安寧な日々をと願うジーンの思いは、ついに大きく裏切られることとなった。
荒れるハイネセンにこそ皇帝の御幸をというロイエンタールの申し出に応え、新皇帝・ラインハルトはフェザーンを発った。
しかし、その行幸の途中で事件は勃発する。
経由地のウルヴァシーで、皇帝が襲撃されたのだ。
戦没者墓地の完成式で皇帝の暗殺未遂事件が起きてから、まだ一ヶ月ほどしか経っていない。
グエン・キム・ホア広場での暴動もあり、新領土の治安維持を強化している中でのことでもあった。
総督府がこれまでとは桁違いの混乱に見舞われたのは、襲撃事件がロイエンタールの叛意によって引き起こされたのではないかという報がもたらされたためである。
総督府として正式な発表は、何もない。
事実とも虚偽ともわからないままでロイエンタール叛意の情報は職員たちの口から口へと伝播していった。
不安と疑心暗鬼とが総督府を支配し、これまでとは明らかに違った雰囲気を呼び起こしている。
保身のため、辞表も書かずに総督府を抜け出した者もいる。
旧同盟領の人間からすれば、帝国人同士の争いに巻き込まれた末にいたずらな嫌疑をかけられるなど一番避けたいことだった。
帝国軍人たちでさえ顔色を青くし、事態の行く末を推察して不安を口にしている。
彼らにとって直属の上官はロイエンタールだが、それと同時に銀河帝国皇帝に忠誠を誓う国民でもある。
また、彼らのほとんどは帝国本土に家族を残してきている。
誰に従い、何をすべきかわからないという状況は兵士たちを混乱させ、総督府全体に不安な機運を生じさせていた。
ジーンたちが最初に受け取った正式な報告は、「何者かによって、ウルヴァシーで皇帝陛下が襲撃された。テロリストの正体は不明だが、新領土総督府として全力をもって皇帝陛下の安全確保と治安の回復に努める」というものだった。
ロイエンタール自身の声明として総督府全体に伝えられたそれを受け、混乱と不安に包まれながらも総督府は彼の指示に従って動き出す。
旧同盟出身の職員たちの一部が逃亡したことで人員は大幅に不足し、職場に留まったジーンの業務負荷も大いに増した。
しかし、彼女は業務だけに集中するわけにはいかなかった。
「ロイエンタールに叛意あり」という情報は、これまでも複数回に渡りフェザーンの「友人たち」からもたらされている。
新領土に赴任する以前、ロイエンタールは皇帝自身による査問を受けている。
宿将としての忠義と功績をもって一度は疑いを捨てたラインハルトだったが、二度目の嫌疑がかけられたからには叛意は今度こそ本物ではないかと噂されているらしい。
数年に渡って蓄積されてきた彼女の情報網は今や銀河帝国の中枢近くまで届いており、ひとたび問いかければ「友人たち」の囁きがあらゆる方面からの情報を運んでくれた。
そしてその殆どが、ロイエンタールの反逆は真実に近いとするものだった。
一方で、総督府に属する彼女の視界においては、ロイエンタールの真意はまったく不明のままである。
民政府に属する彼女は軍事方面については情報、人脈双方に乏しく、彼が謀反のために作戦を起こしているのか否かは判断のしようがなかった。
彼の心の内についてはもっと知りようがない。
(総督が……皇帝を裏切る……?)
ロイエンタールは、本質的に野心家である。
だからこそ今日の栄達を手にしているし、彼の人となりを知れば能力と自信に裏打ちされたそれを十分に感じることができた。
その彼がより大きな栄達を望んだとしても確かに不思議ではないように思える。
噂が一層の真実味を帯び、今この状態を生み出すに至ったのは、彼の性質による部分が大きいだろう。
しかし、「なぜ」と思考すると明確な答えは得られない。
ハイネセンは今、ロイエンタールの治世のもとで復興への道を歩み始めたばかりである。
ロイエンタールの政治手腕はジーンから見ても疑い様のない見事なもので、優れた為政者である彼がいたずらに領土を危機にさらすというのは考えづらい。
──信じたかった。
信じたいと、ジーンは思っていた。
たとえ同盟領の人間ではなくとも、優れた為政者の政治手腕はハイネセンに安定をもたらすと考えていたし、実際にロイエンタールはそれを着実に実行しつつあった。
いつしか、理想とする政治家の姿をロイエンタールに重ねるようにさえなっていた。
そのロイエンタールが、未来へと歩み始めたハイネセンを再び戦禍に引き戻すはずがないと信じたかった。
一方で、思考の奥から呼びかける声を聞いている。
(フレデリカ、ユリアン……!)
イゼルローンにいる仲間たちの姿が、目蓋の裏に甦る。
望んだ形でこそないが、今まさに時勢が大きく動こうとしている。
──今再び世が乱れれば、彼らの存在が光として浮かび上がるかもしれないと思うのだ。
ハイネセンと銀河帝国軍が対立すれば、イゼルローンの地理的な価値は著しく向上する。
専制主義下の新領土として歩み始めたハイネセンに、ともすれば共和制を取り戻すきっかけになるかもしれない。
ユリアンとフレデリカの掲げる共和制は、ジーンにとっても理想である。
もしもそれを、取り戻すことができるのだとしたら──。
揺れ動く胸の内を理性という箍で締め付けて、ジーンはフェザーンへと続くプライベートな回線を開いた。