民政長官室のモニターの前にエルスハイマーはいた。
駆け寄ったジーンに彼は青白い顔を向けると、絶望的となりつつある状況を告げた。
兵力再編の任に当たるベルゲングリューンとは連絡が取れず、グリルパルツァーは自身の戦艦へと既に乗艦しているらしい。
出撃の準備は整いつつあり、ロイエンタール自身も間もなく旗艦トリスタンへ向かうという。
「長官は引き続きベルゲングリューン査閲監をお探しください。私は……総督とお話ししてみます。」
誇り高き武人である彼を自分などが説得できるのかという思いはある。
それでも時間を稼ぐ必要があった。
ベルゲングリューンと連絡が取れさえすればグリルパルツァーの身柄を抑えることができるはずだし、彼がウルヴァシーで得た情報があればロイエンタールも皇帝に弁明する道を選んでくれるかもしれない。
「総督、失礼します。」
扉をあけた先に待っていた姿に、ジーンは息を飲んだ。
彼はいつもの通り華麗な軍服に身を包んでいたが、その全身を激烈ともいえる覇気が覆っている。
彼女が見てきたロイエンタールは、政治家としての彼だった。
だが、今は違う。
彼は今、圧倒的な軍人としての存在感を持ってそこに立っていた。
死地へと向かう悲壮感など微塵もない。
堂々とした佇まいは眩暈さえ感じるほど眩しく、活力に溢れていた。
剣によって道を拓き、剣によって自らを証明しようという男の姿だった。
「何か用か。」
尋ねる声さえも違って聞こえ、ジーンは思わず怯んだ。
「総督……。」
この人は軍人なのだと、強烈に示された現実に圧倒される。
しかし、
「だが、調度良い。誰かに預けようと思っていたが、手間が省けたな。」
デスクの向こうに立っていた彼がジーンに歩み寄り、一枚の紙を差し出した。
「いずれ必要になるかもしれぬ、取っておけ。」
中央で折りたたまれた一枚を両手で開いた時、ジーンの胸を激情が貫いた。
自身の反逆行為についてジーンは一切関係がないことがそこに記されており、そして──イゼルローンに使者を送った自分であるが、彼らと共謀したことはこれまで一度もないと書かれていた。
「ご存知……だったのですか。」
彼女が新領土のために働くと決めた理由、それがイゼルローンにいる仲間たちにあるということを知っていたというのか。
「さあな。」
すべてを知った上で、後のイゼルローンに害が及ぶことがないようにと彼は言うだろうか。
なぜと問いかける必要はもうなかった。
ジーンは知ったのだ。
鋼鉄の矜持と誇りの裏側にある彼の柔らかな部分、それが何なのかを──知った。
「総督、エルスハイマー長官は総督府に戻られました。私もここを離れるつもりはありません。ですから我々の忠誠に免じて、どうかお話を聞いてくださいませんか。」
彼の味方であってくれたら嬉しいと言ったベルゲングリューンのことを思い出す。
部下の忠誠心とは、ただ上司に従うことだけではないはずだ。
「総督はハイネセンにとって優れた為政者でした。きっとこれからも良き指導者となられます。総督には民衆の声を聞く耳があります、彼らを導くだけの声があり、決断する力があります。私はそのような方にこそ、ハイネセンを治めて欲しいと願っています。」
ロイエンタールの拓く未来のハイネセンを見たい、正直な思いだった。
静かに、しかし力強くジーンは彼に語りかけた。
静寂と緊張感とがその場を支配していたが、ロイエンタールからの返事はない。
しかし、彼は議論を打ち切ろうともしなかった。
「どうか我々を見捨てないでください、総督。私たちにはあなたが必要なのです。ベルゲングリューン査閲監は、あなたを比類なき勇将であるとおっしゃいました。同盟軍にいた私もそのことは存じております。そして、あなたの勇気は戦場でのみ発揮されるものではない。きっとそのはずです、違いますか。」
この問いかけは、ロイエンタールの整った眉の端を僅かに動かすことに成功した。
「対話による解決は、剣によるものと同じくらい古い方法です。」
古代ギリシアの時代より、軍人が後に優れた政治家となった例は多く存在する。
彼にもそうなって欲しいと思った。
戦禍へと逆戻りすることは、今生まれようとしているものを再び無に帰す行為だと気付いて欲しい。
そして彼女は、カードを切った。
「ウルヴァシーでの一件について、グリルパルツァー大将による情報の隠匿が確認されました。エルスハイマー長官がこのことについてベルゲングリューン査閲監に連絡を取っています。」
「!」
しかし、彼女が切ったカードは議論の流れを望まぬ方向へと変えた。
「……グリルパルツァーが、俺を欺こうとしたということか。」
低く響く声には、確かに憎悪の色が混じっている。
そして、それは憎悪だけでなく──
「オーベルシュタイン、ラング、グリルパルツァー……もうたくさんだ。」
「総督?」
ロイエンタールの瞳に燃え上がるのは、決意の色だった。
「策謀によって貶められ、策謀によって滅ぶなど、そんな愚かな死に様があってたまるものか……!」
乱世の梟雄としての性が、彼の理性と冷静さを再び上回ろうとしていた。
「ジーン・ブラックウェル。」
その視線の鋭さは、ジーンの身体をそのまま射抜くかと思うほどだった。
軍人としての苛烈な気性が憎悪さえも飲み込んで高揚感へと変わり、ロイエンタールを戦いへと追い立てる。
「おまえはこの俺に……惨めに膝を折り、卑しく許しを請うべきと言うのか。」
今まさに燃え上がろうとする炎が、彼女の願いごと焼き尽くそうと襲い掛かる。
それでも、ジーンは決して背を向けなかった。
逃げ出せないだけの理由があった。
彼を包む業火であれば、いっそ共に焼かれたい。
「そんなことは申しておりません!」
「だったらなんだと言うのだ……!」
「何度でも申し上げます!」
何度聞かれても答えよう、何を言われようと決して譲れない。
彼を行かせたくない。
「総督はお気づきのはずです、ご自身の才能に。あなただからこそ成せることがあるのです。」
「馬鹿な。」
ロイエンタールが口の端を上げ、自身さえも嘲笑するように歪んだ笑みを浮かべた。
「俺が望むのはこの宇宙の支配権だ。ヤン・ウェンリーのごとき夢想家とは違う。」
議論はどこまでも平行線で、ロイエンタールは今にもジーンを置いて宇宙へと飛び立とうとしている。
そうなれば彼はきっと、その命を瞬く星の間に散らすまで地上に戻ることはないだろう。
「本当に……?」
かつてヤン・ウェンリーとは何者かとジーンに問いかけた彼は、本当は気が付いているはずだ。
自身の才が活かされる場所が戦場だけではないことを、そして未来を拓く方法が決して武力だけではないということにも。
それでも彼が止まれないのは、高潔さと誇り高さゆえであり──そしてもう一つ、自身がこの世に生まれてきた理由を問いたいという、彼が生涯抱えてきた強い願望ゆえだった。
ジーン・ブラックウェルは、彼の誇りを曲げることはできなかった。
しかし、彼女は彼の疑問に対する答えを持っていた。
「総督……。」
今や悲しみだけを映すことになった彼女の瞳が、ロイエンタールの色の異なる両眼を見つめている。
それを告げることをジーンは愚かだと思ったし、言うべきでないと思った。
「総督、閣下……いいえ、オスカー・フォン・ロイエンタール様。」
しかし、胸を突き上げるように湧きあがるその言葉は、彼女の理性と思考とを追い越して、口唇から零れ落ちた。
「あなたを……愛しています。」
──だから、どうか行かないで。
ジーン・ブラックウェルの口唇を震わせた言葉は、彼女からいつも発せられる正しい発音の帝国公用語ではなく、彼女自身の祖国の言葉だった。
自分の発した言葉に自分で驚きながら、彼女は小さく頭を振った。
ついに言ってしまったという後悔となんと愚かなことをという惨めさで涙が溢れ、顔を伏せたジーンは、彼女が愛する高潔な男からその顔を隠した。
「ロイエンタール総督!あなたを皇帝陛下に対する反逆の罪で処断する……!」
扉を蹴破るほどの激しい音と共に飛び込んで来た影を見た瞬間、ロイエンタールは腰にあるブラスターを抜いた。
そこから先の光景は、まるでスローモーションのように彼の脳裏に記憶されることとなる。
ロイエンタールとグリルパルツァー、二人の放った光線が交錯し、一方はグリルパルツァーの胸を、そしてもう一方は──ジーンの身体を貫いた。
ロイエンタールの前に身を投げ出したジーンの身体はあっという間に鮮血に染まり、床へと崩れ落ちる。
グリルパルツァーを追って駆け込んできたベルゲングリューンの姿も、医者を呼べと叫ぶエルスハイマーの声も遠かった。
「ジーン!ジーン・ブラックウェル!ジーン……!」
ほんの僅か前、彼の名前を呼んだジーンの口唇は青ざめ、微かな息を吐きだすのみ。
閉じられた目蓋から伝う涙が彼女の命がまだそこにある証に思えて、濡れた頬に手を当てて彼女の名前を呼んだ。
「ジーン……!」
これほど激しく誰かを求めたことはなかった。
誰かを失うことが、こんなにも恐ろしいと思ったことはなかった。
そして、彼は知った。
何のために自分は生まれてきたのか、その答えを彼女こそが知っていたのだということを。