ロイエンタール新領土総督の政治手腕は、誰も否定しようのないほど見事なものと言えた。
着任早々に長く放置されていた政治腐敗や経済界との不法な結びつきを是正した彼は、それと同時に治安の安定化と荒廃したインフラの再構築に乗り出した。
武力をもって行われる捜査の強引さは反政府勢力やジャーナリズムの反感を買いはしたが、結果として、民衆の心は平和と安定をもたらす新政府への信任に傾きつつある。
物価が安定し、街にかつての賑わいが戻るまでに要した時間は振り返ればごく僅かで、目まぐるしい変化の中で民政長官の補佐官として執務に当たるジーンも感心せざるを得なかった。
そうして行政をコントロールしながら、彼は言論統制や反政府運動の取り締まりを一切行わなかった。
500万を超える「新領土軍」の指揮権を持っていながらだ。
デモや集会が起これば警備のために兵士を送りはするが、彼の軍隊は統率が取れ、それでいて決して民衆に対して威圧的でなかった。
これだけの施政を短期間にこなす人物とは一体どんな人なのだろうと、単純に思う。
武官なのだから心身は壮健なのだろうがそれにしても殆ど休みなしに思えるし、滞りなく行政府を動かし領土の管理体制を確かなものにしていく彼の頭脳にはどれほどの容量があるのだろうかと不思議に思わずにいられない。
勿論、彼の外見であれば知っている。
直接会ったことこそないものの執政の長であるその人の姿は、頻繁にメディアを通して見かけているからだ。
彼の外見を表すならば、一言で言うと「貴族的」だ。
大層な美男子ではあるが、その印象は軍人や政治家のそれとはやや異なる。
優雅さの中に犀利さを感じるその人の瞳は左右の色がそれぞれ異なっており、そのことがまた彼の印象をどこか現実感のないものにしていた。
白皙の美貌を持つ若い皇帝同様、ロイエンタールに対してもジーンはどこか実在の人物でないように感じていて、「これが帝国貴族ということなのか」と自分を納得させてはいるもののどうにも自分の上司であるという実感が沸かずにいた。
その上司とついに対面を果たすことになったのは、ジーンが上奏したスポーツに関する助成金の案をロイエンタールが却下したことが原因だった。
「私が交渉します!」と予算案を握りしめるジーンをエルスハイマーは引き留めたが、結局の彼女の雄弁に押される形で許可した。
「先日提出したスポーツ振興に関する助成金の件ですが。」
挨拶もそこそこに総督のデスクの前に進み出たジーンは、用意してきた資料を目の前の人物に差し出した。
「その件なら既に却下したはずだが。」
デスクから視線を上げることさえせずにロイエンタールは答え、ジーンがデスクに置いた資料を一瞥もせずに捨てようとした。
「待ってください!スポーツは教育や社会秩序のための重要な要素です!」
人類におけるスポーツの歴史に触れ、現在のハイネセンで行われている競技について体系付けて記した渾身の資料である。
「現在のハイネセンは娯楽の供給が不足しています。このような状況が不穏を煽ることにも繋がると思いますが、総督はどうお考えですか。」
早口に告げたジーンに、ロイエンタールが執務の手を止める。
効果ありと判断して先を続けようとした時、彼の手が再び動き出す。
「では、公園整備の予算を削れ。その範囲でなら許可する。」
「ちょっと待ってください!あの予算だって苦労して捻出して……!」
「戦後処理も不十分な今、そのような余裕はない。」
一度も視線を上げずに答える男にジーンはフラストレーションを募らせたが、だからといって簡単に議論を放棄するわけにはいかない。
「予算を理由に市民感情を蔑ろにして良いとは思えません。つきましては、予算の洗い直しを行いたいと思いますが、許可いただけますでしょうか。」
彼と、目が合った。
貴族然とした秀麗な容貌に光る眼差し、鋭い視線に射抜かれてジーンは思わずたじろいだ。
「……明日の朝までであれば待とう。以上だ、下がれ。」
寄越された答えの無謀さに言い返したい気持ちがこみ上げるが、それを口にできないだけの迫力がロイエンタールにはあった。
「承知いたしました。」
部屋を辞した後で、大きく息を吐く。
それは緊張から解放された安堵のため息であったが、すぐに与えられた課題の難易度に対する憤りに変わった。
一晩ですべての予算を再試算するなど、到底不可能なことだ。
しかも、自分一人で。
ロイエンタールの迫力に気圧される形で承知してしまったが、明らかに無謀だ。
しかし、ジーンが「出来ませんでした」という安易な答えを持参した時、彼がどのような反応を示すかは、悪い方向に対する無限の可能性を持っていた。
まずはまとめて削れそうな分野に目星がつけられないものかと業務手順について思案しながら、ジーンは民政長官室のドアをくぐる。
「申し訳ありません、長官。」
至らなさを詫びたジーンだったが、それに対するエルスハイマーの反応は意外なものだった。
「それで、何をすれば認めると?」
「え?」
この二カ月を彼女の上司として過ごした上官は、苦笑をもってジーンに応え、
「即却下とは言われなかったのだろう、だとすれば勝機はある。」
そう言いながら、彼女の手にしたレポートを受け取った。
「この資料を見れば君の意見が正しいことは十分理解できる。だったら、やってみよう。」
まさか上司の協力が得られると思っていなかったジーンは驚きと感謝とで言葉を失い、代わりにエルスハイマーが部下を集めて指示を出した。
「まずは予算の洗い直しだ。生活インフラと軍事費は除こう、それ以外で削れそうなところを探してくれ。配分はすぐに各自の端末に送る。」
作業は夜を徹して行われたが、帰りたいと言い出す者は一人もいなかった。
彼らの忍耐強さを軍人らしいとジーンは受け取ったが、エルスハイマー曰くそれだけではないらしい。
「君の仕事ぶりを見ていれば、不要な業務でないことはすぐにわかる。我々は帝国本土の人間だが、何よりもまずこの新領土の執政を皇帝陛下から預かる身。領土の安定のために手を抜くことはできないだろう。」
自身の働きが認められたこと以上に、彼らにもハイネセンの安寧を願う思いがあることに喜びを感じる。
たとえ「皇帝陛下の御為」であっても、彼らの故郷から遠いこの土地を思ってくれることが嬉しかった。
専制政治と民主政治を隔てる壁は高い。
それらが交わる可能性は極めて低く、その対立は、有史以来ほとんどの場合で武力を持って解決されてきた。
けれどもしかしたら──いつかこの新領土で新しい政治を実現することが出来るかもしれない。
胸に灯った希望の光に、ジーンは笑みを深める。
「帝国の方は、スポーツはされないのですか。」
「娯楽というより自身の鍛錬の場という認識だな。士官学校では乗馬や剣術、それに体術も習得するが、それらは誰かに披露するためのものではない。」
夜のとばりが降りた総督府の一室で、エルスハイマーとジーンたちは数字と格闘し続けた。
「そう、ロイエンタール総督といえばいずれの分野においても名人として知られている。剣技にブラスターと一日に三度決闘を申し込まれて、三人を病院送りにしたという話は有名だが……。」
私的な決闘の武勇伝という同盟人のジーンにすれば些か古めかしいタイプの噂話だが、取り澄ました様子の上司の顔を想像すると苦笑せずにいられない。
「決闘って……女性関係ですか。」
エルスハイマーとジーンのやり取りに周囲も笑って、休むことなく作業を続ける彼らの間をどこか温かな空気が満たしていく。
こんな感覚は久しぶりだと、ジーンは思った。
戦場にあっても笑い合えた仲間たちの姿が脳裏を掠め、いつかすべての人を友だと呼べる日が来ることを願わずにいられない。
どうか戦火のない日々を、心穏やかに暮らせる日常を──祈る心を宥めるように、ハイネセンの宵闇が総督府を静かに包み込んでいた。