先日のケンプ提督以上の相手であることは間違いないでしょうな。」
事も無げに言ってコーヒーを啜る彼の言葉に、ジーンは小さく眉根を寄せた。
言葉にし難い不安と恐怖が、じわりと胸の奥を侵していく。
彼女の人生において「戦争」は、決して身近とは言えないものだった。
祖国は長く銀河帝国と対立関係にあったが、それでも時折起こる戦闘はどれも局地的なものばかりでどこか遠い国の出来事のように感じることさえあった。
それを恥じた。
最前線に立つことで、ようやく「戦争」というものを知ったと思った。
祖国が莫大な資金を投じた同盟軍が、会戦のために散っていった生命がどういうものなのか、現実となって今ジーンの胸に迫っている。
「そんなに不安に思われる必要はありませんよ。」
一向に減る気配のないカップを手にしたまま俯いたジーンに、シェーンコップが微笑んだ。
戦局など意に介さないという彼の態度はいかにも歴戦の猛者で、実力と結果に裏打ちされた彼の態度は、ヤン艦隊のバランスを保つ重要な要素でもある。
頼もしいとも思い、不安にも思い、目を細めて向けられる視線を見つめ返すことしかできない。
「我がイゼルローンにはなんといってもヤン提督がいらっしゃいますし、イゼルローンさえ落ちなければ、本土の安全は確保されている。」
殊更に明るさを作るようにして、シェーンコップが告げる。
ジーンを安心させようとして発せられたその言葉が却って、ジーンを胸を一層揺らめかせる。
「イゼルローンさえ……。」
「大丈夫、易々と敵の侵入を許す我々ではありません。」
ガイエスブルクの襲撃の際、陸戦部隊の突入を防いだシェーンコップの言葉であればこそ重みもあり、彼もそれをわかって言っている。
しかし、ジーンの頭を過ぎったのは、「イゼルローン要塞を堅守できるか否か」ではない。
フェザーンの「友人」から届けられた情報の一つ。
銀河帝国に駐在する弁務官、ニコラス・ボルテックに不穏な動きがあるというのだ。
現在のところ、フェザーンは自治領主ルビンスキーのもと、銀河帝国、自由惑星同盟の双方に対して政治的・軍事的独立を保っている。
しかし、フェザーンという土地はその独自性ゆえに、あらゆる意味において一枚岩ではないのだ。
人口20億を抱える銀河最大規模の惑星がフェザーンだが、より特筆すべきは全銀河の一割に上るとされる彼らの財産である。
同盟、帝国両国の国債を保有して政治的力を強める一方で、自由商人の行き来や軍事交渉の仲介を行うことで中立を保っている。
形式上は銀河帝国の自治領であるフェザーンだが、たとえ銀河帝国軍であろうと惑星が鎮座するフェザーン回廊を自由に航行することはできないのだ。
そのフェザーンの弁務官が暗躍している。
ボルテックはルビンスキーの腹心の位置にいる男だが、何かと噂の多いルビンスキーと比べれば器のほどは図るべくもない。
そんな男がラインハルトに対抗できるはずもなく、彼を銀河帝国の弁務官として派遣したことについては却って危うい局面を生むのではないかと心配するフェザーン人は多いらしい。
能力に釣り合わない野心を持った男、というのが現地財界人のボルテックに対する評価だった。
彼の野心が銀河帝国に利用されるのではないか、とうのがフェザーン人たちのもっぱらの心配事らしい。
独立性こそがフェザーンの価値を高める最重要の要素であるが、それが脅かされるのではないかというのが「友人たち」がジーンに告げた不安であった。
若き元帥の躍進は、情報通のフェザーン商品たちの動静にも確実に影響を与えつつある。
「シェーンコップ少将……。」
このところ頭を離れないでいる自身の考えについて、果たして披露していいものかジーンは迷っていた。
確証があるわけではなく、あくまでも状況からの推測であったし、何よりもまず不吉な推測であるからだ。
言葉を継げないでいるジーンをシェーンコップは待っていた。
「あの、」
言いかけて、また迷う。
まずはキャゼルヌに相談すべきというのがジーンの立場であり、いくら話しやすいからといって思いつきのようにしてシェーンコップに告げてしまうことは軽率に思われたのだ。
仮定として、ボルテックがフェザーンの自治権を売り渡し、見返りに地位なり金なりを得たとする。
それはそれで十分に危険なことだ。
同盟領と帝国領を隔てる二つの回廊がイゼルローン回廊とフェザーン回廊であり、一方を帝国軍が通過してしまえば、もう一方を守り抜いたところで片手落ちになる。
その先に何が待っているかなど、軍事のプロでなくとも容易に想像がつく。
けれど、本当にそれだけだろうかという思いがジーンの中にあった。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは弱冠22歳の帝国元帥である。
天才的軍略と清貧を旨とする性格で、銀河帝国内では既に大いなる人気を得ているという。
一方で将として勇敢であるだけでなく、知略、謀略にも優れ、支配者としての冷徹さも持ち合わせているというのが、彼に対する多くの者の評価だった。
若き元帥に関する評価は見る者の立場や角度によっていくつかに分類されるが、ジーンの目には若さと苛烈さとが特に印象的に映った。
優れた執政を行う政治家、けれど大前提として彼は軍人なのだ。
その彼が自由惑星同盟に対して宣戦布告を行ったということは、同盟領土の完全なる征服を目指しているということだろう。
(自由惑星同盟を武力で制圧しようという人物が、フェザーンとの関係を政治力のみで解決するだろうか……。)
中立の立場を堅持し続けて来たフェザーンには、最小限の軍隊しか備えられていない。
軍事力で見れば、フェザーンを征服することは同盟領を征服するよりも圧倒的に簡単なことなのだ。
「ブラックウェル中尉は、フェザーン回廊のことを心配されているのでは?」
シェーンコップに問われて、ジーンははっと顔を上げた。
「ヤン提督も同じ心配をされてらっしゃいました。悪戯に不安を煽るだけなので他言は無用とのことでしたが、あなたも同じ考えということはいよいよ真実味を帯びてきたと感じています。」
「いえ、私は……!」
既にヤンの中に同じ不安があるのであれば、自身の意見など彼に及ぶはずもない。
そう思うことで却って安堵する気持ちになり、ジーンは自身の得た情報と見解について口を開いた。
ボルテックとラインハルトが接近しているらしいという情報、ボルテックという男の素性、そして苛烈なる帝国元帥が武力によるフェザーン制圧を選択する可能性について。
それはジーンがイゼルローンに来て初めて、自ら進んで行った進言であった。
「なるほど。筋書きはヤン提督のものと殆ど同じ。加えてフェザーン人の意見もというなら証左に役立つでしょう。あなたからヤン提督にお話しになるといい、不安でしたらキャゼルヌ要塞事務監に同席していただくと良い。」
視線を落として言葉を探しながら告げられたジーンの意見を、シェーンコップは腕を組みながら聞いていたが、少しの思案の後ゆっくりと口を開いた。
未熟さを指摘することなく偏見なく耳を傾けてくれる姿勢に安堵し、ジーンは安心したように頷いた。
「やはり得がたい人だな、あなたは。」
「え?」
礼を言って立ち上がろうとするジーンに、告げられた声。
「だからこそ悩ましい。ただの女性であったなら、すぐにこの手で攫ってしまうものを。」
寄越された言葉の意味を自分で理解するより前に、ジーンは椅子を引きその場を去った。
より理解したいとも思ったけれど、理解して良いことなのかというと判断は少し難しかった。
この上なく魅力的で、女性であればきっと誰しもが憧れるであろう存在がシェーンコップという男である。
彼から向けられた言葉に、木々を揺さぶられるような落ち着かない気持ちになる。
それはときめきに似ていたし、歴戦の戦士から与えられた信頼は喜ばしくもあった。
けれど、その先にある自分の感情と向き合おうとするとジーンの心はたちまち迷路へと入り込んでしまう。
未だ忘れることのできない黒髪が、心の湖面をさざめかせる。
恋と呼ぶにはあまりに未熟な想いだが、それでも──憧れを抱きしめる時間が愛しくて。
戦局は両軍の衝突間近へと迫っており、皮肉にもそのことがジーンの意識を外へ向けることを助けた。
各地から届く情報のどれもがロイエンタール艦隊のイゼルローン襲撃を示しており、軍本部の緊張は日に日に高まっていた。
そしてついに、同盟軍の偵察艦が帝国軍の艦艇の侵攻をそのレーダーに捕らえたのである。