「なるほど、エルスハイマーも紳士なことだな。」
目的としていた予算の許諾を貰い、ほっと胸を撫でおろしたジーンだったが、上司から放たれた言葉に再び身を堅くする。
徹夜で仕上げた書類を別段の指摘もなしに認可してくれた上司だったが、どうやら何事もなく済まされるというほど甘くはなかったようだ。
女性が働くことを快く思わない者もいるとエルスハイマーが言っていたが、「なるほど、この人のことだったのか」と今更のように納得する。
ジーンが女だから皆が手伝ってくれたのだろうと揶揄しているのは明らかで、これに対しては彼女のほうも反論がある。
同僚たちは確かに皆紳士的だが、それは決して悪い意味ではない。
同じ職場で働くものとして純粋に信頼を預け合っていると思えたし、そこに性差があるとは感じていない。
しかし、ジーンは無言を返事とすることを選択した。
帝国本土では知的労働に従事する女性は少ないと聞くし、特に貴族女性にとってはそれが当然のことらしい。
総督府のトップに鎮座する彼の心の内は知れないが、富裕な貴族の出身であることを鑑みれば女性蔑視とも取れるこの態度は想定の範囲だろう。
いたずらな反発が有益な状況を生むとも思えないので沈黙を選んだだけのことだったが、目の前の彼はぴくりと眉を動かして不快の意を示した。
「……ご認可いただきありがとうございました。他に御用がないようでしたら、失礼させていただきます。」
どうにも気が合わないらしい。
秀麗な容貌を唱われる上司に対するジーンの率直な感想である。
だからといってまさか上司と言い争う気にもなれないジーンは、気まずい沈黙を儀礼的な一言で終結させて部屋を出た。
民政長官室へと戻りながら、先刻まで相対していた上司の輪郭をぼんやりと辿る。
優雅さと怜悧さを兼ね備えた美しい顔立ち、貴族然とした振る舞い。
けれど、それは単なる見かけ倒しではなく、執政官としてのロイエンタールは驚くほど有能だ。
合理的であり、理性的、それに俊敏さと決断力を併せ持っている。
銀河皇帝から第一の信任を受けて新領土総督を任されたというのが納得できる人物で、その仕事ぶりには尊敬を抱かずにいられない。
けれど、先ほどの態度は「先見の明がある」とエルスハイマーが評した皇帝の臣下としては、些か後進的ではないかと思ってしまう。
確かに貴族社会では女性が労働に従事するというのは珍しいことなのかもしれないが、執政官としての彼の有能さとはどうにも噛み合わない気がするのだ。
アンバランスな輪郭を描くその人の印象を上手く処理できずに首を傾げるが、結局は諦めた。
(単に遊び人だからってことなのかな……。)
宮中の花を手折っては捨てて帝国の男たちの反感を大いに買ったらしいという同僚の軽口を思い出して、ジーンが思考を完結させようとした時だった。
「お手柄だったようですね、ミス・ブラックウェル。」
微笑みを称えた男に行く手を遮られ、足を止めた。
この男の存在には、冷静を旨とするジーンも不快感を禁じ得ない。
「私もお力添えをと思ったんですがね。」
「高等参事官」の役職を持つ男は、エルスハイマーを補佐する役割を与えられた民政部門におけるナンバーツーだ。
しかし、同じ民政府に属し、また同じ同盟人であるジーンにとってさえ、最も信用のならない相手と言える。
整った容姿と爽やかな弁舌はいかにも政治家向きであり、実際にヨブ・トリューニヒトはその才能を存分に発揮して旧自由惑星同盟における権力のトップに上り詰めた人物である。
しかし、ジーンのかつての上司は、彼を民主主義に巣くう怪物だと考えていた。
ジーン自身もまったく同じ考えを持っている。
あの日、この男が己の身可愛さに講和を受け入れなければ──ハイネセンが占領されることも、ヤンを失うこともなかったかもしれない。
民衆を扇動し、利用し、時に裏切り、時勢を揺蕩いながら変質していく化け物、それがトリューニヒトであり、この男こそが民主主義を衆愚政治へと貶め、ハイネセンを専制君主に売り渡したのだ。
民政長官の補佐官となったからには、新しい道を歩き始めたハイネセンを彼から守らなければという意思をジーンは強くしている。
「……生憎ですが、参事官のお手を煩わせるような内容ではございませんので。」
敵意を消すことが精一杯で、無表情のままジーンはそう告げた。
しかし、トリューニヒトは意に返す様子もなく、笑みを浮かべたままで言った。
「そうですか。必要な時はいつでも声をかけてください。人民のためとあらば、私は努力を惜しむつもりはありませんからね。」
悪意など微塵も感じさせない表情こそが、この男の恐ろしさだとジーンは思う。
男の持つ不気味さに感じた不安と怒りとをなんとか堪え、ジーンはその場を辞した。
エルスハイマーの待つ部屋に帰り着くと、どこかほっとした気持ちになる。
ここで働き始めてからまだ僅かだが、想像していたよりもずっと──帝国人と同盟人の垣根は低いように感じている。
就業を決めた時には、征服者である彼らがどう振る舞うのか不安に感じていたジーンだったが、今は違う。
思想という点において高い隔たりのある彼らとジーンだが、「良い治政を」という気持ちは互いに共通している。
専制主義は、ジーンにとって受け入れ難いものではある。
しかし、時代は確実に「前へ」と動き始めている。
復興の道を歩き始めたハイネセンには活気が戻りつつあり、人々は征服者たちと距離を置きながらも新しい生活に馴染もうと努力している。
この先の未来には、もしかしたら──銀河帝国と旧自由惑星同盟、そしてイゼルローンに居るかつての仲間たちが共に在る世界が待っているのではないか。
夜明けと呼ぶには不安の多い時勢ではある。
それでも──希望の灯は確かにともりつつあった。