星々の名をたずね   作:さんかく日記

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【19】二つの王国

「ミス・ブラックウェル。」

「ロイエンタール総督閣下がお呼びです」と、噂の人物の名前が告げられたのは、エルスハイマーとジーンがカップを空にして立ち上がろうとした時のことだった。

 

「ロイエンタール総督だけは止めておけ」とエルスハイマーは言った。

その上司のデスクを斜めに見る位置に、ジーンの席が置かれている。

事務仕事の補助要員としてしばらくの間彼女を借りたいとロイエンタールが求めたため、エルスハイマーの元を一時的に離れることになったのだ。

「女性だから仕事を手伝ってもらえたのだろう」と嫌味を言っていた上司が正当に実務能力を評価してくれたことは嬉しくもあったし、かつてほどの気詰まりはもう感じていない。

 

一方で、彼と働くようになってまだ僅かだが、「涙を流した女性で一個隊が組める」と言ったエルスハイマーの言葉もまんざら嘘ではなさそうだと思っている。

貴公子然とした容貌はいかにも帝国貴族らしく華やかであるし、所作から視線運びに至るまでの一つ一つが洗練されている。

ジーンにとってのロイエンタールは、長く「敵軍の恐ろしい司令官」という位置づけだったし、ここ暫くの彼は「有能だが気詰まりな上司」だった。

しかし、間近で彼を見ることが増えるほどに、いつかの無防備な姿が却って思い出される。

彼が有能であればあるほど、隙の無い優雅さで振る舞うほどに、そのコントラストは鮮明になる。

相変わらず舌鋒鋭い上司ではあるが、いつかの夜を思い出すとそれほど身構えるようなこともないような気がしてくる。

むしろ──怜悧な皮肉屋の仮面の下を覗き見たくて、女性たちが胸を焦がしたとしても仕方がないことのように思えていた。

 

「俺の顔に何かついているか。」

そんなことを考えていたせいか、彼の顔を凝視していたらしい。

不快というよりは好奇の視線で、ロイエンタールがジーンに尋ねる。

 

「……隈が。」

女殺しと名高い上司の考察を巡らせていたとは言えるはずもなく、代わりに見たままを答えた。

青と黒の異なる両眼の下、左右に共通しているのが日に日に濃くなる寝不足の証だ。

 

「隈?」

 

「ええ。」

ここ数日気になってはいたものの指摘せずにいたそれを告げると、それが意外だったのか「ほう」と小さく言って、ロイエンタールが目の下をなぞる仕草を見せた。

エルスハイマーも熱心な上司であるが、噂に聞くロイエンタールの仕事ぶりは彼以上のものらしい。

新天地を任された重責を負っているとはいえ、並の人間には到底続くはずもない長い時間を執務に当てていると聞いている。

 

「鏡をお貸ししましょうか。」

整った容姿には些か不釣り合いな影だったが、生憎と健康管理はジーンの専門外だ。

とはいえ自覚くらいはしても良いだろうと尋ねたジーンに返ってきたのは、予想外のものだった。

 

「ッはは……!」

この人も笑うのかと呆気に取られるジーンに、彼は声を抑えながらもまだ肩を揺らして、

 

「まったく同盟の女はわからぬ。」

そう言って、さも可笑しいというようにまた笑った。

皮肉めいた冷笑こそ見たことがあったものの、声を立てて笑う彼など見たことがない。

今何を言われても驚きしか返しそうにないなと思いながらただ視線を返すジーンに、ロイエンタールは今度こそ見慣れた皮肉な笑みを向けた。

 

「ひとり寝ばかりでは寝不足も仕方あるまい、この星は食事以外も実に味気なくて困る。」

同盟女性は色気がないとでも言いたげな台詞に閉口したが、気詰まりと思っていた上司の軽口は意外でもあった。

 

「女性に関する議論は良い帰結が見えないので差し控えますが、食事に関しては胸を張ってご紹介できる店がありますよ。」

ロイエンタールという人物の複雑さが、少しずつ輪郭を形作っていく様子をジーンは感じていた。

高い矜持を持ち、それが肯定されるだけの能力が彼にはある。

だからこそ簡単に他人に気を許すことをしない性格だが、決してそれだけではない。

厳しさの下にある「何か」が、彼を形づくる重要な一部となっている気がする。

 

それが何なのかはわからない。

わからないけれど──誰かにそれを知っていて欲しいと思った。

なぜそんな風に思ったのか自分でも不思議だとジーンは思うけれど、それは確かに彼女の中にある感情だった。

親友でもいい、家族でも恋人でもいい、誰か──傍にいる誰かに彼の柔らかな部分を支えてあげて欲しいと思った。

 

彼女は忘れていた。

かつて同じ思いを、ある人物に対して抱いたことを。

ヤン・ウェンリー──誰よりも尊敬し、憧れたその人と同じだけの心の面積を今やロイエンタールの存在が占めつつあることに、ジーンはまだ気付いていなかった。

 

「ほう、言うようになったな。」

口の端を曲げた上司の皮肉を受け流して、ジーンが微笑んだ。

 

「本当の私はすごく毒舌なんです。総督のご機嫌を損ねないために、これでも必死に猫をかぶってるんですから。」

 

彼の顔にある隈は相変わらずだったが、その日から執務室の空気は少しずつ変化していった。

互いの能力に対する評価で結びついていた関係は、確かな信頼感へと変わりつつある。

遠慮のない物言いをするジーンに、ロイエンタールが皮肉で返すことも増えた。

やがて民政府に帰任したジーンだったが、上司との調整役を易々とこなす彼女にエルスハイマーは驚き、同僚たちは救世主とはやし立てた。

 

しかし、彼らに許された平穏は決して長いものとはならなかった。

秋の始まりを告げる9月初日、グエン・キム・ホア広場で暴動が発生したのである。


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