互いに主砲を撃ち合うという形で鮮烈に幕を上げたイゼルローンの攻防戦は、シェーンコップら陸戦部隊の活躍、メルカッツの巧みな艦隊戦、そして帰還したヤンの知略によって同盟軍の勝利で幕を閉じた。
軍に籍を置いて初めて迎える戦闘に緊張を強いられ続けたジーンだったが、会戦が終わったからと言ってすぐに任務から解放されるわけではないのが事務方の常だ。
戦禍の中で感じた恐怖や今後の時勢に対する不安を思い出す暇さえないほどに、時間は目まぐるしく過ぎていく。
慣れない日々にジーンの疲労もいよいよ高まった頃、一つの変化があった。
ヤンの推挙によって、一つ階級を上げることになったのである。
「いかがですか、昇進なさった気分は。」
テーブルを挟んで向き合った男が、優美な笑みを作ってジーンを見つめている。
ヤン艦隊の幕僚であり、先のイゼルローン攻防戦でも多大な貢献を果たしたローゼンリッター連帯の隊長、シェーンコップである。
「あまり自覚がない……というのが正直なところです。」
運んできたボトルをソムリエが傾けて、濃い赤が二つのグラスへと注がれた。
波打つ液体を見るともなしに眺めていたジーンだったが、ややあって視線を向かい合う彼へと向けた。
「私は自分を“軍人である”とは思っていませんし、今はただ……キャゼルヌ少将の仕事を少しでも楽にして差し上げたいというだけです。」
「……忠実な部下をもたれて、事務監殿は幸せですな。」
意味ありげな沈黙の後でシェーンコップはグラスの液体を回して、彼にしては珍しい曖昧さを選んでグラスを掲げた。
「何はともあれ、おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
白い指先がグラスを摘まみ、シェーンコップに合わせてジーンもグラスを上げる。
飲み下したワインは保存状態も良く、芳醇な香りが一瞬で鼻孔へと広がる。
こんな風にして落ち着いて食事をすることは久しぶりだった。
一度はひっ迫していた物流が再び動き出し、嗜好品が滞りなく供給されていることを実感し、そっと頬を緩める。
これこそキャゼルヌと自分たち部下の努力の賜物なのだと思うと、それが誇らしかった。
「あなた方のおかげですな。」
「え、」
「事務方の努力あってこそ、こうしてうまいワインが堪能できる。感謝してもしきれませんよ。」
「ありがとう……。そう言ってもらえると努力のし甲斐があります。」
シェーンコップに言われて、ジーンは思わずはにかんだ。
秘かに感じていた小さな誇りが歴戦の軍人である彼に認められた気がして、そのことが素直に嬉しかった。
幼い頃に祖父母に連れられて銀河帝国から亡命して来たという彼は、メルカッツ提督同様、名前に「フォン」の文字を持つ貴族の出身である。
そのせいだろうか、陸戦部隊という猛者の中にあっても優雅さを失わない彼はどこか独特の雰囲気を持っている。
歯に衣着せぬ物言いと揺るぎない実力とで部下たちの信任厚いシェーンコップは、イゼルローン要塞においても一際強い存在感を放つ幕僚の一人だ。
上司であるヤンに対しても遠慮のない言葉をしばしば投げかけるが、それも含めてお互いの間に強い信頼関係があるのだということは、周囲にもよく理解されている。
着任初日に声をかけられてから幾度となく食事に誘われているジーンだったが、彼と二人きりで出かけるのは今日が初めてだった。
戦時下の外出は困難であったし、その後もヤンと三人、あるいはフレデリカと四人かもっと大人数か、とにかく複数での食事しか機会を得られなかったシェーンコップが、「昇進祝いに」と半ば強引にジーンを誘い出して今に至っている。
彼女がシェーンコップと二人きりにならなかったのには、一応の理由がある。
言うまでもなく彼の女性関係の噂の派手さがその原因で、ジーンとしてはその噂話に名前を連ねるようなことになるのは本意ではないと考えたからだ。
彼自身を嫌っていたわけではないのだが、とにかく噂話や女性同士のいざこざに巻き込まれるのは勘弁だった。
けれど、同じだけ彼の魅力も理解している。
華やかで人目を引く顔立ちが女性たちの心をときめかせるのは当然だと思えたし、整った体躯や男らしい性格に惹かれる女性が多いのも頷ける。
何よりも、さも軍人らしい逞しさを持ちながら、柔軟で配慮に満ちた彼の口ぶりはジーンにとっても特に話しやすい相手だと感じさせるものだった。
彼女自身としては、学生時代や代議員の秘書官時代を含めて多少は男性を見る目を養ってきたつもりでいた。
しかし、過去に出会った誰とも違う、そして圧倒的な魅力をシェーンコップは持っていると認めざるを得ない。
屈強な軍人であるはずの彼の紳士的な態度にいつしか気構えも外れ、気が付けば自然に笑い合うようになっていた。
「肉料理がお好きだと伺ったので。」
サラダの後に登場したのは牛肉のタルタルで、生卵の乗った赤身肉の脇には数種類のソースが並んでいる。
「美味しそう!」
思わず顔を綻ばせたジーンに、シェーンコップが満足そうに笑う。
「ここのリブロースは完璧ですよ。この後で鉄板ごと出てきますから、お楽しみに。」
深層の令嬢だという彼女の舌をなんとか唸らせてやろうと考え抜いた店選びは、どうやら成功したらしい。
ヤンやフレデリカと接する様子から、気取った店よりもこの手合いが効きそうだと踏んでいた自身の勘をシェーンコップは誇らしく思う。
「さすが、いいお店をご存じですね。」
「食事も酒も、上質なもので有意義に過ごすに超したことはありませんからね。」
安酒でも構わずに飲むヤンを揶揄して言えば、ジーンも笑った。
「私も本当は食い道楽なんですけどね。」
「自身の名誉のために言っておく」とジーンも茶化して言って、グラスを重ねるごとに会話は潤いを増していく。
「そんなあなたのおかげでイゼルローンの食事水準は保たれているわけだ。」
「それは大袈裟ですけど。だけど大事なことだと思います、心の豊かさって食事が基本ですから。」
話しながら、ジーンの中でのシェーンコップの印象も変化していく。
本業だけでなく恋愛に関しても血のにおいを知れば飛びかかる狼のような男だと想像していたが、こうして向き合えば、意外なほど穏やかな紳士である。
ジーンの知っている帝国貴族はメルカッツと彼くらいだが、タイプは違ってもどこか優雅さを感じさせる点は共通しているかもしれないとふと思った。
「うまい食事といい酒と美しい女性と、それこそが人生の彩りだと私は思いますね。」
そんな言い方を彼らしいと思ったり、軍人としての信条を語らないことを意外だと思ったりしながら、唄うような声を聞いている。
「美味しい食事とお酒は同意しますけど、“素敵な男性”を語れるほど私は人生を知らないみたい。」
つい本音が漏れてしまったのは彼の話術の賜物なのかもしれないと感心しながら、ジーンは思わず苦笑した。
「ほう。」
初心な女を演じるつもりもないのだが、目の前にいる男に比べれば自分の経験値など赤子同然なのだから仕方がない。
素直な考えを口にしたジーンに、シェーンコップはナイフを持つ手を止めた。
「このイゼルローンに、あなたの興味を満たす男はいませんか。」
唐突に吹いた風に心の湖面が揺らめくような、そんな感覚だった。
思わず深く息を吸い、頬に集まる熱から逃れるようにジーンは首を振る。
「……あまり考える余裕がなかったから。」
脳裏に揺れる黒髪と困ったような笑顔、つい今まで忘れていたはずの姿が思い出され、胸が苦しい。
「恋愛は大いにするべきですよ、ミス・ブラックウェル。」
「中尉」とせっかく昇進したその階級ではなく彼女を呼んで、シェーンコップの視線がジーンを見つめる。
胸が早鐘を打った。
「……そうかしら。」
「そうですとも。」
「是非私と」とは、彼は言わなかった。
苦しい秘密を抱えるジーンの心にそっと寄り添うように、あたたかい笑みを向けている。
秘するべき恋であってもそれは悪ではないのだと言われた気がして、ジーンは消えかけていた笑みを取り戻した。
「さあ、ここはデザートも絶品です。メニューを貰いますか?」
歯を見せて笑ったシェーンコップにジーンもつられて笑い、ほっとしたように息を吐いた。
「いつもはエスプレッソだけなんですけど。」
「たまには自分を甘やかすのも大切ですよ。それにあなたは十分痩せてらっしゃいますしね。」
この夜を楽しむべきだ、そう決めてしまえば自然と心は軽くなる。
誰もが羨むほど魅力的なこの人と、今宵は思い切り楽しんでしまおう。
駆け引きめいた会話や視線のやりとりが心をときめかせ、それでいて決して一線を超えようとしないシェーンコップの態度がジーンを安心させた。
鼓膜に響く優しい低音に耳を傾け、素直な視線で見つめ返せば、優しい笑顔が受け止めてくれた。
甘い予感は見ないふりと互いに決め込んで、賑やかに過ぎる時を共有する。
今はそれが心地いい。
年上の男が紡ぐ穏やかな時間に、ジーンはそっと身を委ねた。