空に浮かぶ雲が、茜色に染まっている。
気が付けば随分と日が伸びたなと執務室の窓から夕陽に焼けた空を眺め、エルスハイマーは一人ため息をついた。
半年ほど前に総督代行の職を拝命したが、どうにも居室を移す気になれず、未だ民政長官の部屋に留まったままでいる。
総督室の主は帰ることがないまま、しかし留守を預かるベルゲングリューンとエルスハイマーによってなんとか執務は滞らずに動いてはいる。
実際に彼の仕事を肩代わりしてみると、一体どれほどの才覚があればこれだけの執務を同時に捌けるのだろうかと舌を巻かずにはいられない。
長く内務官僚としての役を担ってきた自分でさえ戸惑うほどの量を、自分とは比べ物にならない速度で処理していた人物を思い出しながら改めて感心し、今夜も遅くなりそうだと腹を括った時だった。
「久しいな、エルスハイマー。」
静かに開かれた扉から、聞こえた声。
幻聴かと思うほどのタイミングで、しかし、それにしてははっきりとその人の声がエルスハイマーの名前を呼んだ。
「ロイエンタール総督……!」
ダークブラウンの髪、色違いの双眼、目の前に現れたのはエルスハイマーが今まさに想像していた人物そのもの。
「連絡を入れるべきだと思ったが。すまぬな、あまり自由の利かない身なのだ。」
二人の憲兵に伴われて民政長官室に入ってきたロイエンタールが、「ベルゲングリューンには先ほど会って来た」と告げる。
長くフェザーンで拘禁状態にあったというロイエンタールの身柄がハイネセンに戻されたことにほっとすると同時、彼の背後に立つ憲兵の姿に胸が痛む。
半年前の冬、それはロイエンタールにとっても、エルスハイマーにとっても激動の季節であった。
新皇帝の御幸の途中で起きたウルヴァシーでのテロ事件は、彼らだけでなく多くの人の人生の行先を大きく変える出来事となった。
多くの兵士が死に、エルスハイマーの義兄であるコルネリアス・ルッツも皇帝を守るための犠牲となった。
新領土で起こった事件は、皇帝ラインハルトと彼の宿将であるロイエンタールの間に亀裂を生じさせ、事態は軍事衝突の直前にまで発展したのだ。
「総督……。」
呼びかけたエルスハイマーを見返して、ロイエンタールが苦笑する。
「もう総督ではない。」
ロイエンタールは変わらずに堂々とした姿勢を保っていたが、それでもよく見れば少し細くなった顎や影を落とす瞳に、拘禁生活の疲れが感じられた。
「その人事は、もうすぐ卿に下されるだろう。」
沈痛な思いで彼を見ていたエルスハイマーは、思いがけない言葉に「えっ」と声に出していた。
「し、失礼を。しかし……!」
「この俺が、ハイネセンの自治権をオーベルシュタインに呉れてやると思ったか。」
驚くエルスハイマーに、ロイエンタールは彼一流の皮肉な笑みをもって応えた。
「新領土の総督には卿をと、幾度も推挙した甲斐が実った。まあ、苦労はしたがな。」
重い責務を両肩に感じるが、この人に言われるのであればという気持ちもある。
有能ではあるが本心の知れない上司であった彼だが、そういえばどこか雰囲気が違っている。
そして、それが何に起因するのかを──エルスハイマーは知っているのだ。
「いずれわかることだ。それを伝えに来たわけではない。」
彼は静かに言ってから目礼し、
「ルッツのこと、すまなかった。」
はっきりとした口調でそう言った。
「彼の死の責任は俺にある。卿にも卿の奥方にも申し訳ないことをした。」
まっすぐに謝罪の言葉を口にし、それから彼は礼を述べた。
「ベルゲングリューンと二人、よくやってくれた。ハイネセンがこうして落ち着いているのは卿らの努力あってこそだろう。」
ハイネセンのために礼を言うその人に、改めて驚きと感心を禁じ得ない。
自分にとっても彼にとっても、ハイネセンは長く遠い異国だった。
総督府を任されたといってもそれはわずか半年のことで、それでも彼は──この星を、「ハイネセン」を、まるで生まれた故郷の名前のように柔らかな声音で呼んだ。
ロイエンタールの視線が床を滑り、一点へと向かう。
彼が何か言ったわけではなかったが、エルスハイマーは両肩を強張らせて緊張し、思わず沈黙する。
何と言っていいのかわからない、何から話せばいいのか、何を告げればいいのかわからない。
すべては終わったことで、もう取り戻しようもないことだとわかっている。
だからと言って、事実だけを報告するのはあまりにも苦しい。
「……代わりの者は、雇っていないのか。」
エルスハイマーの席の前にある、何も置かれていない机。
一目見て空席とわかるその場所のことなら、ロイエンタールもこの部屋に入ってきた時から気付いていたはずだ。
それでも互いに触れずにいた、言えなかった。
「あ……。」
いくつかの返事が脳裏を巡り、けれどそのどれも言葉にすることはできず、エルスハイマーは小さく首を振った。
「そうか、重ねて謝罪せねばならんな。」
低い声に抑揚はなく、正も負も一切の感情を感じることはできない。
「義兄だけではなく、俺は卿の部下までも……。」
「閣下……ッ!」
今や「総督」でも「閣下」でもない彼かもしれないが、エルスハイマーにとっては変わらずに尊敬の対象であったし、何よりも──その空席に一番傷ついているのは彼自身なのだと知っている。
「………。」
彼は沈黙し、それから数歩歩いて机の脇に寄り、丁寧に磨かれた表面を──そっと手のひらで撫でた。
黙したままで、声を発するわけではなく、吐息を乱すわけでもない。
けれど、慈しむように無機質な平面を撫でる仕草に、エルスハイマーは思わず自分の口を覆った。
そうしなければ、こみ上げる嗚咽が口から零れ出てしまいそうだった。
たった半年前までそこに座っていた明るく聡明な眼差しの女性は、エルスハイマーにとっても掛け替えのない一人だった。
慣れないハイネセン赴任の導き手であった彼女は、どんな困難にも明るく、しかし粘り強く対処する優秀な職員だった。
同時に、国を思い、民を思う心を持った美しいその女性は、帝国、同盟という出自も思想も超えて、共に戦う同志でもあった。
より良い治政をという思いを共有し、手を取り合えばきっと世界は変えられると教えてくれた人だった。
しかし、彼女はもうここにはいない。
総督府にも、ハイネセンのどこにも、宇宙中どこを探しても、もう二度と会うことは叶わない。
あの日、ロイエンタールへと向けられたグリルパルツァーのブラスターは、彼の目の前を遮ったジーンの身体を貫いた。
すぐに医師による処置が行われたが、彼女の同僚たちの願いはついに届かず──ジーンが彼らの元に戻ることはなかった。
「葬儀は……。」
長い沈黙の後で口を開いたロイエンタールだが、視線は彼女のデスクに置いたままだ。
エルスハイマーは、彼女の兄が遺体を引き取り、郊外の別邸で葬儀を執り行ったこと、同僚たちや彼自身も参列したことを震える声で伝えた。
「そうか」と言ったきり、また沈黙したロイエンタールの視線が見つめているものが何なのか、エルスハイマーは不安になる。
まさか後を追うとは思えないが、それでも不安になるのは──彼を地上へと繋ぎ止め、軍人としての矜持を曲げさせたのは、きっと彼女なのだろうと思っているからだ。
彼女がいなければ、誰が止めようとロイエンタールは彼の旗艦で宇宙へと飛び立っていただろう。
そうなれば彼はここにいなかっただろうし、ハイネセンも今のようではなかったはずだ。
彼女の存在が、彼女の命がこのハイネセンを救ったのだと、エルスハイマーは思っている。
あの日、一人で総督室に向かったジーンとロイエンタールとの間に何があったのかは知らない。
特別な関係にあったとも思えない二人だが、こうして改めて振り返るとやはり他人にはわからない絆があったのかもしれないと思う。
稀代の軍人であるロイエンタールに剣を降ろさせた一人の女性の死にエルスハイマーは胸を詰まらせ、消えない悲しみを溢れ出した涙に乗せた。
「いつになるかはわからないが、」
ロイエンタールが顔を上げ、それから口唇を歪めて虚空を見る。
「墓を訪ねたい。」
「簡単に許されることではないだろうが」と自嘲気味に笑う彼は、まるでそこにジーンの姿を見ているかのようであった。
彼女の墓所は葬儀が行われた郊外の別邸にあり、首都からは幾分離れている。
ロイエンタールが自由に身動きを取れるようになるのも、彼女の兄の許しを得るのも、どちらも確かに容易ではないように思われた。
「私もお手伝いいたします。」
「そうか、世話をかけるな。」
ついぞ悲しみを表すことのないロイエンタールだったが、彼の言葉を聞けば、彼女の死を強く痛む気持ちは十分すぎるほどに伝わってくる。
ハイネセンに戻るだけでも並みの苦労ではなかったはずだ。
それを思うと、やはり彼はジーンのためにこの場所に戻ってきたのではないかと思わずにいられない。
「エルスハイマー。」
虚空を見つめていたロイエンタールの双眼が、エルスハイマーに向き直る。
その瞳が、いつの間にかかつての強さを取り戻していた。
「ハイネセンは未だ復興の途中だ、引き続きよろしく頼む。」
それは、かつてこの地を治めた為政者の顔であり、彼の力強い視線は今こそ、はっきりと前を向いていた。
「責任をもって当たらせていただきます。」
頷いたエルスハイマーも、強い意志が胸に宿るのを確認する。
先に彼に会ったというベルゲングリューンもきっと同じだっただろう。
「長い道のりかもしれぬ。」
エルスハイマーの様子を見たロイエンタールは僅かに口唇を緩めて、小さく頷いた。
冷笑ばかりが見慣れた彼の意外な表情に、目を見張った。
「だが、やらねばならん。それが……ジーン・ブラックウェルの希望だからな。」
「彼女の、ですか?」
穏やかだが力強い表情で言ったロイエンタールに、エルスハイマーが問い返す。
「エルスハイマー。ハイネセンを導いてくれという希望は、まず卿が当たらねばならんぞ。」
そう告げたロイエンタールは、どこか愉しそうにさえ見える。
まるで明日の訪れを望むように、青と黒の双眼に宿るのは確かに希望だ。
「ハイネセン、イゼルローン、そして……この宇宙、すべてを剣以外で治めよというのはなかなかに無理難題だが。」
そこまで言ってから彼は憲兵のほうを一度見て、
「これが終わらんうちは、俺にはゆっくり朝食をとる権利さえないようだからな。」
冗談でも言うように笑って見せた。
「は……。」
彼の言葉をすぐには理解できずに、しかし、それが──亡き女性から託された何事かを意味しているのだろうとは気が付いた。
「ミス・ブラックウェルは……。」
「ああ、実に厄介な女だ。」
穏やかに、エルスハイマーの知らない顔でロイエンタールが笑って、
「たった一言で、この俺を地上に繋ぎ止めてしまったのだからな。」
朗らかに言いながら、窓の外を見る。
たった一言。
それが何なのかを知りたいと思うが、きっと生涯明かされることのない秘密だということも理解している。
ロイエンタールとジーン、二人の間にあった「何か」。
神聖不可侵の絆、それが愛であったのか、それとも違うものなのか、エルスハイマーは知らない。
しかし、彼の希望は──真実とそう遠くない。
ロイエンタールはハイネセンに戻り、彼の目は明日への希望を宿している。
この奇跡をもたらしたのはジーン・ブラックウェルであり、彼女は確かに──偉大な為政者の心の中で生き続けている。
窓の外はいつの間にか夜の色に染まり、そのことが彼の滞在時間の終わりを示して寄越した。
「どうか、ハイネセンのことはお任せください。」
エルスハイマーも微笑みを取り戻して目礼し、ロイエンタールがそれを受ける。
彼がここに戻るまでの間、総督府を守らねばならない。
そう思うと、自然と心が強くなる。
時代は、常に前へと進み続ける。
悲しみを超えて、流した涙を希望に変えて。
時を紡ぐ者たちの背中を押すのは、在りし日の温かな眼差し。
夜のハイネセンに、また──希望の灯が点された。
【あとがき】
ミッターマイヤーがロイエンタールを救うために奔走するシーンは、原作の中で最も好きなシーンの一つであり、最も苦しいシーンでもあります。
彼らが再び並び立つ世界線はどこかにないだろうか……そう考えたことがお話を着想したきっかけです。
また、政治家・ロイエンタールを彼の行き着く先としたのは、ユリアンが「第三代あたりの皇帝に相応しい」と評していたからです。
ラストがこういう形になったのは、必然かとも思い、同時に不本意でもあります。
田中先生のお話を題材にするとは、きっとこういうことなのでしょう。「どうしても“そちら側”へ引っ張られるなあ」と、書きながら強い引力を感じました。
一方で、私自身は「ハッピーエンドで大円団」が好きなのです。
ラストが不本意と言ったのは、そういう理由です。
が、そこはやっぱり二次創作の世界なので……
幸せな「IF」のお話を書き、マルチエンド方式とさせていただこうと思います。
最終話のあとにもう一話、「ハッピーエンド」のお話をアップしていますので、もう少しだけお付き合いいただけたら幸いです。
※「活動報告」に執筆者コメントとアンケートを載せていますので、よろしければご覧くださいませ。