白壁の図書館のレリーフが、光を受けて輝く午後。
空を覆う薄雲を揺らすようにして、ハイネセンの街に礼砲の音が響き渡る。
宇宙歴832年夏、「ヤン・ウェンリー記念図書館」前に広がる巨大な公園の一角で、石造りの記念碑の除幕式が行われた。
「新銀河連合」の要人たちが集まる盛大な式典を取り仕切るのは、図書館長であるユリアン・ミンツである。
今から約30年前、長きに渡り対立を続けてきた自由惑星同盟と銀河帝国の最後の大戦はついに終結した。
自由惑星同盟の敗北によって銀河帝国の「新領土」に併合されたハイネセンだったが、今は「ハイネセン共和国」の名を戴く一国家である。
ハイネセン共和国、銀河帝国を含む多くの国家による共同体、「新銀河連合」が発足して既に久しい。
記念碑に刻まれているのは、この「新銀河連合」設立の功労者であり、ハイネセン選出の連合議員にして初代議長、オスカー・フォン・ロイエンタールの名前である。
偉大な指導者として歴史に名を刻む彼の半生が、銀河帝国の軍人であったことを知る者は今や少ない。
ハイネセンでの彼は、傑出した能力を持つ稀代の政治家としてその名を知られている。
征服地の「総督」として銀河帝国からやってきた彼は、祖国に対する反逆者の汚名を受け、その職を追われた。
一度は祖国に戻った彼が、民間人としてハイネセンに戻った理由はごく私的なものであったとされているが、結果としてこのことが彼を政治家の道へと導くこととなった。
銀河帝国における第一代皇帝ラインハルトの治世は、早すぎる皇帝の崩御によってわずか三年で幕を閉じた。
幼帝を戴く銀河帝国、宇宙回廊に鎮座し、今や人口500万に膨れ上がったイゼルローン共和政府、そして不安定な新領土は、いつ戦渦へと逆戻りしてもおかしくない状態にあったという。
この時、銀河帝国の国務尚書となったウォルフガング・ミッターマイヤー元帥が、イゼルローン共和政府への使者として頼ったのが、旧友であるロイエンタールだった。
銀河帝国の提督として、フレデリカ・グリーンヒルやユリアン・ミンツと幾度も戦火を交えてきた彼が、どのようにして彼らとの交渉を成立させたのか、その詳細は公的な記録のどこにも記されていない。
ともかくも、交渉は成った。
この成果をもって再び新領土の総督となった彼が、人生の後半において取り組んだのが、新銀河連合の設立だった。
帝政、共和制を問わず、複数の国家によって形成される政治的な共同体は、各国選出の代議員による「連合議会」によって運営される普遍性を持った組織である。
各国の出資に基づいて設立された共同体は、軍事、医療、経済等、様々な専門機関によって共同運営を行うほか、外交上の問題が起きた際には国家間の調整役も果たす。
新銀河連合の設立と同時に独立を果たした複数の国家が加盟し、各国の主権と一定の距離を保ちながらも、唯一にして最大の国際機関として高い権威を誇っている。
良き指導者としてハイネセン国民の支持を受けてきたロイエンタールが、その名前を記念碑に刻むこととなったのは、彼がその住まいを天上へと移したからである。
宇宙を駆け、宇宙のために歩み続けたその人は、この夏を迎える直前に彼の愛した星空へと旅立っていった。
多くの人々が早すぎる死を悼み、悲しみを口にしてはその功績を称えた。
しかし、美しい大理石の記念碑は、彼の魂を宿してはいない。
「少しは落ち着きましたか、ミスター・ミンツ。」
ダークブラウンの髪を掻き上げた青年が、夏の日差しに目を細めながら図書館長に問いかける。
「このスピーチが終われば一段落だよ。後は職員たちに任せて僕もフレデリカさんたちのところに向かう予定だ。」
「いいんですか、あなたは責任者なのに。」
「責任者はこの国だよ。僕は進行を預かっているだけだし、上司が出しゃばり過ぎるのもよくない。これは僕の師に学んだことさ。」
軽い調子で言ってユリアンが笑うと、巨大な図書館の壁を見上げて青年も笑った。
「なるほど、それは確かに偉大な教えですね。」
彼の師の名前を冠した図書館は、本人が見たらきっと呆れるであろう壮麗さで、その辺りがこの図書館を建造した人物とヤン・ウェンリーその人の大いなる相違点であるのだが、気の利いた冗談のようで却っていいじゃないかとユリアンは思っている。
「君のほうこそ、いいのかい?スピーチしてくれって、何度も頼まれたんだろう。」
ユリアンは、自分の横に並んで大仰なスピーカーたちを眺める青年を見た。
知的な光を宿す青い瞳と落ち着いたダークブラウンの髪、優雅さを兼ね備えた秀麗な容姿が多くの女性たちを熱狂させていると噂の人物である。
「僕は実業家であって、政治家じゃありませんから。」
さらりと言ってのける彼だが、父親の跡を継いで欲しいという求めが随分とあったらしいと聞いている。
「まあ、ブラックウェル社のほうだって君を簡単に手放すはずがないな。今や社長の右腕だって評判だものね。」
彼、フェリックス・フォン・ロイエンタールは、ハイネセンの有力企業であるブラックウェル社の若き幹部として、ビジネス界にその名前を知られつつある。
「僕なんてまだまだですよ。だけど、ブラックウェルの伯父には感謝しています。ああ、好きなことをやらせてくれた父にも一応。」
茶目っ気のある笑顔でそう言う彼と「伯父」と呼んだブラックウェル社の社長に血縁関係はない。
しかし、彼はユリアンの前では決まってその呼び名を使った。
「ああ、もう終わるね。そろそろ出ようか。今から行けば夕方には着ける。」
夏の日差しが、少しずつ傾き始めている。
手早く準備を整えると、地上車を待たせているというフェリックスと一緒にユリアンは公園を出た。
走り出した地上車が、公園の群衆から遠ざかっていく。
「実を言うと、彼女にお会いするのは初めてなんです。」
後部座席から窓の外を眺めて、フェリックスが言った。
彼と同様に遠ざかっていく首都の景色を眺めていたユリアンだったが、その言葉に視線を横に座る青年へと移した。
「どんな人なのかも父は殆ど教えてくれなかったし、だったら駄目だって伯父まで言うものだから……気が付けば今日まで一度も。」
眉を下げて言う彼に、意外だなとも然もありなんとも同じだけ思う。
ジーン・ブラックウェルは、彼だけの女神だった。
ユリアンにとってもフレデリカにとっても、彼女は恩人だった。
けれど、彼女がそのすべてを捧げて愛したのは、オスカー・フォン・ロイエンタール唯一人であったし、彼もまたその愛に応え続けた。
「ひとり占めしておきたかったんじゃないかな、きっと。」
「そうかなあ。」
「君にも大切な人ができたらわかるかもしれないよ。」
軽い調子で言ったユリアンに、「とはいえたった一人を選ぶというのは難しいものですよ」と冗談とも本気ともつかない顔でフェリックスが言うので、思わずユリアンは吹き出した。
父親とは違う道を進む彼だが、どうやら性格はなかなかに父親譲りらしい。
そうして車内での時間を過すうちに、差し込む日差しが色を変え──やがて静かな湖畔へと辿り着いた。
「思ったより早かったな、ユリアン。」
陽の傾きかけた高台に、一揃いのテーブルと椅子が置かれている。
白ワインのグラスを掲げてユリアンを迎えたのは、シェーンコップだ。
ヤン艦隊で出会ってからイゼルローン共和政府の建国後まで、長くユリアンを導いてくれた師の一人でもある。
老年に足を踏み入れたはずの彼だが、溌剌とした様子は今も変わらずに若々しさを保っている。
「この場所でジーンと会った時のことを、元帥閣下に話していたところだ。」
そう言って鼻を鳴らす彼に、ユリアンは苦笑する。
意外な関係だと何度も驚かされたが、晩年のロイエンタールはシェーンコップと随分親しい関係にあったらしい。
ロイエンタールの旗艦に乗り込んで彼と斬り合いを演じたことのあるシェーンコップだが、そんな過去も彼らにとっては笑い話らしく、武勇と色事の両方で歴戦を誇る彼らは気の合う友人となったようであった。
「すみません、元帥。ほとんど自慢話だったでしょう。」
シェーンコップの武勇伝に辟易しているだろうとユリアンは思ったが、「元帥」と呼ばれた男性は愉快そうに笑ってそれを受け流した。
「いや、楽しいよ。俺の知らないロイエンタールの話も聞けたし、何より彼女のことは……すごく新鮮だ。」
白髪の交じる蜂蜜色の髪、ロイエンタールの生涯に渡る第一の親友であった人物、ウォルフガング・ミッターマイヤーである。
数々の戦場を共にした彼らは、後の政界においても盟友であり続けた。
ロイエンタールの怜悧さの横には常にミッターマイヤーの公明さがあったし、ミッターマイヤーの決断の裏にはロイエンタールの知性があった。
互いに背中を預け合い、時代を拓くために闘い続けた無二の戦友である。
真っ先にスピーチを終えて、真っ先に式典会場を抜け出していった彼の素早さは今も昔と変わらない。
「ユリアン!ジーンたちが待ちくたびれてるわ。」
夏の緑が薫る高台に現れたのは、また旧知の人だ。
フレデリカ・グリーンヒル代議員、イゼルローン選出の議員であり、連合の第二代議長を務めた女傑である。
ヘイゼルの瞳を持つ可憐な少女は、しなやかな軍人時代を経て政治の道へ入り、今は宇宙で名を知らぬ人のいない大政治家となった。
「フェリックス……。」
歳を重ねてなお綻ぶ花のように美しい彼女が、その微笑みを青い目の青年に向けた。
「ああ、今日こそ……ジーンにあなたを紹介できるのね。」
「花束を用意したのですが、気に入っていただけるでしょうか。」
真っ白な薔薇が光を受けて輝き、花束を抱えた青年の美しさを際立たせる。
「ええ、きっと……きっと気に入るわ。」
大粒のヘイゼルを潤ませてフレデリカが微笑んで、彼らを湖の畔へと誘う。
真っ赤に燃える夕暮れが、涼やかな湖面を染めていく。
それは、銀河のために命を燃やした彼の人の魂を、天へと見送るようにも見えた。
「ジーン、あなたに会いに来てくれたのよ。」
フレデリカに背中を押され、フェリックスが皆の中から一歩進み出る。
「……ようやくお会い出来ました。」
夕陽の色を映した白い花弁が、そっと──白亜の墓石に添えられた。
「我が儘な父ですが、どうかよろしくお願いします。」
時を重ねた墓標の隣に、今は真新しいもう一つが並んでいる。
「俺もそのうちに行くから待っていてくれよ、ロイエンタール。」
「次こそは彼女を奪ってみせるから、覚悟しておいてくれ。」
フェリックス、ユリアン、フレデリカに、シェーンコップ、ミッターマイヤー。
キャゼルヌやムライ、ベルゲングリューンの姿もあり、次々と花束やワインのボトルが二つの墓石に手向けられていく。
記念碑に関する式典を終えた後には、ハイネセンの重鎮であるエルスハイマーもここを訪れることになっていた。
宇宙歴800年、新銀河帝国黎明の冬──ジーン・ブラックウェルは戦乱の中で若い命を散らした。
彼女の人生は、どの歴史書にも、公的な文書にも記載されてはいない。
しかし、共に生きた人々の中には、彼女の想いと希望とが確かに刻まれている。
愛する人たちのために、安寧な未来を。
そう願った彼女の想いは、残された人々の心に確かに受け継がれてきた。
「あなたのお父様がイゼルローンに私たちを訪ねていらっしゃった時、こうおっしゃったの。」
多くの研究者たちが知りたいと願った歴史の真実を、今ここにいる者だけが知っている。
「“私は、妻の友人を訪ねてここに参りました。”」
こぼれ落ちた涙を拭ってフェリックスを見るフレデリカの声が、震えている。
生涯独身であったその人が「妻」と呼んだ女性、彼女がここにいる人々を結びつけた。
天上と地上とに離された彼らは、今生で結ばれることこそ叶わなかったが、それでもジーン・ブラックウェルは、ロイエンタールにとって心の伴侶であり続けた。
「あの時からずっと、私たちはお友達なのよ。帝国も同盟もイゼルローンも……どんな思想を持ち、どう生きてきたのかなんて、友情の前では些細なこと……そうでしょう。」
彼女の肩を抱いたのはユリアンで、ハンカチを差し出したのはベルゲングリューンだった。
フェリックスがフレデリカの手を取って、彼らは皆、肩を寄せ合って祈りを捧げる。
オスカー・フォン・ロイエンタールが眠るのは、彼が短い晩年を過した美しい湖の畔であり、その隣には、彼を愛し、支え続けた女性の墓標がそっと寄り添っている。
平和と安息の祈りを心に、古い友人たちは思い出話に花を咲かせ、今は共に在るであろう二人の姿を懐かしんだ。
やがて宵闇が辺りを包み、星々の影が湖面を揺らす。
遠い宙に瞬く光は、戦火に消えた英雄たちの姿──気高き魂を燃やし続けた彼らは何も語らず、けれど、地上に生きる人々の行く末を静かに照らし続ける。