士官用の食堂の隅にジーン・ブラックウェル少尉の姿を見つけ、シェーンコップは足を止めた。
彼女は、御多分に漏れず慢性的人材不足に陥っているイゼルローン駐留艦隊に現れた救世主である。
著名な経済人の息女で政治家秘書だったという彼女が、要塞事務監キャゼルヌの腹心としてその辣腕を存分に発揮して久しい。
着任からしばらくが経ち、軍服姿も大分様になってはきたが、それでもきっとブラックスーツのほうが似合うだろうと容易に想像できる。
理知的な印象の美人だ。
自立した女性らしい溌剌とした表情は、友人だというフレデリカとも共通しているが、フレデリカが初夏の零れ日だとすれば、彼女は日差しを映しながらも涼やかに揺れる湖面のようだとシェーンコップは思う。
明るさの中に知性と静けさをあわせ持っている。
近づいて見れば、ジーンと話し込んで背を向けていた人物の意外さに、再び足を止めることになった。
この要塞の主人でありながら、もっとも主人らしくない人物。
つまりヤン・ウェンリー提督、その人である。
「マグカップでバーボンとは随分色気のない話ですな。」
「シェーンコップ……!」
二人の間に置かれたボトルにため息をついて見せると、一応は気まずい様子を作ってヤンが笑った。
「しまったな、人に見られるとは思わなかったから。」
マグカップの中にはカフェテラスでもらってきたのであろう氷と琥珀色の液体。
せっかく美人とグラスを傾けるチャンスというのにマナーがなっていないなと上官ながら呆れるが、そんな形式ばらない気さくさこそがヤンが人望を集めている理由なのだから仕方ない。
第一に、綺麗に削った氷を浮かべて美女と隣り合わせたヤン・ウェンリーなど誰に聞いても笑われるだけだろう。
「君も一緒にどうだい。カフェに頼めば多分グラスも借りられると思うんだけど。」
言い訳のよう言う様子から考察するに、最初は紅茶か何か飲んでいたカップを、興が乗ってきたからとそのまま酒の入れ物に流用したようだった。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。」
食堂で一杯など情緒のない話だとは思うが、せっかくのチャンスをみすみす逃すのは勿体ない。
グラスを拝借してきますと告げて、「ついでにもう少しマシな氷があればもらってきますよ」と冗談めかして毒づいた。
困ったように眉を下げるヤンの隣で、ジーンが肩を揺らす。
彼女の手にもヤンと同じマグカップで、そのアンバランスさが可笑しい。
資産家令嬢だという出自に相応しく高級品の雰囲気を纏う彼女だが、綻ぶ笑顔同様に性格も朗らかで庶民的らしい。
「それで、お二方は何を議論しておいでですか。」
氷を入れたグラスにボトルの中身を注いで、シェーンコップはジーンの横に陣取った。
グラスは無事に手に入れたものの「マシな氷」は難しく、白く濁った塊をヤンたちと同様に琥珀の波に浮かべている。
「いや、議論なんて大袈裟なものじゃないさ。ただ歴史の話ができるのが嬉しくてね。」
「ヤン提督の博識にはとても及びませんが。」
ボトルの中身は既に半分ほど減っているが、それをものともしない様子でふわりとジーンは笑って、シェーンコップに向けてカップを掲げて見せた。
落ち着いて見える表情が崩れ、悪戯に微笑む視線が眩しい。
「けれど、共通の友人が一人いれば、それだけで話も弾むというものです。」
「なるほど、良い友人をお持ちのようだ。」
二人を結びつけた「友人」とはどうやらトウモロコシを主成分とする高濃度のアルコール飲料のことのようで、その砕けた言い回しはシェーンコップも気に入った。
配属初日に司令官室で顔を合わせて以来、いつかじっくり話してみたいと思っていた相手だったが、多忙を極めるキャゼルヌの部下であり、一時はフェザーンに長期出張していたジーンと向き合うのはこの時が初めてだった。
知的で物静かだと思っていた印象は話してみれば一変し、冗談を言いながら笑う様子はどこか子どもっぽくも見える。
一方で評判通りによくまわる頭が次々と新しい話題を紡ぎ、いつまでも話していたいと思わせる魅力が彼女にはあった。
ヤンの酒量は相当のものだが、ジーンのほうもなかなからしい。
シェーンコップという友軍が加わったこともあってボトルはすっかり空になり、名残惜しさを感じさせながら撤退の号令がヤンから発せられることになった。
「君の援軍は少し強力過ぎたなあ。」
「ほう、小官はお邪魔だったということですか。」
「そうじゃなくて。だけど、今度はボトルの一本も持参してくれるとより助かるなってことだよ。」
間延びした口調で言いながら腰を上げ、マグカップに残る液体を惜しむように啜るヤンにジーンが笑う。
「フレデリカに聞かれたら、飲み過ぎだってきっと怒られますよ。」
「ああ、そうだねえ。まったく……ユリアンがこっちに来てから、なぜかグリーンヒル大尉の監視も強まる一方とは。」
「ヤン提督の周りは人材が豊富ですからね。」
ヤンのぼやきを聞いて肩を揺らすジーンの背中を観察しながら、酒を過ごした二人の歩調に合わせてシェーンコップは半歩後ろを歩いていた。
「とんでもない、とんだ人材不足だよ!ああ、だけど君という逞しい味方が加わったからね。」
「ふふ。キャゼルヌ少将に叱られない範囲でしたら、いつでもお相手いたします。」
上司の名前を出して受け流すジーンの頬が僅かに紅い。
あれだけの酒量を前にして顔色一つ変えなかったというのに、だ。
「それでは、小官たちはこちらで。」
「ええ。シェーンコップ少将もまた。」
居住エリアが分かれる手前で足を止めたところで、ようやく自分に向けられたジーンの視線。
「美女のお誘いとあれば、いつでも最優先で馳せ参じますよ。」
軽口で答えながら、内心で思う。
(ヤン提督も困ったお人だ。)
ジーンは、ヤンに惹かれているのだろう。
小一時間も酒を酌み交わせばなんとなくはわかる、少なくとも恋愛において百戦錬磨のシェーンコップにとってはそう難しいことではなかった。
もっともジーン自身もそれほど自覚しているとは思えず、ヤンに至ってはまったく気づいている様子はない。
それに、ジーンが時折フレデリカの名前を出してヤンを窘めたりからかったりするのは、自身の気持ちにブレーキをかけている現れだと推測された。
ヤン提督の優秀な副官が、尊敬以上の気持ちを上司に対して抱いていることは、ヤン以外の多くがおそらくは察している。
フレデリカの友人であるジーンなら、直接彼女の胸のうちを聞かされてもいるかもしれない。
惹かれながら、己の気持ちに蓋をして、それでも慕う気持ちを止められずにいる。
若い女らしいいじらしさが、大人びて見えるジーンの魅力を逆に引き立たせているように感じられた。
自分よりヤンのほうがいいという意見は気にくわないが、恋に身を焦がす女性というのは一層美しく魅力的だとシェーンコップは思い直して、からかい半分の牽制をヤンに向けてみる。
「提督は、ブラックウェル少尉のような女性がお好みですか。」
「ん、なんだって?」
想定外の一投だったのか、どこかぼんやりとした様子でそれを受け止めて、軍事であれば万事を見通す千里眼を持っているはずの彼が疑問符を浮かべて振り返る。
「知的で快活、年齢も4つ違いとあれば艦隊司令官の未来の伴侶としてはなかなかにお似合いだと思いますが。」
重ねて告げれば、驚いた様子の視線をシェーンコップに向けて、「まさか」とヤンが首を振った。
「やめてくれ。そんなことを言われたら彼女を気楽に誘えなくなるじゃないか。」
だからこそ言ったのだとシェーンコップは眉を上げるが、牽制を向けられた相手は気づく素振りもない。
「私の無駄話に付き合ってくれて、しかも酒好きなんだ。貴重な人材を失いたくないからね。」
それどころか逆に念を押されてしまって、閉口した。
この無自覚な罪人は、どうやらこれからも二人の女性の心を振り回すのを止めるつもりはないらしい。
「なるほど。では、誤解など招かぬように……今後は出来るだけ小官も陪席させていただきましょう。」
ならば作戦変更と、今度はわかりやすい牽制球を放ったシェーンコップにヤンは気軽な様子で頷いた。
「そうだね。だが、そうなるとやっぱりボトル一本じゃ足りないよね。」
無自覚の女殺しというのは自分などより余程質が悪いと内心で毒づきながら、しかしヤンを嫌悪する気持ちは微塵もない。
それどころか、この男の魅力を正しく理解する女性こそがいい女なのだと思っている自分がいる。
己のほうも解決しがたい矛盾を抱えているなと苦笑して、シェーンコップは上機嫌のヤンに従うようにして歩みを進めた。