鎮魂の催事であったはずの慰霊祭は、14時06分の投石をきっかけに血と硝煙に包まれる悪夢と化した。
5,000人近くの市民が犠牲となり、100人を超える兵士も命を落とすこととなる暴動の発生を、ジーンは民政長官室でエルスハイマーと共に聞いた。
「そ、んな……。」
飛び込むようにしてベルゲングリューン軍事査閲監が民政長官室にやってきて、エルスハイマーと共にロイエンタールの執務室に駆けていった。
慌ただしさを増す総督府で、ジーンは自身の不安が現実となりつつあることを感じていた。
旧同盟軍の兵士たちの再雇用が進んでいないことは、ここもとの会議でも何度も問題となっていた。
職業軍人であった彼らに、軍務以外の職業経験はほぼない。
ベルゲングリューンは一部の兵士を帝国軍で雇用すると言ったが、彼らの身上調査には莫大な費用と時間が必要なこともあり、思うようには進んでいなかった。
元兵士たちの不満は暴力に直結する、それは歴史の上で繰り返されてきた悲しき事実でもある。
その不安が的中してしまった。
同時に、「誰かが暴動を引き起こしたのではないか」という疑念がジーンの中で持ち上がる。
彼女の記憶に甦るのは、同盟領で起こった「救国会議」によるクーデターだ。
後に銀河帝国の謀略であると判明した事件だが、その影に巧妙に絡んでいたのがかつてのフェザーンだった。
(フェザーン……いえ、地球教……。)
フェザーンの陰には常に地球教があり、その地球教徒によってヤンの命も奪われた。
平穏を切り裂いた暴力に、時勢の陰で蠢く謀略の気配を感じずにはいられない。
不安を溢れさせる思考に落ち着けと命じて、ジーンは長い間握り締めるだけだった糸を引いた。
フェザーンへと続く情報網、ひっそりと続けていた私的な外交経路を再び活用すべき時が来たのだ。
「友人たち」の囁きを聞けば、きっと何かがわかる。
今度こそ──手遅れにならないために。
「ジーン・ブラックウェル。」
彼女をフルネームで呼ぶ人物は少ない。
「フロイライン」と帝国式に呼びかける者もいたが、彼女を尊重し「ミス・ブラックウェル」と同盟式で呼ぶ者のほうが多かった。
「何か御用でしょうか。」
振り返ると、予想通りの人物がそこに立っていた。
銀河帝国元帥の壮麗な軍服に身を包んだ彼は、いつも通りの威厳を有してまっすぐに立っていたが、色の異なる左右の瞳が平素とは違う光を帯びている。
そもそもこの総督府の主たる彼が、わざわざ部下を廊下で呼び止めること自体が通常なら有り得ない。
慎重さを崩さずに、しかし彼を真摯に見返してジーンは答えた。
「少し、聞きたいことがある。」
グエン・キム・ホア広場での暴動以降、ジーンたち職員も過密な勤務状況が続いていた。
上司であるエルスハイマーやベルゲングリューンは部下たち以上に多忙を極めている。
当然ロイエンタール自身はそれ以上の職務に忙殺されているはずだが、それを押してジーンを訪ねるとは余程のことだと推察された。
グエン・キム・ホア広場の一件については旧同盟軍の関与が疑われており、実際にシトレ元元帥が拘禁されている。
自分の経歴を考えれば、査閲を受けても仕方のないことかもしれないとジーンは考えた。
しかし、ロイエンタールの問いかけは違った。
「ヤン・ウェンリーとはどんな男だったか。」
彼の執務室に入ると、ロイエンタールはワイングラスを差し出して言った。
食事はおろか、彼とお茶の一杯さえ飲んだことがないジーンとしては面食らったが、常ならざる彼の様子に黙ってグラスを受け取った。
淡い黄金色をした液体が、静かに注がれる。
「一人の死者が、数億の生きた人間を動かすことがあると思うか。」
言葉を探すジーンに、ロイエンタールが重ねて聞いた。
グエン・キム・ホア広場での出来事について尋ねているのだということは、すぐにわかった。
慰霊祭の最中に起こった暴動では、多くの人々が「ヤン・ウェンリー万歳」と叫んだと聞かされている。
「ヤン提督は、」
言いかけてからジーンははっとなり、しかし、「今はヤン提督と呼ぶことをお許しください」と告げて続けた。
「ヤン提督は、どこか掴み所のない方でした。確かに軍師としての力量は一流でしたが、一方でどこか頼りなく……それを支えたいと思って人が集まるようなところがあったと思います。」
ロイエンタールの意図を測れないままで、それでもジーンが正直な意見を述べたのは、上司としての彼を信頼していたからだ。
専制国家の軍人である彼と民政政治こそ正道と考えるジーンとでは、互いの主義には大きな隔たりがある。
しかし、短い時間とはいえ彼に尽くしてきたという自負があり、彼からの信頼も感じているつもりだった。
「俺は幾度も奴と戦火を交えてきたが、結局対面するには至らなかった。我こそがその首をと欲したこともあったが、ついには卑怯者の手でこの世から去ってしまった。」
ロイエンタールはなぜ、今、ヤンについて知りたがっているのだろう。
彼の真意を知りたいと瞳の奥を覗きこむが、左右どちらの瞳も薄暗い光を湛えるだけ。
「ヤン提督がどのような未来を標榜していたのか、今となっては尋ねることは叶いませんが……少なくとも暴力によって拓かれる未来は望んではいないと思います。」
「だが、奴は軍人だ。」
それこそがヤン・ウェンリー最大の矛盾なのだとジーンは思う。
軍人として誰よりも多くの功績を残しながら、私人としては自身の軍事行動にさえ否定的だった。
「望んで軍務に就かれたのではないと聞いたことがあります。けれど、あの方は……。」
その先の言葉は、言うべきかどうか迷うものだった。
グラスに注がれた白ワインを口に含み、逡巡する。
しかし、結局ジーンは続けた。
「国家のためではなく、自らの栄達のためでもなく、自由のために戦っていたのだと思います。」
「自由?」
専制主義とは縁遠いであろう言葉を告げながら、ジーンはロイエンタールの両眼を静かに見つめた。
「誰しもが自分自身のために考え、自分のために職業を選び、自分らしく生きる……それから、遠慮なくお酒を飲んで語らったり。」
最後の一つはジーンの冗談であったが、彼女の微笑みにロイエンタールは応えなかった。
彼は考え込むように顎先に指で触れ、「自由」と、不慣れであろう言葉を口の中で繰り返した。
「それが常に正解でないことはわかっています。腐敗した民主政治がいかに危険で愚かなものかは総督もご存じの通りです。」
あの日──ハイネセンが講和を受け入れずに戦い続け、ローエングラム公を討ち果たしていたとして、そこにどんな未来が待っていただろう。
トリューニヒトらによる悪政が続き、主権こそ保たれたものの、結局は銀河帝国との抗争の歴史を長引かせていただけではなかっただろうか。
専制主義への肯定に一歩を譲って、ジーンはもう一度ロイエンタールに向き直る。
「けれど、考え続けなければ。誰かに任せるのではなく、考え続けなければ。未来のために自分が何をできるのか、それが今を生きる者の責任であると私は考えています。」
自由には責任が伴い、責任とは考えることなのだとジーンは思う。
専制主義であろうと、民主主義であろうと、人々が考えることをやめてしまえば、国家は腐敗する。
だからこそ、人々を正しく、導く優れた為政者が必要なのだと。
ヤンについて尋ねられたはずが、いつの間にか政治論を披露してしまったことをジーンは恥じて、「申し訳ありません」と瞳を伏せた。
不思議な感覚だった。
目の前にいる男は、かつて自分の命を脅かした敵将であり、専制主義の旗を掲げてやってきた征服者だ。
遠い異国に在った二人がこうして向き合い、グラスを傾けている。
そして、その間にあるのは──今は敵意ではない。
鈍く光を揺蕩わせていたロイエンタールの瞳が、怜悧な思考を取り戻す様子を感じていた。
彼と出会わなければ、ジーンが専制主義の優位性を認めることはなかっただろう。
あるいは、彼も同じではないか──それは希望や願望という種類に近いものだったが、きっと通じて欲しいと彼女は願った。
ロイエンタールの見せる治政に希望を見たし、帝国から来た同僚たちが自分に示してくれた誠意を知っている。
だから、彼らのつくる総督府がハイネセンに美しい未来を見せてくれると信じたかった。
時勢はまた、いつか見た暗雲に覆われようとしている。
けれど、いや、だからこそ力を尽くさなければいけない。
国家や信条、題目のために、誰かが死ななければならない時代は、一刻も早く終わるべきだ。
「総督。」
グラスを見つめる彼に、ジーンはもう一度微笑んだ。
「ヤン・ウェンリー万歳なんて、本人が聞いたらきっとお困りになるに違いありません。彼は英雄になることを望まないし、人々が望んでいるのもきっと……本当は英雄なんかじゃない。」
「では、なんだというのだ。」
冴えた光を取り戻した彼の瞳には、議論ならば受けて立つという表情が浮かんでいた。
けれど、ジーンはただ笑った。
「明日の朝食をゆっくり食べられますように。」
皮肉屋の笑みを取り戻した彼を見つめて、ジーンは願っていた。
どうか安寧な日々を、この国に。
そして、どうかこの人にも──安らかなる日常がもたらされますように。