アンリエッタの執務室にノックが響いた。女王は手元の書類から目を離し、顔を上げる。
「お入りなさい」
開いたドアから白髪の神父が入って来た。マザリーニ枢機卿。姿こそ聖職者だが、纏う雰囲気はそれではない。どちらかというと政治家。それも無理もない。トリステインの宰相なのだから。
彼は一つ礼をすると、アンリエッタの前までやってきた。
「全て滞りなく、終わりました。後は調印を残すのみです」
「ご苦労様です」
アンリエッタは労をねぎらう。
その労、彼のやっていた仕事というのは、実はゲルマニアとの同盟の話であった。一度、潰れたものがまた復活したのだ。しかもゲルマニア側からの要請で。
女王はため息といっしょに、少しばかり不満そうに零す。
「それにしても勝手なものですね。わたくしの輿入れをあれほど要求した上に、最後は向う側から同盟を拒否したというのに。今度は無条件での同盟要請とは」
「我が国に利があると、読んだからでしょう」
「利……?」
アンリエッタは首を傾ける。こう言ってはなんだが、小国である祖国に始祖ブリミルの血筋以外の利があるとは思えなかったのだ。大国ゲルマニアが欲するほどの。
マザリーニは整然とした口調で話す。
「アルビオンです」
「アルビオン?」
「アルビオンは、ラ・ロシェール戦で大きく戦力を失いました。攻めるなら絶好の機会です。ですが、ゲルマニアにはアルビオンを攻める大義がありません。ここで我が国と同盟を結べば、同盟国を助けるという大義が手に入ります」
「ではかの国は、アルビオンを掠め取るために同盟を結ぶと言うのですか」
「はい」
「なんという破廉恥な……」
アンリエッタは少しばかり憤りを感じていた。かつての恋人の国がまるで、単なる物のように扱われる事に怒りすら覚えた。
だが目の前の枢機卿には、そんな心情的なものに配慮している余裕はない。別の問題が引っ掛かっていたのだ。
「いずれにしても、再びアルビオンと戦火を交える事になるでしょう」
「そうですね」
「そして、アルビオンに攻め込むとなると、我が国はゲルマニアの力を借りざるを得ません。何しろ兵を運ぶ船がまだまだ足りませんので」
「はい……」
彼女は憂いた表情でうなずきながらも、自分の国の現状を思い出す。陸軍はかなり回復してきているが、艦隊の方はまだまだであった。最初の奇襲でほぼ壊滅してしまったのが、かなりの痛手となっている。急ピッチで再建中とは言え、元の姿を取り戻すにはかなりの時間が必要だった。このためアルビオンに攻め込むとなると、どうしてもゲルマニアの力を借りるしかなかった。
同じことはマザリーニも当然分かっている。彼が女王の前に来たのはこれが理由でもあった。枢機卿は平静を装いながらも、わずかに声に力を込めた。
「そこで、陛下。一つ献策がございます」
「なんでしょう」
「ルイズ・ヴァリエール譲、すなわち『虚無』を戦に参加させていただきたいのです」
枢機卿はトリステインの切り札を口にする。
実はラ・ロシェール戦の後、戦場分析や捕虜の証言に、不自然なものがいくつも見つかったのだ。少なくともアンリエッタが言っていた、『烈風カリン』の活躍では説明のつかない物が。そして国の要としての立場から、彼女を問い詰め遂に真相を聞き出す。ルイズが虚無である事も、そしてロバ・アル・カリイエからの怪しげなメイジ達の事も。
マザリーニからの提案に、思わず声を上げるアンリエッタ。
「またルイズを戦地に!?彼女は十分働きました!」
「分かっております。それでもなおです。本来は我が国の問題。ですが今のままでは、ゲルマニアの支援を受けざるを得ません。やがては戦後処理にも主導権を握られてしまうでしょう」
「それに対抗するためですか」
「はい。陛下お気持ちはわかります。ですが、ここは熟慮をお願いいたします」
「…………考えさせてください」
少し沈みながらも、うなずく。王の務めを果たさねばと、自らを戒めながら。
マザリーニはついでとばかりに、言葉を付け加えた。
「まあ、欲を申せば、ロバ・アル・カリイエの方々にも参加していただけると、ありがたいのですが」
「難しいでしょう。ルイズ自身も、手に余る方々と言っていましたし」
「ふむ……」
二人は渋い顔を浮かべていた。
もっとも今なら、ルイズ以上に依頼を聞いてくれたかもしれない。なんと言っても大問題を抱えていたので。お金の事で。
学院の広場のベンチに影三つ。魔理沙とアリスと文である。珍しく元気のない姿で、並んでいる。
「どうすんだよ」
「どうするって言っても……」
「借金頼むどころか、逆に怒らせちゃったろうが」
魔理沙がブツブツこぼしている。アリスもそれに疲れたように答えた。そして隣の烏天狗を、揃って見る。
「文が余計な事言うからよ」
「はは、つい口が滑っちゃって」
「誘導するのが新聞記者でしょ。逆やってどうするのよ」
「まさしくその通りでした」
「はぁ……。アンタ責めても仕様がないんだけどね」
アリスは溜息をつくように天を仰いだ。空は晴れ渡り、暖かそう。寒い懐具合とは真逆である。
すると視線に影が入った。彼女を覗き込む少女が一人。ベンチの後ろにいた。
「あら?タバサ?」
「立て替えてもいい」
「?」
一瞬何を言われたか分からないアリス。いや、それは他の二人も同じ。
もう一度、同じことを繰り返す。
「キュルケから聞いた。お金に困ってると。だから私が立て替えてもいい」
「本当か!」
思わず、身を乗り出す魔理沙。だが、すぐに妙な事に気づく。どうしてキュルケが借金の話を知っているのかと。
タバサが言うには、キュルケが直にルイズから聞いたそうだ。彼女は久しぶりに聞いたルイズの怒号に、思わず廊下に出る。そこで見かけた、追い出される魔理沙達。後からルイズが落ち着くのを見計らって、聞いてみた。すると愚痴を垂れるかのように、ぶちまけてきたと。
魔理沙達は経緯に納得しつつも、ルイズの機嫌を直すには一筋縄ではいかないとか思っていた。
タバサは、話を戻す。わずかに緊張した面持ちで。
「ただし条件がある」
「できる事なら、何でもするぜ」
「うさぎの人を、説得してもらいたい」
「鈴仙を?」
「治療してもらいたい人がいる」
「そういう話か」
魔理沙達は、タバサの要求を一も二もなく引き受ける。他に借金をなんとかする手立てもない上に、説得もなんとかなるだろうと思っていたので。さらにルイズの姉の治療を永琳があっさり引き受けたのを、アリスから聞いたのもあった。
ところでタバサだが、実は結構お金を持っている。シュバリエである彼女は給金をもらっていた。本以外にあまりお金を使う事がないので、かなり溜めこんでいたのだ。
さっそく行動に移る三人。鈴仙を半ば強引に説得。ただ彼女にできる事はカトレアと同じ、治療のための検体集めだけなのだが。
翌日。
ルイズの部屋に、ノックと共に今は聞きたくない声が届いた。魔理沙の声が。
「ルイズいるか?」
「…………」
部屋の主は返事せず。
「昨日は悪かった。借金の話は忘れてくれ、こっちでなんとかする。というか、なんとかなった」
「!?」
ルイズは少しばかり驚く。あの額がなんとかなったとは。その時、ふと頭に浮かんだのは偽造手形。
思わずドアを開けると、申し訳なさそうにしている三人がいた。そんな彼女達を前にしても、ルイズは相変わらず不機嫌そうだが。
「なんとかなってってどういう事?まさか偽造手形を……」
「違う、違う。タバサが立て替えてくれたんだぜ。条件付でな」
「…………そう」
「あのな、機嫌治せって。私らも悪かったって思ってるって。商売のこと話さなかったのはさ」
「…………。だったら……」
「だったら?」
「あんた達全員、私に貸し一つ!」
「ああ、いいぜ」
「なら、許してあげる。こっちも、考えなしに家名を貸しちゃったしね」
意外にサッパリしていたルイズ。魔理沙達は、とりあえず安心した表情を浮かべた。
ルイズ自身も、後になって考えると、落ち度が少々あったと思ったのだ。家名を使うというのに、用件をよく理解しようとしなかった事に。それに、いつまでもズルズル引きずっているのも、居心地悪いのもあった。幻想郷での生活のせいか、少し大ざっぱになったのもあるのかもしれない。
彼女はドアを大きく開けると、中へ三人を通す。
「それでタバサの条件って?」
「あの子の母親って体が悪いらしいの。それで永琳に、診てもらいたいそうよ」
アリスは席に座りながら説明。
「そうだったのね。でも、治療してもらえそうなの?」
「たぶんね。なんだったら、幻想郷に戻って直に頼んでみるわ」
「そう」
「という訳で、一度、彼女の母親に会わないといけないの。だから、例の招待の話は、もう少し先にしてくれないかしら」
「うん。分かったわ。急ぐような話でもないし。それにしてもタバサの母さまがねぇ……」
ルイズはタバサとは最近話すようにはなったが、学院関連以外の話はあまりしてない。キュルケならいろいろ知っているかもしれないが。
「で、どこ行くの?」
「ラグドリアン湖って所です。その畔に家があるそうです」
今度は文。
「ふ~ん。私も行っていいか、タバサに聞いてみようかしら」
「何故また?」
「ラグドリアン湖は昔行ったことあるだけで、久しぶりだし。それに鈴仙の治療も、一度見ておきたいもの」
「ああ、なるほど。お姉さんの治療しに来たんですもんね。鈴仙さん」
文はうなずきつつも、新たな取材ネタが増えた、なんて内心思っていた。
ともかくその後、ルイズはタバサに許可をもらう。週末を使って行く事となった。だが、ルイズが行くとなると、使い魔の天子、付き添いの衣玖まで付いて来た。一方、パチュリーとこあは行かない。何やら、やる事があると。おかげで週末旅行は大人数。まずはタバサ、彼女が行くならとキュルケ。ルイズに魔理沙、アリス、文、天子、衣玖。そして治療目的の鈴仙である。総勢9名。
だがタバサ。この時は言ってない事があった。そのいわくつきの由来がある実家についてと、さらに別に用件がある事を。
週末。ほとんどのメンツがラグドリアン湖への旅行へ行っていた。
人影の少なくなった廃村の寺院に残った二人。パチュリーとこあである。今は、アリスの部屋にいた。彼女達の向かう視線の先に、一振りの剣。デルフリンンガーと名乗る、錆だらけのなまくら刀だ。それを魔女は無表情で眺めていた。だが瞳からは、好奇心がにじみ出ていた。
本来、これはアリスのもの。しかし、パチュリーが許しをもらって調査する事となった。もっとも目的はアリスとは違うが。
パチュリーは椅子に座ると、剣に向かって話しかける。
「それで何か思い出した?」
「いいや」
「天子の時のまま?」
「ああ」
「う~ん……」
魔女は顎を抱えて考え込む。
デルフリンガーを握った天子が騒いだあの日。何かを、思い出しそうになったのだ。試しにもう一度天子に持たせようとしたのだが、彼女が嫌がったために、結局何も分からず仕舞いで終わった。
パチュリーは、隣に立っている使い魔に顔を向ける。
「こあ、あなたチャームの魔法、使えたわよね」
「はい。これでも一応悪魔ですから」
「催眠術みたいに使えない?」
「催眠術?何するつもりです?」
「記憶を取り出せないかと思ってね」
「ああ、なるほど」
こあは、催眠術にそんな使い方があると聞いたのを思い出す。
主は使い魔の様子に構わず、尋ねた。
「それで?」
「う~ん……。応用で似たような事、できるかもしれないですけど」
「なら、デルフリンガーにチャームをかけなさい」
「え!?剣に!?だいたい目がないじゃないですか!」
「見る事はできてるんだから、目はなくても視覚はあるわ。いいからやってみなさい」
「はぁ……」
こあはデルフリンガーに目を向けた。ちょっとばかり首を傾げながら。やがて、その目が淡い輝きを増す。するとデルフリンガーから声が漏れた。
「おお、こりゃぁ……」
その反応に、パチュリーとこあは魔法がかかったと思った。僅かに明るい表情を浮かべる二人。
「さて、デルフリンガー。あなた、こあの事どう思う?」
「ん?まあ、かわいいんじゃねぇか?」
「…………。リアクション薄いわね。チャームかかってないのかしら?」
「そんな事より、今の良かったな。少し腹が膨れた感じがしたぜ」
「腹が膨れた?あなたもしかして……魔法を吸い取ったの?」
「んー……。おー、そうだそうだ。俺は魔法を吸えるんだ。思い出した」
「思い出した……そう。なら、ちょっと試してみようかしら」
「何をだよ?」
パチュリー、返事をせずに、ただニヤリと笑み。嫌な予感が走るなるなまくら刀。
主と使い魔は、ぼそぼそと一言二言話すと、デルフリンガーから距離を置く。そして振り向いた。どこか楽しそうに。二人の様子に、デルフリンガーは天子の時と同じような不安に駆られる。あの問答無用というようなごり押しな空気を。
「おい!ちょっと待て、何するつもりだ!?」
だが質問に答えず、代わりに出てきたのは光る弾。それがパチュリーとこあの周りにいくつも浮いていた。
「なんだ、そりゃ!?おい!待て!」
だが返答は弾幕。一斉にデルフリンガーめがけて光弾が飛んできた。
「うわあああーーー……。あ!?」
当たって吹き飛ぶか、と思ったが痛くもかゆくもない。むしろ気分がいい。
一方、パチュリーとこあは、消えていく弾幕に見入りながら感嘆の声を上げる。
「すごいですよ。どんどん吸い込んでます」
「こういう力は初めて見るわ。紫のスキマとかとも違うわね。魔法自体を吸収するなんて。ちょっと興味が湧いて来たわ。アリスに譲ってもらおうかしら」
「アリスさん、まだ何もしてないですよ。さすがに、無理じゃないですか?」
「大丈夫よ。だってこれって、どう見てもガーゴイルじゃないでしょ。ガーゴイルじゃないなら手放すわ」
「そっか。あの人、人形研究のために買ったんでしたっけ」
雑談しながらも、光弾を打ち続ける二人。さすがのデルフリンガーも結構腹が膨れつつあった。
「ちょっと待て!ストップ!いつまでやるつもりだ!」
「ああ、ごめんなさい」
弾幕を止める二人。大きく息をつく錆刀。いや、呼吸はしないが。
「はぁ……。この前の娘っ子もだが、おめぇらメチャクチャだな。説明しねぇで事を始めるしよ。少しは相手の事考えろ」
「悪かったわ。あなたの反応、見てみたかったのもあったのよ」
「なんてぇ言いぐさだよ……」
紫寝間着のリアクションに呆れるしかない。だがふと、デルフリンガーは妙な違和感を覚える。今、吸った魔法に。
「ん?おめぇら……人間じゃねぇな」
「いまさら気づいたの?あなたを買ったのも、この前会った二人も人間じゃないわよ」
「ここは化物屋敷かよ」
「それで、何か思い出した?」
「応えねぇヤツだな」
なまくら刀の文句や皮肉に、相変わらずのマイペースぶりを続けるパチュリー。もう一言、二言文句を言ってやろうかと思っていたデルフリンガーだが、あまりに変わらぬ態度にどうでもよくなってきた。結局、彼女の質問に答える事に。
「ん~。あ、思い出した。そうだ、俺ってガンダールヴに使われてたんだわ」
「ガンダールヴ?虚無の使い魔の?もしかして代々のカンダールヴに使われてたの?」
「いや、なんていうか最初のガンダールヴっていうか……」
「初代のガンダールヴ?それはいつ頃?」
「えっと~……。6千年くらい前の頃のような……」
「6千年?それって始祖ブリミルがいたと伝わってる頃ね。何か関係あったの?」
「いや、分からねぇ……。あったかもしれねぇ」
「そう……」
パチュリーの視線が深くなる。
ガンダールヴに、始祖ブリミルがいた時代。どうもこの剣はとんだ拾い物らしい。もしかしたら虚無に関わる情報を、握っているかもしれない。魔女は、わずかに笑みを湛えていた。
「今のガンダールヴに会えたのも、そんな過去があったからかもしれないわね。もしかしたら、ガンダールヴに出会える能力とかあるのかしら?」
「今のガンダールヴ?誰だ、そりゃ?」
「この前会ったでしょ。あなたが電撃喰らわした子よ」
「だから、そんな能力ねぇって。え?あの娘っ子?」
「そうよ」
「そうか?いや……。言われてみれば、ガンダールヴのような気もするな。けど、なんか妙な感じだ。シックリこねぇって言うか……」
「シックリこない?理由に、心当たりある?」
「一瞬しか触ってないからな。なんとも言えねぇ。勘違いかもしんねぇし」
「…………」
少しばかり考え込むパチュリー。天子のルーンが欠けた事と、何か関係あるのかもしれない。
だが今、答えが出るはずもなかった。やがて、デルフリンガーも魔法の吸収し過ぎという事で、今回の調査はお開きとなる。
アリスの部屋を後にするパチュリーは上機嫌。ともかく、面白そうな素材が手近にあるのだから。これから楽しくなりそうだと。
気持ちを切り替えると、もう一つの興味の事を思い出す。
「そうそう。こあ」
「はい?」
「星の観測の方はどう?」
「双月の軌道周期は出せました。でも、とんでもなく早いですよ。正直、異常って言ってもいいくらい」
「やっぱり実体じゃないのかしら。後は?」
「えっとですね……。惑星が見当たらないんです」
「惑星がない?」
「外惑星だけですが。それに、まだ太陽の裏側にあるかもしれませんけど」
「一応、内惑星も探してみて」
「はい。それと星見てて思うんですが、なんか作り物っぽいんですよね」
「…………。とりあえず、観測を続けて」
「はい」
こあの作り物という台詞を聞きながら、パチュリーはふと思い当たる事があった。図書館に通い詰めていたが、不思議と星に関する本がほとんど見られないのだ。あるのは精々文学、芸術のテーマとしての話ばかり。
「また、コルベールに話を聞いてみようかしら」
自分の部屋に戻りながら、ポツリとつぶやいた。上機嫌な雰囲気は消え、すっかりいつもの魔女に戻る。だが、面白いネタがいっぱい手に入ったとばかりに、その声はわずかに弾んでいた。
ルイズとキュルケは、その立派な門の前で神妙な顔つきになっていた。正確には紋章を目にして。傾いた夕日に照らされたそれに。
ここはタバサの実家。彼女の母親を診るという事で、やって来たのだ。幻想郷の一行共々ぞろぞろと。ラグドリアン湖の畔の屋敷という事で、観光半分な気分もあった。しかしそんなものは今、吹き飛んでいた。少なくともルイズとキュルケは。
紋章は明らかに、ガリア王族、オルレアン家である事を告げていた。そして紋章に印された不名誉印。この家に何か大きな不幸があったのだろうと、簡単に推測できた。思えば彼女のタバサという名前自体も不自然だった。ここには、何やら触れてはいけないものがあるのでは、という気にすらさせられる。緋色に染まり影を伸ばす紋章を、どこか悲しげに感じる二人だった。
キュルケは先に進むタバサに声をかける。少し遠慮したような声色で。
「えっと……来て構わなかったのかしら?」
「かまわない」
意外にしっかりした返事。その答えにキュルケは、胸がわずかに熱くなる。つまり、彼女が自分をそこまで信頼していると。わずかに笑みを漏らす。もっとも、おまけが大量にいての話なのは、ちょっと複雑な気持ちだったが。
客間に一同が通される。タバサの側に立つのは、執事の。この屋敷の数少ない使用人で、留守を任されている人物だ。
「ペルスラン。後をお願い」
「かしこまりました。お嬢様」
タバサは立ち上がると、玉兎の方を向いた。
「ミス・鈴仙」
「はい?」
「いっしょに来て」
「あ、はい。患者さんの所ですね」
鈴仙は持ってきた道具入れを持って、タバサの後に続こうとする。すると、ルイズも立ち上がった。
「私も付いて行っていい?鈴仙が治療するの見てみたいし」
「ダメ」
「なんでよ?いいでしょ?私の姉さまも治療受けるから、参考にしたいのよ」
「ダメ」
無口なタバサにしては、やや語気に力のある拒絶。少しばかりムッとするルイズ。だいたい鈴仙は、元々ルイズの姉の治療のために来たというのに。
一言返そうかとした所に、ペルスランの制止が入る。
「ヴァリエール様。ここはご容赦をお願いいたします」
「だって!」
不満の収まらないルイズを、今度はタバサが止める。
「理由は話す。ペルスラン、お願い」
「お嬢様!?いえ……かしこまりました」
ペルスランは一瞬、驚きの表情を浮かべたが、主のその顔を見て、全てを理解する。そもそも彼女がこの屋敷に客人を連れてきたという事からして、最初からそのつもりだったのだろう。執事は覚悟を決めると、客人の方を向いた。ルイズの方も少々不満ながらも、席に戻る。やがてタバサは部屋を後にした。
彼女のいなくなった応接室で、ルイズ達はこの家の不幸を執事から聞く。
ガリアは前王崩御の後、王位は円満に継承された。にもかかわらずタバサの父は謀殺される。そして母まで毒で狂わされた。さらに母を人質に、タバサも不当な扱いを受け、汚れ仕事を押し付けられている。年齢に見合わぬ彼女のシュバリエの称号。それはその汚れ仕事を単独でやらせるための、大義名分に過ぎなかった。
ルイズとキュルケは思わず義憤に駆られる。タバサを不幸に落とし込んだ、張本人に。ガリア王ジョゼフに。
各国で無能王と陰口を叩かれる彼。ガリアを動かしているのは、実際には臣下で彼は何もしてないとすら言われている。ただ若隠居を決めた能無し王と思われたが、それがこれほど残酷な性格をしているとはと。
ただその時ルイズは理解した。さっきタバサが拒絶したのは、毒に犯された母親を見せたくなかったのだと。病身な身内を持つもの同士。公爵家という立場の近さもあるのだろう。不思議とタバサに親近感が湧いていた。
そんな二人の様子を見ながら、ペルスランは奇妙な感慨を受けていた。母が狂って以来、あれほど心を閉ざしていたタバサに、こんな友人が出来ていたという事に。何かが変わるかもしれない、という予感が浮かんでいた。
長い廊下の一番奥、その部屋はあった。
慎ましいながらも整然とした扉は、貴人の部屋である事を連想させた。タバサはノックをするが、返事は帰ってこない。いつもと変わらない状態に、彼女は唇に力を込める。だがこんな有様は分り切った事だ。タバサは、息を整えると、ノブに手をかけた。
「入って」
「はい」
鈴仙は案内されるまま、部屋へと入っていく。二人を迎えたのはベッドで横になる、女性だった。顔色の悪い、痩せた、異様な目つきの女性だった。
タバサは女性に向かって頭を下げる。
「母さま、ただいま帰りました」
「だ、誰ですか!」
「…………」
「王家の回し者ね!この子は、シャルロットは絶対に渡しません!」
震える声で怒声をタバサに浴びせた。その手にあるボロボロの人形を、大切そうに抱えながら。長い髪のスキマから覗く瞳には、憎悪が窺える。
一方で鈴仙。部屋に入ったままの状態で突っ立っている。口を半開きにして。ただただ唖然。一つだけ分かっているのは、目の前の女性がまともではないという事だけ。
「あ、あの……。これはいったい……?」
「母は、毒を飲まされ狂わされた」
タバサは、つぶやくように一言で答える。
納得する月うさぎ。経緯は分からない。だが彼女にはこれで十分だった。目の前の女性が自分の娘すら分からなくなっているほど、毒に犯されていると理解するのは。
実の母の罵声を浴びながら、タバサは隣に立っている人外の方を向く。その瞳にいつもはまず見ない、どこか縋るような弱々しさが浮かんでいた。やがて声を絞りだす。祈るように手を組んで。
「母を……母をお願いします」
「はい」
月の玉兎は、大きくうなずいた。力強い答えだった。
「でもこれでは、ちょっと治療ができませんから……」
鈴仙はゆっくりと、タバサの母に近づいて行った。
「な、なんですか!下がりなさい!無礼者!」
「大丈夫ですよ。何もしませんから」
その時、鈴仙の赤い目がさらに紅く輝き、光を灯す。
「うるさい!下がれ!下がれ!さが……」
母の声が途切れる。思わず、タバサは彼女の側に寄った。
「母さま!?」
彼女は体をベッドに臥せていた。だがすぐに身を起す。
「あら……シャルロット?」
「!?」
耳に届いた声に、タバサは言葉を失った。今のは、確かに自分にかけられた声だ。毒に犯されてから、そんな事は一度もなかったというのに。
茫然としているタバサを他所に、彼女の母はタバサを抱き寄せる。
「どこに行っていたのですか?心配したのですよ」
「母……さま……」
見上げた先に母の笑顔があった。何年ぶりかの。あの日以来の。まさしくそれは、いつもタバサの心にある笑顔だった。
タバサは思わず抱き着いていた。母の胸に。忘れかけていたその身に。
「母さま!母さま!」
「私のかわいいシャルロット。もうずっと側にいるのですよ」
「うん!」
もうそこからは声にならなかった。ただただむせび泣く声と、涙があふれていた。そんな二人を見て、鈴仙の赤い瞳も少しばかり潤んでいた。
ほどなくして落ち着くと、タバサは鈴仙の方を振り向く。
「ありがとう」
涙声で出てくるその言葉。だが鈴仙は困ったような顔を返す。
「あのぉ……。水を差すようで申し訳ないんですが、治った訳ではありませんので」
「え!?」
「実は私、幻術が使えるんです。それでお母さんに、幻覚を見せてるんです」
「そう……」
肩を落とすタバサ。
まだ母はここにいる娘を見ているのではなく、記憶の中の娘を見ているのだと。幻覚によって自分を、記憶の中の自分と混同しているだけなのだと。だが、それでも母の笑顔を見られたのだ。今までどんな手をつくしても、見る事のできなかったものが。
「それでもいい。ありがとう」
タバサは涙を拭くと、あらためて礼を言った。
やがて鈴仙は、道具箱をベッドの側まで持ってきた。
「では術が解けない内に、やっちゃいますか」
あらためて幻術を掛ける。今度は彼女の母を眠らせた。
その寝顔は幸せそう。タバサは笑顔を浮かべる。もしかしたら家族でいっしょに寝た頃の幻覚を、見ているのかもしれない。
鈴仙は道具を取り出すと、髪と血液の採取を行った。そしてタバサに頼みを一つ。
「えっと、これに軽い固定化をかけてもらえないでしょうか?」
「固定化を?」
「はい。簡単な魔法で解けるような」
「分かった」
検体の保持である。冷凍せずにできるのだから、非常に便利だったりする。
ともかくこれで終了。やった事は治療の事前準備にすぎない。だが治療をするのは、月の英知、永琳である。鈴仙は大船に乗った気でいいと胸を張る。もっとも永琳が、頼みを聞くかという問題が残っているのだが。
描写面ちょっといじりました。