ハヴィランド宮殿のシェフィールドの執務室。ノックと共に声がかかる。
「ミス・シェフィールド、陛下のお出ましにございます」
「お入りください」
開いた扉の中央に、この国の主、クロムウェル皇帝がいた。近衛兵と共に部屋へ入っていく。それに対し、姿勢を正し、おごそかに頭を下げて迎える秘書。
クロムウェルは威厳を持ったまま、近衛兵たちに声をかける。
「シェフィールドと二人で話がしたい。他の者は下がれ」
「はい」
兵たちは部屋から出ていき、扉を閉めた。残ったのは二人だけ。
するとクロムウェルの表情が急に変わる。情けないと思えるほど、弱気な表情に。
「ミス・シェフィールド!賊を逃したというのは誠ですか!?あれほどの人数を揃えたというのに!」
皇帝は縋るように秘書の元へ寄る。
対するシェフィールドはさっきまでの、慎ましい態度はどこへやら。横柄な口ぶりへと変わっていた。
「読みが甘かったようだわ。妖魔らしく力攻めかと思ったら、策を弄してたようなの」
「で、では、また……」
「おそらく。妖魔とメイジのチームなんて、長続きはしないでしょう。まだ形になってる内に、仕掛けて来ると思うわ」
「な、なんと……。しかし……あれほどの人数を退ける賊を、どのように相手にしたら……。しかも、ワルド子爵まで怪我をし、戦いはしばらく無理と言うではありませんか!」
自分の命の危機はまだ去ってない。クロムウェルは、その不安を隠そうともしない。
ちなみにワルドは、壁に激突する寸前、『エアシールド』で身をなんとか守った。もっともそれでも、怪我は免れなかったが。
シェフィールドは、成り上がり皇帝を鬱陶しいと思いながらも、冷静に答える。
「私が相手をするわ。というか、私にしか相手にできないでしょうね」
「と申されますと?」
「相手の正体と目的に、見当がついたという事よ」
淡々と告げながら椅子に座る。驚いて突っ立ったままの皇帝を、不敵に見上げた。
「あの後、捕縛に参加した連中から話を聞いたわ。それから推測がついた。妖魔と呼ばれたものの一つは、水の精霊。他にも精霊がいるようね」
妖魔が口にした"精霊の加護"という言葉。それに水がかかった兵達が豹変したという話を聞き、思い当たったのだ。さらに先住の魔法ですら、詠唱は必要。雷を使った妖魔は、それがなかった。そんな事ができるのは、精霊くらいだ。妖魔たちというより、精霊たちが手を組んでいるという、珍しい連中だと考えた。
クロムウェルは話を聞き、その意味をすぐに察する。
「水の精霊?まさか……ラグドリアン湖の……」
「ええ。だから目的は、『アンドバリの指輪』に違いないわ」
「精霊が、取り返しにワザワザ来る!?信じられません!」
「仕組んだのはメイジの方でしょう」
そうは言ったものの、方法が分からない。だからこそ、シェフィールドはメイジを捕まえたかったのだが。
狙いがハッキリし、ますます顔をゆがめるクロムウェル。怯えた表情を、シェフィールドへ向ける。
「そ、そのメイジですが、やはりトリステインかゲルマニアの手の者で、私の命を狙っているのでしょうか?」
「それがよく分からないわ」
「分からない?」
「あの光の玉。ワルドからラ・ロシェール戦のものによく似てた、という報告を受けた」
「ではやはり、トリステインのでは……」
「それにしては、両国の動きが全くないのが腑に落ちない。お前の暗殺が成功すれば、この国は大混乱。絶好の攻め時になるわ。ならいつでも出撃できる体制を、とっておかねばならない。でも、そんな様子はまるでない」
連合軍との開戦は間近と考えられているので、情報は逐一入っていた。その中に、おかしなものは全くなかったのだ。大規模な戦争の準備だ。隠し通せるとも思えない。
さらに秘書は続ける。
「だいたい、艦隊を壊滅させるほどの攻撃を、暗殺に使うかしら?私なら、戦争のための切り札として隠しておくわ」
「言われてみれば、確かに……。それでは、いったい……?」
「戦争とは、まるで関係ない連中かもしれない。精霊と個人的に縁があるだけで、やってきた……と」
得体のしれない連中に、シェフィールドも少々戸惑っていた。腕を組んで、考え込む。
黙り込む彼女に対し、クロムウェルがしびれを切らす。
「と、ともかく、『アンドバリの指輪』が奪われては、何もかもが終わりです。あなたにとっても……」
「その通りよ。だからなんとしても守らないといけない」
視線を強くするシェフィールド。『アンドバリの指輪』は実はこの国の要だった。無くせば、この国が崩壊しかねないほどの。
すると彼女は、手の平をクロムウェルへ差し出した。
「だから、指輪を私に渡しなさい」
「し、しかし……」
「安心なさい。少なくとも精霊たちの目的は、お前の命ではない。その可能性があるのはメイジの方。それに、お前を守る方法は他に考えているわ」
「そうですか……」
皇帝は仕方なさそうにうなずきながら、指輪を差し出す。シェフィールドは、手にした指輪を厳しい顔つきで見つめていた。
その後、クロムウェルは部屋を出ていく。いつもの威厳を持った、国の主として。秘書はその変わり様に、皇帝よりも役者の方が向いていると、内心笑っていたが。
やがてシェフィールドも部屋を後にする。そして地下へと向かった。地下には彼女だけが入れる特別な部屋があった。その場所こそ、彼女の本当の力が隠されていた。
晴れ渡った青空。ロンディニウム郊外の岡の上。林の端。異質な一団がいた。もちろん魔理沙とその一党である。前日、危ない目に遭ったというのに、まだあきらめてない。結構キモの据わっている連中だった。
タバサとキュルケが林から出て、町の方を見ていた。遠見の魔法を使うタバサの瞳に映るのは、ハヴィランド宮殿。隣の微熱が話しかけて来る。
「どう?」
「警備が強化されてる。衛兵も竜騎士も数が多い。後、メイジが宮殿中に張り付いて、何か作業をしてる。固定化らしい」
「宮殿中に固定化とか、どんだけよ」
「窓や扉にも細工をしてる」
「念には念をって訳ね」
つまりハヴィランド宮殿の周りは、ガチガチに防衛されているという事だった。
やがて二人は後ろへ下がる。迎える仲間に、キュルケはお手上げの態度。
「侵入はまず無理ね。予定の作戦は実行できそうにないわ。ハヴィランド宮殿なんて、籠城戦でも始めるかみたいだし」
「う~ん……。困ったわね」
ルイズが難しそうな顔で、腕を組む。脇で聞いていたアリスが、魔理沙の方を向いた。
「どうする?一旦、引き上げる?」
「いや。それじゃ期限に間に合わなくなるぜ」
「そう言ってもね……。強行突破はできればやりたくないし。忍び込むにしても、下調べ自体が厳しそうだし……。」
「……」
魔理沙も難しい顔。すると何かを思いついたのか、ピンクブロンドに尋ねる。
「ルイズ。虚無の魔法、どのくらい使えそうだ?」
「大きいのは無理ね。『エクスプロージョン』派手に使っちゃったから。期限までには、それほど回復しそうにないわ」
「そうか……」
「使えたら、どうするつもりだったのよ?」
「『イリュージョン』で囮を作りだしてな。そっちに引きつけて、どさくさまぎれにってのを考えたんだよ」
「なるほどね。でも今の状態じゃ無理だわ」
ルイズは今でも、アリスの作ったマギカスーツVer.3を着ている。そのため、普通のメイジより精神力の回復が早いのだが、それでも期限までの短期間では、あまり回復しそうになかった。
次に白黒魔法使いが声をかけたのは天人。
「天子」
「ん?」
「地震起こせそうか?」
「小規模ならねー。やっぱりこの土地、歪みが少ないわ。自在に、って訳にはいかなそう」
「そっか」
がっくりうなだれる魔理沙。そんな彼女に、衣玖が声一つ。
「地震で混乱してる最中に、という訳ですか」
「まあな」
漏らすような覇気のない返事。
それから、何人かがアイディアを出したが、どれも上手くいきそうになかった。
やがて誰もが口を噤む。動きを止める。ただ文だけは何やら忙しそう。話し合いにまるで乗らず、今回の事を記事として構想中。
結局、無駄に頭を悩ましても仕方がないので、食事を取りだす一同。もっとも人間だけだが。
食事の雑談の中。タバサは短くなった影を見ながら、何気なく視線をずらす。その先にあったのは、水の精霊、ラグドが入った残りの樽。半分は、町を脱出する時に流した。今は水堀から川を伝って、下流で待機している。
その時ふと思いついた。彼女はおもむろに口を開く。
「一つ考えがある」
全員が会話を止め、タバサを注視。静かに語られた第二次奪還作戦。その案は全会一致で採用された。ただし、一つだけネックがある。もっとも、なんとかなるレベル。解決するために、早速行動開始。担当は、なんと文だった。
トリステイン魔法学院では、今日も変わらぬ授業風景があった。コルベールが黒板にチョークを走らせながら、解説をしている。
ギーシュがノートを取っていると、空いた机が目に入った。ルイズ、キュルケ、タバサの席。ふと思う。三人は例のロバ・アル・カリイエの連中と共に、今頃アルビオンで何をやっているのかと。ともかく付き合うハメにならなくて良かった、とか思いながら胸をなでおろす。神聖アルビオン帝国の首都に、泥棒に行くというのだから。付き合っていられない。
ただ、精霊の涙で正気に戻してもらったので、魔理沙達に大きな借りを作ってしまった。それが、ちょっとばかり気にかかってはいる。
突然、教室の扉が開いた。
「ギーシュさん!ここにおられましたか!」
そこに立っていたのは、射命丸文。嘘くさい笑顔でギーシュの方を向いていた。
一方、ギーシュ顔が引きつっている。いや、ここにいる誰もが。
実は文。この学院での評判は芳しくない。というか恐れられている。その烏天狗の力、ではなく秘密の収拾能力に。知らない秘密はないのではないか、と言うくらい人の裏話を知っている。空飛ぶゴシップ。彼女達が来たばかりの頃。東方の田舎者として小バカにした連中が秘密をばらされ、恋人と別れたり、教師から大目玉をもらったり、実家から呼び出されそうになったり、あるいは王宮の衛兵に突き出されそうになったりと、悲惨な目に遭っている。それ以来、文を誰もが恐れていた。
そんな中、コルベールは別の理由で緊張感を持っていた。未だにパチュリーと対峙した時の、おかしな違和感が忘れられなくて。
「な、なんの用ですか!?ミス・シャメイマル」
「授業のお邪魔をして、申し訳ありません。実はギーシュさんに、用がありまして」
「授業が終わってからに、してください」
「そうは言われましても、女王陛下から依頼なのですが」
「女王陛下?」
思わず目を見開く禿教師。意外な人物から意外な言葉。
「どういう事ですか?」
「それは言えません。ここでは憚られるので。ただお急ぎでしたよ。ちなみに、学院長から許可は取ってあります」
「そうですか……。分りました。ミスタ・グラモン。急いで準備しなさい」
「はい」
ギーシュは納得いかないながらも、アンリエッタの命とあらばと、気持ちを引き締める。そして文の後について、教室を後にした。
文が来た場所は広場。ギーシュは首を捻りながら尋ねる。
「陛下にお会いになるなら、身支度をしないといけないんだけど。こんな所にいる暇はない、と思うんだが」
「身支度なら、ここでしてください」
そう言って、文が指さした先にあったのはフルメイルの鎧。王族などの迎賓の時、学院の衛兵達が着る儀式用のだ。結構頑丈にできている。ますますギーシュは訳が分からない。
「鎧を着て陛下に謁見?いったいどういう事なんだい?」
「それは道すがらお話しします。とにかくお急ぎでしたので」
「そうかい……。分かった」
渋々うなずくギーシュ。腑に落ちないながらも、鎧を身に付け始める。
実は元々メイジは、鎧の着方なんて知らない。しかし、アルビオン戦後、授業の一環として戦争関連のものが増えたのだ。今では鎧の身の付け方を、知らない生徒はいなかった。さらにギーシュは武門の家。鎧を身に着ける術は当然心得ている。
しばらくして、重装甲を身に纏ったギーシュ。兜のスキマから、文の姿が目に入った。なにやらベルトらしきものを、取り付けている。眉をひそめ怪訝な表情になる色男。どうもおかしいと。
「あの……ちょっと聞きたいんだけど……。本当に陛下がお呼びしてるのかい?」
「あー、後ろ向いてください」
「え?あ、いや。君……そうじゃなくって……」
「ほらほら、時間がありませんので」
「ああ……」
疑念がいっぱい頭の中に浮かぶ。でも文の押しの強さと、鎧のせいでイマイチ身動きの取れないのもあって、彼女の言う通りに。
ふと、何やら金属の金具を繋ぎ止める音がした。そして腰に回される文の手。さっきの音は、彼女が身に着けたベルトに鎧を接続した時のものらしい。つまり今、文とギーシュは一心同体。いつもなら女性に密着されて喜びそうな色男だが、鎧越しでは嬉しくもなんともない。そもそも、こんな事している理由が分からない。ハテナが浮かぶギーシュ。
「えっと……。いったいどういう……。うわっ!?」
体が宙に浮いていた。文に抱えらえれ、空を飛んでいたのだ。
一瞬レビテーションの魔法かと思ったが、妙な事に気づく。魔法ではなく抱えられて飛んでいたのだ。そう、彼女はフルメイルを着込んだ男子を、女性の手で持ち上げていた。なんという膂力。ハテナがさらにたくさん浮かびだす。
一方、文はそんな彼に構わない。
「注意事項を言っておきます。まず目は、なるべく開けないでください。それと呼吸は鼻でするように」
「い、い、いったいなんなんだ!?だいたい陛下から呼び出しって、どういう理由で……」
「それ嘘です」
烏天狗、あっさり。
驚いて文句を喚こうかと思ったギーシュだったが、慌てて口を閉じる。身に感じる妙な感覚から。異常な風の圧迫感から。
速度が上がっていた。
すぐにこの速度が、フライの魔法をはるかに上回っているのが分かった。
いや、火竜に近づいていた。
むしろ、風竜のそれだった。
違う。風竜を超えた。
いったいそれは何か、どういう事か、そもそもなんで自分はこんな目にあっているのか。
すさまじい空気の圧力の中、混乱だけが頭を回る。
ギーシュ・ド・グラモン。ハルケギニアで初めて音速を体験した人間となった。
「おーい、起きろー」
「文。あなた、ちゃんと障壁張ったの?」
「もちろん」
「人間運んでるって、考えて?」
「当然。自分なりの解釈で」
「…………」
薄っすら意識を取り戻したギーシュの耳に、何やら話声が届いた。それに何人もの気配。自分をぐるりと囲んでいる気がした。
パチっと目を開ける。
見えたのは、格子のスキマから見える夕焼け色の空。檻に入れられた。一瞬、そう思った。
「うわっ!?」
跳ねる様に起きる。
「あれ?」
すぐに気づいた。檻ではなく、兜の格子だと。つまり自分は鎧兜を着込んでいると。
ちなみにこの鎧。音速で飛ぶので、念のために着させたのだ。もちろん文は障壁を張っていたので、それで十分の可能性はあったが。
ぼやけた意識の中、ギーシュは記憶を手繰っていく。授業中、突然文に連れ出された事を。女王が呼んでいるという話だったが、嘘だったと。
思わず兜を脱ぎ棄てると、すぐに文を見つけた。
「き、き、き、君!いったい、どういう……。あれ?ルイズ……、キュルケ……?なんでここに?」
「アルビオンだからよ」
「え?」
唖然。口を半開きにしたまま止まった。
やがてギーシュは首をゆっくり回す。広がる見慣れぬパノラマ。すぐにここがアルビオンと悟った。眉間が引きつる。出来る事は、せいぜい薄ら笑いだけ。
だが、次に思いついたのはどうやって来たのか。普通、学院からアルビオンまでは、馬車と船で数日かかる。だが何泊もした記憶は全くない。だったら数日間寝ていたのか。魔法でもかけられて。だいたい文は、鎧を着込んだ彼を、軽々と持ち上げて飛んでいた。それも魔法なのか?異様な違和感がギーシュの脳裏を襲う。妙な冷や汗が流れ始めていた。
色男、文に向かって、ぼそぼそと尋ねる。
「あ、あの~……。学院を出てから何日経ったのかな?」
「えっと……、半時も経ってませんね」
「え!?」
半時。つまり1時間も経ってないという。数日かかる行程が。
「そ、その……、と、東方の魔法かな?」
「魔法って?なんの話です?」
「いや……、どんな魔法を使ったのかなって……」
「魔法使えませんよ。私」
「えっ!?」
ギーシュ、顔をゆがませて眉をひそめる。目の前にいる女性は、ロバ・アル・カリイエのメイジで貴族と説明を受けていた。にも拘わらず、魔法が使えないとはどういう意味か。だいたい魔法を使わずに、これまでやった事をどう説明するのか。何も思いつかない。
対する文。なんでギーシュの表情が疑念で一杯なのか、まるで理解してない。そんな烏天狗をアリスが小突いた。ようやく気づく。
「あー。冗談です。魔法使えます」
「いや、だ、だけど……」
「なんなら、お見せしましょうか?」
「そう言われても……。東方の魔法なんて知らないから、判別できないし……」
「でも、信用してください。正真正銘、魔法ですから」
何を根拠に信用しろと言っているのか。余計にギーシュの疑いは強くなる。
するとルイズが溜息一つ。
「もういいわ。話進まないし。ギーシュ。落ち着いて聞いてね」
「な、なんだい?」
「文は魔法使えないわ。つまりメイジじゃないの。っていうか、ロバ・アル・カリイエから来た連中は、人間じゃないわ」
「ええ゛っ!?に、人間じゃない!?」
ギーシュ、間抜けな顔のまま固まった。しばらくして復帰。
「じゃ、じゃ、じゃ、妖魔なのか!?」
「妖魔とも違うんだけど……。いろいろよ」
「い、いろいろ?」
「そうね。例えば、私の使い魔、天子。あの子は天使よ」
「天使?」
「聖典に載ってる天使」
「えーーーーっ!!」
口を力いっぱい開けて、叫んでいた。目が飛び出そうなほど、瞼を開けていた。
そんな彼を横で見ていたキュルケは、幻想郷メンバーと初めて会った時の事を、しみじみ思い出す。全く落ち着きをなくした自分達と、小憎らしいほど落ち着いていた彼女達を。
ギーシュの方は、相変わらず。何か言おうとてるのだが、うまく言葉にならない。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ、いったいどういう……。人間じゃない!?天使!?なんだそれは!?」
「動揺するのは分かるけど、少しは落ち着きなさいって」
キュルケがなだめるように声を掛ける。隣でうなずくタバサ。ギーシュは二人へ顔を向けた。
「キュルケ、タバサ……君ら知ってたのか?」
「まあね。言ったでしょ?ルイズが帰って来た時に、偶然会ったって。その時知ったの。モンモランシーも知ってるわよ」
「モンモランシーも?」
「そうよ。だからあなたと天子が決闘しそうになった時、必死に止めたのよ。天使相手じゃ、勝負にならないでしょ?」
息を飲むギーシュ。視線を天子に向けた。いろいろと騒ぎばかり起こしていたルイズの使い魔が、天使とは。とても神聖そうには見えないが。
すると今度は文。
「ぶっちゃけてしまいましたね。なら、別に隠す必要はなさそうです」
そういうと、文の背中から黒い翼が広がった。バサッという具合に。
ギーシュ、またも目を大きく見開いて茫然。そのまま後ろへ、逃げるようにずるずる下がる。
「よ、よ、翼人!?」
「違いますよ。烏天狗です」
「カラステ……?え?」
「烏天狗。翼人とかいうのではありません」
「???」
もう訳が分からない。いろんな話が一気に頭に飛び込んで、イケメン大混乱。もうなんか前衛芸術でもしているのか、口をパクパク、手足をバタバタさせながら、喚いていた。
それから、長い説明が続く。その間、ギーシュがパニックになったり、なだめたり、という事が繰り返された。やがて何周目かで、ようやく彼は落ち着きだす。
「しかし……、そんな奇妙な世界があるとは……。未だに信じられない……」
「あるのよ。で、それはもういいでしょ。本題に入るわ」
ルイズ、手間がかかりすぎたのもあって、少々不機嫌。強引に話の流れを変えた。ギーシュは精神的に疲れているにも関わらず、相変わらず振り回されっぱなし。
「本題?」
「ここにあなた連れてきた理由よ」
「そ、そうだ!なんで、こんなところに、無理矢理連れてきたんだ?」
「もちろん、アンドバリの指輪奪還のためよ」
「まだ取り戻して、なかったのか!?」
「取り戻してたら、ここにはいないわよ」
「だいたい連れて来るにしても、やり方ってものが……」
「時間がなかったの」
「はぁ……。分かったよ。それで僕になんの用だい?」
「えっとね……」
またまた長い説明が続いた。そして……。
「やだ!絶対、やだ!なんでそんな事しないといけないんだ!」
色男、強烈な拒否。彼の美学に関わる話なので。
そこに出て来る白黒魔法使い。覗き込むように彼を見る。不敵な笑みがそこにあった。
「理由は簡単だ。お前は私に借りがあるからだぜ」
「な……!」
「借りは返さないとな」
「え……、あ……」
言葉が出ない。有無を言わせない理由。ギーシュは、あきらめるしかなかった。うなだれて肩を落とす。
「はぁ……もう、好きにしてくれ……」
「まあ、私も付き合うぜ。だいたい一人じゃ無理だしな」
「それは……、心強いね」
疲れた笑いで、少しばかりの皮肉。これが彼の精いっぱいの抵抗だった。
白黒魔法使いは、そんな彼に構わない。
「で、今夜やるぜ」
「こ、今夜!?」
「そんな嫌がるなって。飯でも食えば気分も変わるぜ」
「そうかなぁ……」
もっともその飯も、辺りで調達したものを、適当に食べられるようにしただけなのだが。とてもギーシュの口に、合うものじゃなかった。イケメンは不遇の連続で、半泣きで食べたという。
ハヴィランド宮殿では、急ピッチで防衛力強化の作業が進んでいる。シェフィールドの執務室では、警備隊長からの状況が告げられていた。
「外壁、屋根の固定化はほぼ終わりました」
「窓や扉は?」
「鍵を特殊なものに変えたため、少々時間がかかっております。ただ翌朝までには終わるかと」
「魔法装置は?」
「指示のあった場所に、移してあります」
「通用門は?」
「そちらも指示通りに」
「ご苦労。残りの作業を急がせなさい」
「はっ」
歯切れのいい返事と共に、警備隊長は部屋から出て行った。
一人になった部屋で、シェフィールドは椅子に身を沈め、考えをまとめる。
相手が精霊だと分かった時点で、普通の兵やメイジには対抗ができない。彼女自身が相手にするしかなかった。幸い、ここには新たに開発したマジックアイテムがいくつもある。アルビオンはマジックアイテムの試験場でもあったのだ。
相手の動きを掴むため、ディテクトマジックの魔法装置は、ハヴィランド宮殿周辺に集中的に配置されている。市街の城門に置かれていたものを、移したのだ。お互いがお互いをカバーし、死角は一つもない。もっともこのため、城門の警備は、逆に緩くなっている。さらに宮殿の通用門だけ、微妙に警備を軽くしてあった。侵入経路を絞り、罠に嵌めようというのだ。
兵や武器の配置図を眺めながらつぶやく。
「罠に引っ掛かればいいが……。強行な手を取る可能性もある。甘く見ない方がいいわね」
シェフィールドは、厳しい顔つきで席を立った。
精霊を相手にする。しかも複数だ。一筋縄ではいかない。彼女はこれに対するに、秘蔵のマジックアイテムを、全て放出するつもりでいた。先住の力を宿した、異質な道具な数々を。
日はすっかり落ち、空には双月が上がっていた。
ルイズ達がいた丘には、ルイズ、キュルケ、タバサ、文、そしてラグドのみ。他は、二手に分かれすでに行動を開始している。
まずは天子達。ロンディニウムからさらに離れ、川の上流、山奥の村にいた。宙に上がり見下ろしている。衣玖が辺りを見回しながら尋ねた。
「目ぼしいのは、ここしかありませんね。できますか?総領娘様」
「う~ん……。少ないけど、やってみるわ」
そう言うと、緋想の剣を抜いた。
他方、魔理沙、アリス、ギーシュ。現場に着いて、全員が顔をしかめる。
「こ、これは……」
「さすがに、キツイわね」
「ま、文句言ってもしゃーない。やるぜ」
「はぁ……。分かったよ」
三人は作業を開始した。
ハヴィランド宮殿では、夜間も厳重な警備が行われている。一方で、防衛力強化も、夜を徹して進められていた。皇帝であるクロムウェルは、いつもの自室から移り、隠し部屋へ避難している。一方、メンヌヴィル達は、皇帝警護のための詰所にいた。そしてシェフィールドは地下にいた。まるで宝物庫か武器庫かというような特別な部屋に。
ここには、得体のしれないマジックアイテムが多数置かれていた。透明になれるマントや、見かけと違い、広い空間があるチェスト。そしてあの『始祖のオルゴール』、『風のルビー』もあった。
彼女は、机に乗っている小さな人形を手にする。
「まずはこれからか……」
同じく机に乗っている小瓶を持つと、中の赤い液体を一滴、人形に垂らす。するとみるみる内に姿を変えていった。やがてクロムウェルそっくりとなる。人形の名は『スキルニル』。血に触れると、その持ち主そっくりになるマジックアイテムだ。
シェフィールドは、クロムウェルに化けた人形に話しかける。
「お前は、いつもの皇帝の居室に籠りなさい」
人形はうなずくと、部屋を後にした。この人形はクロムウェルの身代わり。メイジの正体がハッキリしない以上、保険をかけた訳だ。あの成り上がり皇帝は、まだまだ必要だった。殺される訳にはいかない。
「次は……、精霊にどう立ち向かうか……」
彼女は棚状になった金庫へ向かった。そこから石を一つ取り出した。慎重にあつかいながら、つぶやく。
「水の精霊には火、雷の精霊もおそらく同じ手が使える……。だが……」
雷を使った賊が、精霊の加護とやらで左手を治した点からそう考えた。どちらも水属性の存在であろうと。ただ、残りの精霊。その正体が分からない。一つは光の筋を撃つものらしいが、それだけでは、なんの精霊か想像もつかない。メイジという可能性もあるが、光の筋のような魔法など聞いた事もない。
しかし相手が何者であろうとも、撃退できる一つの手があった。それが、今彼女が手にしている石である。
火石。
それが石の名だ。
風石、土石などと同じ、四系統の力が籠っている石。ただ火石が他のものと違うのは、理論上存在するというだけで、人間には手にする事ができないものという点。
彼女はそれを手にしている。"ある者"の協力により。もっともこれは実験中のもので、想定された能力には遠く及ばない。だがそれだけに、扱いやすくはあった。少なくとも、水の精霊、いや、生ある者は全て、瞬時に蒸発させる程度の力はある。
すると、火石を眺める彼女に近寄る姿が数体。異様なゴーレムが、近づいてきていた。大きさは二メイルと、大柄な人間程度。だがその身を作る鎧は、あらゆるものを跳ね返す。電撃であろうとも。これも"ある者"の協力で作り上げたもの。そしてまだ試作品である点も同じ。
シェフィールドはゴーレムに近づくと、鎧を開く。そして中に指輪を入れた。『アンドバリの指輪』を。これで指輪は、完全に守られる。さらに彼女は、またスキルニルで自分のコピーを作り出した。
アンドバリの指輪は餌だ。これを囮に精霊達をおびき寄せ、火石で一気に消滅させる。だが指輪は、ゴーレムに守られているので、猛烈な爆発の中でも傷すらつかない。これが精霊達に対する策。そのタイミングを確実にするため、自分のコピーに罠を見張らせる。さらにこのコピーは、生物ではない。水の精霊に操られる事もないだろう。策が成功すれば、ハヴィランド宮殿の一角を、吹き飛ばす事になる。だが、それだけに撃ち漏らす事ない。そうシェフィールドは考えていた。
道具が揃った所で、彼女は席に着く。宮殿の図面を広げ、細かな配置を考える。するとふと、妙な違和感を覚えた。
「ん?これは……!」
違和感の方角へ思わず振り向く。魔法装置が反応していたのだ。
「チッ!もう来たのか!?動きが早い!」
宮殿の防備も、精霊を嵌める罠の方も、準備は半ば。シェフィールドは仕方なく、コピーとゴーレム共に指示を出した。暫定的な配置だが、躊躇している暇はない。さらに、警護隊長へ賊が迫っている事を告げた。深夜の宮殿に、緊張が走る。
部屋で構えるシェフィールド。賊の動きに神経を尖らす。
賊はだんだんと近づきつつあった。すでに市内に入り込んでいるのが分かる。ただこれは想定通り。城壁の警備は軽くし、入りやすくしているのだから。うまく罠の入り口である、通用門を通る事を期待する。
だが賊はある程度近づくと、足を止めた。そして宮殿を中心に横へ移動。そして離れていった。
「罠に気づいたか?」
一瞬そう思ったが、また近づき始めた。しかし、それもやがて止まる。そして横に移動。
結局、賊は位置を変えつつ行ったり来たりしながら、最後は宮殿から離れていった。シェフィールドは腕を組むと考え込む。
「探りを入れてきたか……。何にしても、まだまだこちらにも時間があるようね。準備を急がないと……」
彼女は緊張を解くと、ゴーレム共を呼び戻す。そして念入りに配置を検討し始めた。
さて、賊の一派。魔理沙、アリス、ギーシュの帰還を迎えるルイズ達。その顔は、あまりいいものではなかったが。特にキュルケは。
「あなた達……」
「言うな。自分からが一番分かってるぜ」
「そうだよ!どんだけ大変だったと思ってるんだ!」
女性に優しいギーシュも、キュルケの態度にちょっと不満げ。さすがのキュルケも一応謝る。今回は、留守番しかしてないのもあって。そんな連中に構わず、アリスは服をタオルで拭きながらポツリ。
「ま、苦労した甲斐はあったけど。おかげで上手くいったわ」
「そう。なら、後は本番を待つだけね」
ルイズ、キュルケと同じくちょっと渋かった顔を、緩める。
しばらくして、残りの一派、天子達が帰って来た。そちらも作業完了。やがて人間たちは、明日に備えて眠りに入る。残りの連中は、暇をつぶしていた。
翌日。日はすでに地平線から離れている。夜明けから、2時間ほどが経っていた。全員が準備万端、林から出てその時を待つ。
「さてと。はじめるぜ」
魔理沙は、不敵な笑みを浮かべていた。
地下の自室で、賊を待ち構えるシェフィールド。仕掛けは全て終わり、後は、罠に嵌るのを待つだけだ。もっとも相手の動きによっては、臨機応変に対応しなければならないが。そのために、試作のゴーレムと火石をいくつか残してある。さらに透明になるマジックアイテムも、所持していた。
そんな彼女の耳に雨音が届いた。
「雨か……。まさか……!」
すぐに彼女は部屋を出て、一階へ上る。目に入った窓の外は、かなり強い雨脚となっていた。
シェフィールドは、ロビーで警備隊長を見つける。
「隊長」
「ミス・シェフィールド……。なんの御用で?」
「今、外にいる者は、決して宮殿内に入れないように。さらに中の者も、外に出ないように」
「は?」
「分かったわね。厳命よ」
「は、はぁ……」
渋々頷く警備隊長。意味不明な命令の狙いを、宮殿内が濡れるからかと勝手に考えた。それが厳命とは、腑に落ちないが。
彼女がこんな手を打ったのは、実は、雨に紛れて水の精霊がやってくる可能性を考えたからだ。精霊自体は飛べないが、メイジが精霊を空に運ぶ事はできる。もっとも逃した賊の様子、残した品から、精霊の量はそう多くなく、大した事はできないとは思っていたが。
それから雨は長く続いた。しかも大雨と言った様相。静かな地下に、雨音だけが響く。一方で、それに紛れて賊が近づくような気配はない。魔法装置は、相変わらず無反応。もちろん先日のように、細工された様子もない。
シェフィールドは少々、落ち着きなさそうにしていた。さすがにこう緊張が続くと、不満も溜まる。
「賊共め……何をしている。雨は絶好の機会だと言うのに、まだ来ないなんて……。まさか、あきらめた?いや、それなら夜に来たりはしないわね……」
苛立った言葉が漏れる。
配置図を眺めながら、気持ちの置き所に困っていると、妙な刺激が鼻を突いた。
「ん?」
背筋を伸ばし、辺りを見回す。特に変わった様子はない。だが妙な匂いは確かにあった。不快な匂いが。
シェフィールドは顔をしかめると、席を立つ。すると部屋中に、それが充満しているのを感じた。もう何の匂いか、ハッキリ分かった。
腐臭だと。
ますます顔をしかめる彼女。思わず鼻を塞ぐ。いったいどういう訳で、こんな匂いが充満しているのか。空気を入れ替えようと、扉に近づき、思いきり開けた。
すると……。
廊下から水が流れ込んできた。
「えっ!?」
混乱。目と口を開きっぱなしのまま、固まる。
茫然としたまま部屋から出ると、水浸しの廊下があった。衛兵たちが喚きたている。ますます唖然とするシェフィールド。状況が、よく呑み込めない。
その時、ふと何かを踏んづけた。やわらかい妙な感触。視線を足共に向ける。そこにあったのは……。
腐ったねずみの死体だった。
「ひゃぁぁっ!?」
らしからぬ悲鳴を上げる秘書。思わず飛び退く。
するとネズミの死体は、流れに乗って部屋へ侵入。だがよく見ると、いろんな物が流れていた。ゴキブリの死骸に、半分溶けたキャベツ。何やら黒い塊に、黒だか緑だかよく分からん泡だったもの。……と、目を背けたくなるものばかり。
それらが全て、強烈なものを発していた。
腐ったかほりを。
一瞬、喉の奥からこみあげて来る。すっぱいものが。シェフィールドは、それをなんとか飲み込んだ。押し込んだ。
「はぁ、はぁ……」
荒い息。だが、激しい呼吸をすれば、余計に腐臭が匂って来る。
「……!!」
彼女は顔を叩くように、鼻と口を塞いだ。もはや待ったなし。すぐに、駆け出していた。
着いた先の階段では、濃い茶色っぽい汚水が滝の様に流れてきている。もう、ざざざぁーっという具合に。それに構わず駆け上がる。身に着けた美しいドレスに、汚水が飛び跳ね、先の方はなんだか黒く滲んでいく。
一階にたどり着いたが、状況は地下と同じ。水浸し。流れているのは、元々何かだった得体のしれないもの。溢れる腐臭。そして喚く兵達。ただメイジだけは、フライで宙に浮いていた。今ほど魔法が使えたら、と思う事はない。なんと言っても、両脚は、汚水に浸かったままなのだから。
彼女は目に着いた衛兵を、どなりつけた。
「そこのお前!」
「はい!?」
「私を抱えなさい!」
「はぁ!?」
「いいから、やりなさい!」
「は、はっ!」
お姫様だっこされるシェフィールド。なんとか汚水からは逃れた。しかし、腐った匂いはどうしようもない。
それはもう、真夏のさなか、一週間締め切った生ゴミ処理施設に、入り込んだかのよう。もはや臭いなどという生易しいものではなく、頭にガンガンくる強烈な何か。30分もいたら、気を失ってしまいそうな何か。
半ば息を止めつつ、目を流す。すると、宙に浮いている警備隊長を見つけた。
「隊長!窓を開けなさい!」
「そ、それが固定化を何重もかけ、鍵まで変えたので、簡単には開かないのです」
「!」
防御力を強化したのが仇になった。白の宮殿が、今や汚水タンクかという状況。
シェフィールドは、苛立ちをそのままぶつける。喚きたてる。
「原因は何!?」
「昨夜から高地に雨が降ったため川が増水しており、下水道の水位が上がっていたのですが、さらにこの大雨で限界を突破したようなのです。それで、トイレが溢れかえっており……」
「トイレを、塞ぎなさい!」
「しかし、雨が止んだ後に、困った事になりますが……」
「状況を考えなさ……!」
いっぱい喚いたので、たくさん空気を吸ってしまった。もちろん匂いも。またも、すっぱいものがこみ上げる。
「うっ……!や、やりなさい!」
「は、はっ!」
隊長は慌てて人を集めだした。
シェフィールドには、慌てて去っていく隊長の姿が目に入らない。頭がくらくらしてきた。息を抑えているせいで酸欠になっているのか、強烈な腐臭のせいなのか区別がつかない。
その時、彼女の体が宙に浮いた。衛兵が、彼女を放り投げていた。
「きゃっ!?」
皇帝の秘書、汚水の中に落下。茶色の飛沫が上がる。
「お前!何を……!ぎゃぁぁぁっ!」
手で押さえていた、プニュっとしたものに気づいた。トイレでよく見る、濃い茶色の塊に。半ば錯乱している彼女。四つん這いんになって、そこから逃げ出す。汚水がバチャバチャ舞い上がる。もうドレスはおろか髪まで、腐臭まみれ。
ようやく立ち上がると、衛兵を睨みつけた。
「き、貴様……!」
だがその衛兵の瞳には、光がない。意思をまるで感じない。彼女は一瞬、不思議に思ったが、次の瞬間その意味を悟る。水の精霊の影を。
しかしその時、声が届いた。耳にではなく頭の中に。
(見つけたぞ)
「しまっ……!」
シェフィールドはその言葉を最後に、意識を失った。
しかし何故か彼女は、倒れたりしない。むしろ、しっかりと背筋を伸ばしていた。ただ、顔から感情が消え失せる。まるで別人にでも、なったかのように。そう、彼女は乗っ取られてしまったのだ。
シェフィールドは辺りを見回すと、他の衛兵に声をかける。その声には、さっきまでの動揺した響きが微塵もなかった。
「おい、貴様」
「はい」
「外に出て、馬を一頭用意しておけ」
「しかし窓も扉も開きませんが……」
「開けろ」
「は、はっ!」
「それと隊長に、トイレを塞ぐのは止めろと言え」
「はい」
衛兵は、ただちに命令を伝えに行った。
やがて彼女は、汚水など気にも留めず、ずんずん進みだす。そして、罠を仕掛けている部屋にたどり着く。扉を開けると、異様なゴーレムが数体佇んでいた。彼女のコピーも。しかし、動く気配はない。せっかく用意した万全の対策も、まるで役立たず。
部屋の様子に構わず、目標のゴーレムに近づいていく。
「こんな所に、仕舞っておくとは……」
手慣れた作業で、ゴーレムの鎧を開けた。目標のものが目に入る。『アンドバリの指輪』が。
「返してもらうぞ」
大切そうに指輪を抜き取り、左手に嵌める。
無表情ながらも、どこか安心したかのよう。本人にとっては、手元から無くなったのはほんのわずかな期間だったろう。だがそれでも、他人の手によって、身から離れたのは許しがたかった。しかも、よりによって人間の手で。
その時、ふと思い出した。異界の者達の考え方を。表情が元に戻る。
「さて……」
彼女は目的のものを手にいれたのだが、次の場所に向った。行先は地下。もう腰ほどの高さに汚水が溢れているが、シェフィールド、相変わらず気にしない。そして自室にたどり着いた。
「これか……」
金庫から品を取り出す。『始祖のオルゴール』と『風のルビー』。その二つを手にすると、部屋を後にした。
一階に戻ったシェフィールド。ようやく窓が開いたのか、少しばかり匂いが薄まっていた。衛兵に声をかける。
「馬は用意できたか」
「あ、はい」
礼も言わず、視線をずらす彼女。するとその背後から、近づいてくる兵がいた。さっき彼女を汚水に突き落とした衛兵だ。表情は、さっきと同じく能面のよう。
彼はシェフィールドの脇を過ぎると、窓から出ていく。外はもちろん大雨。しかし、まるで気にしてないふう。やがて彼女は衛兵に、二つの指輪とオルゴール、そして皇帝の通行書を渡した。
やがて二人は別々に動き出す。お互いの意思が、伝わっているかのように。だが二人には、まるで会話がなかった。側の兵は、不思議に思いながらも首を捻るだけ。
やがて衛兵は馬に乗り、城外へ。一方、シェフィールドは、宮殿奥へと進みだした。
汚水流れる廊下を進むシェフィールド。飛び散る茶色の液体に構わず、上流へと向かっていた。
そして、たどり着いた先はトイレ。宮殿を床上浸水させている元凶のトイレ。今でも、汚水を吐き出している。ついでに、いろんな汚物も。警備隊長や兵達は、ただただ茫然と眺めていた。
「こ、これは、ミス・シェフィールド」
「……」
「塞ぐのを中止しろとの命令ですが、本当によろしいのですか?」
「ここは私が処理する。貴様たちは配置に戻れ」
「はぁ……。それではお任せします」
命令を聞き、ちょっと喜ぶ兵達。よほどこの匂いから、逃げ出したかったのだろう。急いでトイレから去っていった。
一方、残った秘書。足に絡みつく、なんか分からん汚いものなど気にせず、トイレに突入。部屋の真ん中まで来ると、立ち止まった。視線の先にあったのは便器。じゃぶじゃぶ汚水を吐き出している便器。
「異界の者に触れて、いくつか気に入った考えがある」
便器からは、黒いのとか、死骸とか、肉の残った骨とかが、噴き出していた。
「借りは返さないといけないそうだ」
茶色い濁った水とか、なんとも言えない腐臭とかが、嫌になるほど湧き出ていた。雫も当然、飛び散りまくり。
そんな便器を、シェフィールドはロックオン。
「釣りはいらない。取っておけ」
そうつぶやくと、汚水溢れる便器に……
頭から突っ込んだ。
それから、しばらくして。行方知れずとなった彼女は、トイレで溺れていた所を発見されるのであった。命は、辛うじて取り留めたという。
描写面ちょっといじりました。