お互いの間には気まずさしかないというのがジーンの見解だった。
彼は帝国人であり、軍人。
言うまでもなく男性、貴族、そしてどうやら女性蔑視のきらいがあるらしい。
そして、ジーンはまず女性である。
同盟人であり、一時は軍部に所属していたとはいえ彼女の人生の大半は軍とは遠いところにあった。
業務上の上司と部下とはいえ、直接のやり取りは最低限に留めるべき間柄だとジーンは思っている。
その二人が、夜の執務室で顔を合わせている。
「……エルスハイマーは不在か。」
とりあえずの口火を切ったのは、上司であるロイエンタールのほうだった。
「長官はお帰りになりました。奥様のお誕生日ということでしたので、今日は私が業務を代わらせていただいた次第です。」
エルスハイマーは仕事熱心な上司で、部下たちの業務の確認のためにいつも最後まで一人残って仕事をしている。
その業務量がかなりのものであったことをジーンは今まさに実感しているところだったが、そんな折りの訪問者である。
会話を楽しめる相手とも思えなかったが、相手もそれを求めてはいないだろう。
「何か御用がございましたか。」
儀礼的な態度で尋ねると、彼もまた上司の姿勢を崩さずに答えた。
「一つ頼もうと思っていたが、奥方の誕生日ならば仕方あるまい。明朝俺の執務室に来るように伝えてくれ。」
「はい」と答えればそれで終わった会話を引き延ばしてしまったのは、妻のために早々に帰宅した上司について、彼が「仕方ない」と言ったことを嬉しく感じたからだ。
冷たい男という印象だった彼の意外な人間味が、ジーンの返答を変えた。
「私で承れることであれば、お伺いいたしますが。」
JaかNeinかの選択権は上司である彼にあるので、あくまで儀礼の範囲で発した一言だったが、
「……では、頼もう。」
少しの沈黙の後で彼が下した判断が、居心地の悪さを悪化させることになった。
ロイエンタールが指示したのは、ここ最近に起きた反政府行動の人数と場所のデータ解析というややデリケートな内容ではあったが、だからといって彼に監視されながら作業しなければいけない程のものではないとジーンは思う。
しかし、ロイエンタールはエルスハイマーが使っている椅子に腰掛けると腕を組んでそのまま沈黙してしまった。
出て行ってくれとは言えるはずもなく、ジーンのほうも無言で作業を続ける。
キーボードを叩く音だけが響き、その場を支配しているのは気まずい静寂という状況だった。
部屋にいるのがエルスハイマーであれば彼の家族についてやハイネセンの娯楽について気軽に言葉を交わして多少砕けた空気になるのだが、ロイエンタールが相手ではそうはいかない。
少しの気安さでもあれば彼の女性遍歴をからかってみたりしたいものだとも思うのだが、続く静寂を鑑みるとあまりに無理がある。
同僚たちの話では、彼は銀河帝国軍きっての漁色家と呼ばれているらしく、軽口に聞く噂話にはとにかく女性の話が多い。
ハイネセンでの厳格な態度の彼しか知らないジーンにとってはなんとなく違和感のある噂話だったが、女性が騒いで当然の外見であることは認めざるを得ない。
均整のとれたしなやかな体躯と優雅な身のこなし、神経質そうに見えるが整った容貌は彼の怜悧さを際立たせている。
加えて有能な軍人であることを考慮すると多少の愛想のなさは許容されるのかもしれない。
あるいは女性の前では柔らかな態度に変わったりするのだろうかと想像してから、自身に対する頑なな様子を思い出して肩をすくめた。
居心地の悪さを空想でやり過ごしつつ作業を進め、彼の求めていた資料がようやく完成しようかという時だった。
データを地図に落とし込めばわかりやすいのではとふと思ったジーンは、発案の可否を尋ねるために隣のデスクに座る上司へ顔を向けた。
「総督」と呼びかけようとした声を飲み込んだのは、腕を組んだままの彼の目蓋がまるで動く気配がなかったからだ。
意外な無防備さに驚くけれど、考えてみれば多忙の身である。
自分に厳しい人だという評判はジーンも聞き及ぶところであったし、決して付き合いやすい上司ではない彼を部下たちが非難しないのは、ロイエンタール自身が部下たち以上に勤勉であるからだということも知っていた。
長い睫毛が影を落とす秀麗な顔を観察するのは僅かにとどめ、ジーンは再び作業に戻る。
しかし、彼女が地図データを添付した資料を完成させ、肩代わりしたエルスハイマーの業務を終えてもロイエンタールが目覚める気配はない。
後は帰宅するばかりとなり、お気に入りのホットレモネードに蜂蜜を垂らしながら「飲み終わっても起きなかったらさすがに声をかけよう」と思った時、ようやく彼の目蓋が持ち上がった。
あっという間に気まずい空気が戻ってくるが、とはいえ今この瞬間は自分に分があるとジーンは思う。
部下が作業する横で居眠りとは、十全十美の総督閣下とはいえ居丈高ではいられないだろう。
「データは総督の端末にお送りしましたが、こちらでご確認なさいますか。」
「……戻って確認させてもらう。」
彼が上司らしい態度を崩すことは勿論なかったが、僅かに逸らされた視線はジーンを満足させるには十分なものだった。
完璧を絵に描いたような上司の意外な一面に秘かな優越感を感じつつ、カップに揺れる蜂蜜色を啜る。
ホットレモネードの入った二つ目のカップを無視して彼は出ていってしまったが、次に会う時には少しは身構えずに済むかもしれない。
いずれ来るであろうその日をどこか楽しみに感じながらジーンは頬を綻ばせた。