その夏は、目まぐるしく出来事が展開される季節となった。
ユリアンのフェザーンへの転勤が決まり、メルカッツは銀河帝国正統政府の軍務尚書となってハイネセンに異動して行った。
若いユリアンは無遠慮に不満を口にし、控えめな態度でメルカッツの後ろに控えている印象だったシュナイダーも毒舌を露わにこの人事を罵った。
自由惑星同盟のために誰よりも多くの勝利をもたらしたはずのヤンだが、政治家たちの彼を見る目は民衆のそれとは異なっている。
民衆の信認を得ているからこそ、というべきなのかもしれない。
英雄であるはずの彼をやっかみ半分に厄介者として扱う様子は、まさに衆愚政治のそれである。
外敵の危機に晒されているというのに気になるのは自分の足下だけという悪意と疑心ばかりが蠢く様は、まるで同盟政府の暗転していく未来を示しているようで恐ろしい。
当のヤン自身は淡々とした様子で職務をこなしているが、彼の広大な脳内ではやがて来る混乱への道筋とそれに対する策のあれこれとが描かれつつあるようだった。
救国会議によるクーデター以来、独自の情報網を築くことに腐心していたジーンは、フェザーンに赴くユリアンのため現地の知人たちの幾人かを紹介した。
それは勿論ユリアン自身のためではあったが、同時に彼の親代わりであるヤンの心労を少しでも和らげたいという気持ちゆえでもある。
軍人である父を持ち、ヤンのもとで育ったユリアンが同じ職業を志すのは自然なことではあったし、それに敵うだけの才能が彼にはあった。
シェーンコップやポプランなどは随分とユリアンを可愛がっており、それは彼の軍人としての豊かな才能と養父譲りの戦略眼を認めているからでもある。
それでも、「できれば軍人以外に」という考えをヤンが捨て切れていないことにジーンは気付いている。
それは親心でもあり、彼の信条に基づくものでもある。
ユリアンという個人を尊重しつつ、しかし本心では別の道をと願っている。
それはまるで、ヤン・ウェンリーという数奇な運命を辿る一人の軍人を象徴しているようでもあった。
ヤンとジーンの間にアルコールを介したささやかな交流が始まってしばらく後、彼の出自に触れる機会があった。
彼の父親は惑星間を商って回る星間交易船の船長であったという。
人生の半分を交易船の中で過ごしたというヤンが、その知識と信条を身に着けるに至った経緯はどうやら本の中にあるらしい。
惑星間を移動する暮らしで学校教育と無縁だった彼にとって、積み荷の中にあった数々の本が教師代わりとなったようだった。
とりわけ彼を惹きつけたのは歴史書で、偉大な為政者、横暴な支配者、そして歴史の波で蠢く人々の営みが描かれる書籍の中に、彼は常に疑問と答えとを見出してきた。
権力者や軍・戦争を嫌悪し、歴史家を志す一方で、実際は士官学校へと進学し、艦隊司令官としてその名を馳せることになった彼を、以前のジーンはどこか物語の登場人物のように捉えていた。
しかし、言葉を交わしてみれば、その印象は想像とは少し異なる。
軍人らしからぬ怠惰な生活態度はもとより、温和に見えて意固地な性格や飄々としているように見えて強い信念を胸に抱く様は、ヤンという人の人間味を感じさせ、ままならない人生を生きながら前を向くことを止めないその強さに憧れた。
柔らかな強さを持った人なのだと、今は感じている。
(ヤン提督こそが、ユリアンを必要としているんだわ。)
彼は強い。
けれど、彼の強さを形作るのは軍人らしい硬質さではなく、人間味溢れる柔軟性なのだ。
だからこそ、それを支える人が必要なのだと思う。
仲間や信頼という絆こそが、彼を彼たらしめ、その強さを支えている。
亜麻色の髪の少年の明るさは、変わり者の司令官の内側を光で照らす。
ユリアンの朗らかさこそが、過分な重荷を背負わされたヤンの背を支えているのだとジーンは思う。
キャゼルヌやシェーンコップやムライにアッテンボロー、ヤンの周りには彼を心から尊敬し、真心から尽くそうという良き幕僚が揃ってはいるが、ユリアンが支えている部分は他の誰とも違う部分なのだ。
飄々とした態度で周囲を煙に巻きながら、その実、内側には強い意志を秘めている。
しかし、強さとは常に孤独の裏返しでもある。
仲間と共にあればこそ強くもある彼が、立場ゆえに抱える孤独。
それを温かく包み込む存在が家族であり、つまりユリアンなのだと感じている。
「フレデリカ。」
およそ軍人らしからぬ態度で、しかし誰よりも指揮官としての資質を備えたその人の柔らかな部分、もしそれを支えられる人がユリアンの他にいるとしたら……。
「あなたまでそんな顔をしていては、提督が余計に寂しがるわよ。」
ユリアンのいないイゼルローンに肩を落とすフレデリカに、ジーンは苦笑する。
決して見せることのないヤンの内面の揺らぎが、まるで彼女にまで乗り移ってしまったようだと思った。
そして、彼に寄り添える女性だからこそ──稀代の英雄は彼女を必要としている。
「ごめんなさい。でもなんだか……提督のことが心配で。」
平素と変わらずに過しているように見えるヤンの僅かな変化には、フレデリカも気付いている。
だからといって自分まで落ち込んでどうするのだとジーンは笑った。
彼の気持ちに寄り添えるのはやはりフレデリカだけだと思う一方で、どうせ気付いたのなら共に悲しむよりも逞しく支えてあげて欲しいと思うのだ。
それは、愛らしい親友への友情とほんの少しの嫉妬心。
彼女にしか果たせない役割なのだということをジーンは知っている。
「そうね、フレデリカ。でも……。」
彼女の想い人同様、どこか鈍感な部分があるらしいフレデリカに苦笑して、彼女の背に手を添えた。
同盟軍随一の智将の右腕として辣腕を振るう彼女が、果たしているもう一つの役割。
それはきっと、ユリアンが担ってきたものに一番近い。
「あなたが支えてあげなくちゃ。」
フレデリカならきっと、ユリアンと同じ光を、同じぬくもりをヤンに与えることができる。
彼もきっと、それを求めている。
「わ、たしが……?」
「うん、そうでしょう。」
「でも……。」
フレデリカがヤンを見つめてきたように、ジーンもヤンを追いかけ続けていた。
だからこそ、彼らが惹かれ合い、求め合っていることにも気付いたのだ。
他の誰でもない、フレデリカだからこそ果たせることがある。
彼女だからこそ、支えられる人がいる。
どんなに羨ましくとも、自分では代わることのできない大切な役目をフレデリカこそが担っている。
「あなたもヤン提督も鈍いから。」
丸く見開かれたヘイゼルにジーンは笑って、「提督もきっと同じ気持ちよ」と視線で告げる。
フレデリカの頬が、ぱっとピンク色に染まった。
「ねえ、フレデリカ。あなたにしか出来ないことだもの。」
頬を染めて、俯いて、それから目を潤ませて、「だけど」、「でも」と繰り返すフレデリカも今だけは副官の仮面を外している。
叶って欲しいと思い、彼ら二人の美しい未来を願った。
わずかに揺れる寂しさは、心の奥深く、蓋をして仕舞い込んだ。
「自由惑星同盟の今後はあなたに掛かっているかもしれないわよ。」
冗談めかして笑うジーンに、今度こそ耳までを赤く染まった顔をフレデリカが両手で覆う。
「ジーン!」
「あはは、頑張って!ヤン提督は倍鈍そうだから、そこはあなた次第じゃない。」
夜明けを運ぶ英雄に、どうか最強の援軍を。
愛する親友の未来に、どうかあたたかな祝福を。
寂しさの代わりにやってきたのは優しい日差しのような感情で、目を閉じればそこに輝く朝日の昇る様を思い浮かべることができた。
しかし、共に笑い合えた時間は、振り返れば僅かなものであったと言える。
夏の終わりが近づく頃、ついに──銀河帝国よりラインハルト・フォン・ローエングラムの名前で自由惑星同盟に対する宣戦布告がなされたのだ。
両陣営は壮絶な情報戦へと突入し、真偽の定まらない情報が入り乱れる。
本土から届く変則的な指示に右往左往しながら、最前線であるイゼルローン要塞も慌ただしさを増していった。
二国の軍が再び戦火を交える瞬間は、すぐそこまで迫っていた。