1月、フェザーン陥落と帝国軍の同盟領侵攻の報を受けた駐留艦隊は、ヤン提督の「箱船作戦」によりイゼルローンを脱出した。
難攻不落を誇る要塞を放棄するという大胆な作戦は、帝国軍がこれを追撃しなかったことも功奏し、辛くも成功した。
キャゼルヌの指示に従って脱出に同行したジーンは、初めて艦隊の構成員として戦艦に乗船した。
辛くもイゼルローンを脱出したものの、ヤンたちの予想通りであれば帝国軍はフェザーンから同盟領に向けて進撃しているはずだ。
有史以前最大の危機を迎えつつある祖国を思うと、焦る気持ちが押し寄せてくる。
ジーン自身長く軍と関わりのない暮らしをしており、戦闘行為とはずっと無縁だった。
危険に晒されるであろう民間人のことを考えると、明るい気持ちでは決していられない。
「おまえさんの心配はわかるが、今はこっちに集中してくれ。」
「キャゼルヌ少将!申し訳ありません……。」
慌てて詫びるジーンに、キャゼルヌも眉を下げる。
「いや、こちらこそすまない。君は元々軍人じゃあないんだ、ナーバスになるなっていう方が無理だな。もし辛いなら少し休んでもらっても……。」
言いかけたキャゼルヌに首を振る。
「いいえ、キャゼルヌ少将。お気遣いだけで十分です。確かにこの状況は私にとって予想外のものですが……早く戦争を終わらせるため自分の仕事をする、今はそう考えることにします。」
昨年のロイエンタール艦隊の襲撃以後、ジーンにとっては特に想定外のことが続いている。
軍人になることさえ想像していなかったが、まして軍事行動の真っ只中に放り込まれることになるとは、自分の人生にとってあまりにも想定外の状況と言える。
当然のように恐怖はあったし、憤り、悲しみもした。
しかし、そればかりではいけないとも思うようになった。
何のために戦うのかと、戦場に問いかけた疑問を自分自身に向けている。
ヤン提督の艦隊における自分とは何のためにあるのか、何のために任務を果たそうとするのか。
崇高な目的を掲げるだけの強さは、今はない。
心は疲弊し、少し気を抜けば死の恐怖に飲み込まれそうになる。
それでも、与えられた任務を果たしたい。
そう願うのは、民主主義のためでも、自由のためでもなく、今ここにある仲間の安息のため。
共にある仲間たちのためになら、いくらでも戦うことができるとジーンは思った。
「早く戦争を終わらせて……そうしたら、みんなでゆっくりと朝食でも取りましょう。」
かつての自分とは違う強さが芽生えつつあることを、自分自身で感じていた。
「はあ、なるほどね。なんだかおまえさんまでヤンみたいになってきたな。」
あえて気軽なセリフを選んだジーンにキャゼルヌが苦笑する。
「いいじゃあないですか。小官もその朝食を楽しみにしていますよ。」
二つのコーヒーカップを手にしたシェーンコップが事務室に顔を出したのは、その時だった。
「また剛胆なヤツが来たな。」
カップの一つをジーンのデスクに置いて、もう一方に悠然と口をつけた彼に、「俺の分はないのかよ」とキャゼルヌが毒づいて、それから三人で笑った。
久しぶりに頬の筋肉が緩んだ、そんな気分になる一瞬だった。
「だが、少し残念な知らせですよ。ランテマリオ星域で、同盟軍の本隊が帝国軍とぶつかったようです。」
「!」
開戦の知らせをコーヒー一杯と共に告げて寄越して、シェーンコップは口唇の端を曲げた。
「当方の旗艦3万に対して、あちらさんは11万。この艦隊も救援に向かって舵を切ったところです。」
シェーンコップの報告に、キャゼルヌが顔色を暗くした。
「なに、数的な不利はアムリッツァで敗退してからわかっていたことです。それを踏まえた上で情勢を覆す方法なら、我らの提督閣下はとっくにお考えですよ。」
こういう時のシェーンコップの態度は、いかにも歴戦の猛者といった様子だ。
あえて気楽さを作って告げるシェーンコップの物言いは不安の淵へ転がり落ちそうになるジーンを何度となく救ってきた。
彼だって、決して事態を楽観視しているわけではないとわかっている。
それでも、難局の到来さえ朗らかに告げるシェーンコップの言い方はジーンにとって心強いものだった。
「先陣はミッターマイヤー提督のようです。」
「……そうか。」
ウォルフガング・ミッターマイヤーは、フェザーンを制圧した帝国軍の提督の名前だ。
ヤンの予想通り銀河帝国軍はフェザーンを軍事力で制圧し、その上で回廊を通過して同盟領へと進軍してきている。
これに対処するため同盟軍も当然に艦隊を派遣しているが、圧倒的な数的不利が兵士たちの過酷な未来を予見していた。
恐れていた危機が、すぐそこまで迫っている。
少しばかり声のトーンを落として交わされるキャゼルヌとシェーンコップの会話をジーンは黙って聞いていた。
「そうなるといよいよ惜しくなりますがね。」
「言っても仕方のないことさ。まあ……帝国軍の双璧の一方を落とせていればそりゃあ良かったには違いないが、簡単に落ちてくれないからこそ双璧なんぞと呼ばれているんだろうからな。」
イゼルローンの攻防戦の中でロイエンタールの旗艦を急撃したシェーンコップは、帝国軍の提督その人と直接一戦を交え、あと一歩というところまでその刃を肉薄させたらしい。
「艦隊の司令官にあれだけの技量を披露されると、白兵戦のプロとしては苦々しくありますが……まあ、好敵手と言わざるを得ないでしょう。」
シェーンコップの口ぶりから察するに、ロイエンタール提督は艦隊戦だけでなく陸戦における実力も相当なものらしい。
それほどに帝国軍の人材は厚いのかと思うと、改めてアムリッツァの悲劇が悔やまれる。
あの時、中央議会が政治判断を誤ったりしなければ、安易なヒロイズムに便乗した「帝国領への侵攻」などという作戦を軍部が取り上げなければ──。
しかし、過去を悔いたところで取り戻しようがないこともわかりきっている。
「さあ、我々は我々の出来ることでヤン提督をお助けしましょう。何しろあの方は艦隊運営だけは一流で、白兵戦も、それどころか射撃もままなりませんからね。」
ロイエンタールと自身の上司とを比較して皮肉ったシェーンコップに、キャゼルヌも笑って答える。
「物資の管理も補給線の計算も苦手、洞察力はあっても政治的駆け引きはからっきしだからな。」
二人のやり取りを聞いていたジーンも笑って、それを機会に各自が持ち場へ戻ることになった。
しかし、三人が穏やかに会話を交わせたのはこの時が最後だった。
それからの三ヶ月、戦局は熾烈を極め、劣勢に継ぐ劣勢をなんとか覆しながら、ヤン艦隊は転戦を繰り返すこととなったのである。
帝国軍と激闘を繰り広げるランテマリオ星域へ救援に駆けつけたヤン艦隊であったが、同盟軍は辛くも全壊は逃れたものの多大な戦力を失い、崩壊寸前の状況まで追い込まれた。
その後、起死回生を狙ったヤンの作戦により、バーミリオン星域で両軍は再び激突──それが、ジーンにとってヒューベリオンで迎える最後の戦闘となったのである。