Eismeer   作:かくさん

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1940年 バルト海 氷の海12

「今はスオムスの、いや、顔色が悪いな、座っていればいいさ」

 

彼女は答礼してビューリングと名乗り、会話を中断して私に着席を促した。

特に他に何か言うでもなく部屋の奥へ進むビューリング少尉を見て、私は脱力して腰かける。

窓際まで移動したビューリング少尉は、窓枠に背中を預けると、胸元のポケットから何か取り出す。それは小箱であった。小箱は緑地に赤い丸が描かれており、詳しくない私には産地銘柄まではわからなかったが、整備員が持っていたのを見た記憶に思い至り、紙巻煙草のパッケージであると理解する。

ビューリング少尉はその中から一本取り出し、しなやかな指で弄ぶ。頭の部分を小刻みに叩き、顔の手前で眺めていたりしている、どことなく、吸うことを逡巡しているようにも見えた。パッケージを振ってみた後は、どこか不満げに眉を寄せた。

やがて、結論が落ち着いたのか、私に目を向けてくる。

 

「吸っても?」

 

聞きながら、煙草を保持している側と反対の手は、すでにブリキ缶を窓枠に預け、ライターを準備している。

 

「どうぞ」

「どうも」

 

私は首肯し、ビューリング少尉は確認するなりくわえた煙草に火を灯した。

紫煙がゆっくりと立ち上る。ビューリング少尉が深く息を吸うと、先端にある燈色の輝きが増し、紙で巻かれた葉を徐々に焦がしていく。

私にはわからない感覚ではあるが、味を楽しんでいるのか、吸い込んだ空気をため込むように間を置くと、深いため息のように吐き出した。

白く薄い煙を天井に向けて吐く様子は満足げにも見えたが、ビューリング少尉の表情は退屈そうで変化を見せないままであった。

もう一度、同じ動作を繰り返すと、煙草の長さは初めの七割ほどになる。

不意にビューリング少尉は煙を吐き出すでもなく、煙草を口から離した。

 

「アンタ、さっき届いた輸送物資の護衛だろう?」

 

聞く口調には遠慮がない。

ともあれ、私も目くじらを立てるほど気難しくはなかった。先ほどと同じく首肯する。

 

「ええ、確かにそうですが」

「今回の糧食に紙巻煙草はないか? よければ譲ってもらいたいんだが」

 

この通り、という具合にパッケージを振る。どうやら空になってしまったらしい。

喫煙者にとっては火急の要件かもしれない、私にもビューリング少尉の窮状を理解することはできた。

といえども、今の私にはどうしようもない話ではあるのだが。

 

「今回の輸送に関しては弾薬等必要物資が優先されております。嗜好品の類は申し訳ありませんが」

 

謝罪と断りを述べると、ビューリング少尉はなるほど、と頷く。

すると、そのまま最後の一本であろう手元の残りを、惜しむでもなく一気に吸いきってしまった。フィルタだけになった吸殻をブリキ缶の中に放り込む。自由になった手で胸元のポケットをまさぐり始めた。

 

「仕方ないな、スオムスの銘柄はあまり好みじゃないんだがね」

 

残念そうにつぶやくビューリング少尉の手には新しい銘柄のパッケージが一つ。彼女が言うようにスオムスの銘柄なのだろう。早速、中身を一本取り出すと、くわえて火を点ける。

そんな意図はないのだろうが、少しばかりからかわれたような気分だ。

 

「ところで、医者にかかるのは嫌いなのか? さっきから具合が悪そうだが」

 

一口目を吸うと問うてくる。好みでないという割には、煙を吸った表情は先の銘柄と変わらぬように見えた。

しかし、見た目からは冷淡な印象を与える人物だが、会話を避けているわけではないようで、私は何の気なしに返答する。

 

「医務室は混みあっておりましたので、私が軍医殿にかかるのは気が引けてしまいまして」

「それでこの部屋に行きついたのか、カールスラントのウィッチはずいぶん我慢強いんだな」

「いえ、休憩できる場所があれば、それで十分ですので」

「なるほど」

 

ビューリング少尉は頷き、再度紫煙をくゆらせる。私は天井へ延びるそれを視線で追った。

彼女は煙を吐くと言葉を続ける。

 

「休む場所は他にもあったんだがね、ここが休憩室に見えたのなら納得だ」

 

私は彼女の言い回しに引っ掛かりをおぼえる。まったく難解でなく、理解するのには一瞬あれば十分であった。今度は私が頷く。

なるほど、ここは休憩室ではないらしい。

ブリタニアらしい皮肉った言い回しでようやく気がつくとは、私もずいぶんとぼんやりしている。

ビューリング少尉は嘆息する。

 

「仮設とはいえ、うちの中隊の指揮所なんだが……トモコの奴め張り紙を忘れたな」

「失礼しました、私の不注意です」

 

私は彼女が言い切らないうちに、すぐさま立ち上がり頭を下げた。

他国の軍施設で無断侵入とは、後々大問題を誘発しかねない。分かったのならば、すぐに立ち去って上官にエスカレーションだ。

早くも再発しつつある胃痛をこらえて、出入り口の扉に目を向ける。すると背後から声がかかった。

 

「だから座っていればいいと言ったんだ、別にうちの指揮所に入ろうが誰も文句なんて言わんよ」

 

ビューリング少尉の言葉に振り返れば、彼女の表情に変化が見受けられ、両の眉をほんの少しずつそれぞれ上下に固定され、困った、といった具合の表情になっている。

見た限りは、私が立ち去ることはビューリング少尉の本意ではないように感じる。

ビューリング少尉は私を引き止めたまま、扉を指さした。

 

「まあ、その席を使うなら、後ろの奴に一声かけた方がいいかもしれないな」

 

その言葉に、扉を向いていると思っていた、彼女の指す方向を目で追いかける。

いつの間にか、扉の内側に誰かが立っていた。

開閉した気配など全く感じなかったが、すでに閉め切られた扉を背に、またもや少女が立っている。

色素の薄い金髪をボブカットにした小柄な少女だ。小さくまとまった顔の輪郭に対して、大きな眼鏡が特徴的である。辞書ほどの厚みのある本を両手で抱えながら、感情の籠らない目で私を見つめていた。ビューリング少尉の気だるさを含んだ表情の乏しさとは別種の、本当に感情が読み取れない無表情である。

ビューリング少尉が何も言わなかったのなら、幽霊でも出たのかと思ってしまいそうな存在感だ。

少女は何も言わず、身じろぎ一つしない、そのため無言のまま見つめ合うことになる。軍服、階級章を見るに、カールスラント空軍の下士官なのだが、敬礼はおろか会釈もないため動きようがない。

数秒そのままでいると、彼女の視線は私に向けられている訳ではないことに気がついた。目が向いているのは私の下、彼女は私が座る椅子を注視していたのである。

 

「その椅子はハルトマンの読書スペースだ」

 

様子を見ていたのかビューリング少尉が注釈に入る。

 

「体調がよくないらしい、座らせてやってもいいか」

「別に、本が読めるならどこでも構わない」

 

ビューリング少尉は続けて少女へコンタクトをとった。少女はごく小さく頷き、抑揚のない声色で承諾する。

やはり感情を読み解くことはできなかったが、私はひとまず礼を言う。

 

「第七十七戦闘航空団、第四飛行中隊、ハインリーケ・エールラー少尉だ。感謝する」

「ウルスラ・ハルトマン軍曹です、お気になさらず」

 

少女は頷くとハルトマンと名乗り、最寄りの椅子に腰かけると本を開いた。私やビューリング少尉を気にする素振りもなく、視線は文面を追いかけるのに固定されたと見える。あとは黙々とページをめくるだけになってしまった。

私はハルトマン軍曹が読書する様子を横目で眺めていたが、一つ疑問に思う。

はて、カールスラント空軍にスオムスで活動中の部隊はいただろうか。

情報封鎖中の特務部隊所属でなければ、少し考えるだけでわかることでしかなく、私は彼女の所属を推測し始める。

特に集中を要することでもないのだが、扉の外から聞こえてくる喧騒がやけに耳についた。内側にある音は、煙を吐き出す呼吸、ページをめくる紙ずれ※、小さくはぜる薪、三つだけだ。扉を挟んでいるだけでまったく別の場所に移動したように感じる。

私は落ち着いた空間だけに意識を向けるよう心掛け、思考を続行しようとした。

ところが、結論を言えば、それは無駄な試みに過ぎなかったようだ。

記憶と照会を開始したあたりで、外側からかすかに届いていたドタバタとした喧騒が近づいてくるのがわかったためである。誰かが駆け足でこちらへ向かってきているようだった。断続的な足音に若干ながら、集中に乱れが生じる。

ちらと廊下の方へ視線を向ける。ハルトマン軍曹の所属をめぐる思考は、次の瞬間に完全に中断された。

蝶番を破壊せんばかりの勢いで、扉が開け放たれたのである。

 

「ごきげんよう! お部屋は温まってまーすかー!」

 

快活な声を響かせながら飛び込んできたのは、リベリオンの軍服をまとった人物だった。声と同じく陽気な笑みを満面に浮かべた少女である。後ろ手にまとめた金髪と、軍服を内側から大きく持ち上げる胸部が目を引く特徴だった。

それなりの距離を走ってきたのだろうか、頬が若干上気しているのが見てとれた。彼女は腰に手をあてて、けらけらと笑っている。

私は呆気にとられつつも彼女が何者か観察していたが、開けっ放しの出入り口の向こうから、もう一つ足音が近づいてきていることに気がついた。

それはパタパタと、重量感のない足音に聞こえた。

 

「ろ、廊下は……走っちゃだめですぅ!」

 

息を切らした声は、これまた少女のものだ。女の子らしく軽やかではあるが不規則な、苦しげに聞こえる足音をともなってやってきたのは、スオムスの軍服をまとった少女である。薄い透き通った色の金髪は前髪が短く揃えられ、色白な肌は駆け足によって熱を帯びたのだろう、ほんのりと朱色を透かしているのがわかった。

 

「でもでも走らないと温まらないよー! さっむいねー!」

「それでも走っちゃだめなんです! トモコ中尉に怒られちゃいますよ!」

「トモコもハルカと追いかけっこしてるね、みーだけダメなんでーすか?」

「た、たしかに、そう言われるとそうかも……」

 

駆け込んできた二人は扉の前で言葉を投げ合う。元が静かな部屋であっただけに、余計に騒々しく感じる。突然のことで私の意識の大半は、新たな来訪者の二人へ向けられたが、ビューリング少尉とハルトマン軍曹はほとんど我関せず、何もなかったかのように紫煙を味わい、本のページを進めていた。

自然と視線を向けていると、言い合う二人のうち、初めにやってきた方が私に気がつき、目が合った。

おや、と首をかしげてくる。

 

「ユーはどちらさまねー?」

 

誰何の声が飛んでくる。ややあって対面するもう一人の少女も私の方へ視線を向けてきた。

視線が私へ集中する、当然ながら私が問いに答えようとすると、それよりも先にビューリング少尉が煙を吐きがてらに返答してしまう。

 

「カールスラントからのお客人だ」

 

聞くなり、陽気さを前面に押し出した顔が、パッと明るさを増したような気がした。

 

「OH! お客さんね! 握手お願いしまーす!」

 

彼女はそのまま私の手を握り締める。少し汗ばんだ手は心地よい程度の温かさであった。

 

「ミーはリベリオン海軍から来たキャサリン・オヘア少尉でーす! ワッツユァネーム?」

「か、カールスラント空軍のハインリーケ・エールラー少尉です」

「ユーも少尉ね! おそろいでーすね! コーラ飲みますかー?」

「いえ、お構いなく」

「OH、残念ねー」

 

オヘア少尉と名乗った彼女に、癖のあるブリタニア語でまくしたてられつつも、私は何とか所属と階級を合わせて名乗ることができた。独特な勢いに気圧されるが、オヘア少尉は満面の笑みをたたえ、雰囲気は至極友好的であった。

一方、もう一人の少女は、頭をかきながら笑うオヘア少尉の後ろで、あたふたと何か行動を迷っている様子であった。

私が視線を向けた拍子に目が合うと、観念したように私の前へ進み出てくる。

 

「カールスラントからの、お、お客様ですよね? スオムスのエルマ・レイヴォネン中尉です。遠路はるばるようこそおこしくださいました」

 

深々と礼をする彼女はレイヴォネン中尉と名乗った。おどおどとした雰囲気をまとっているように見えたが、私よりも階級は一つ上である。

 

「カールスラント空軍のハインリーケ・エールラー少尉です」

「まあ! カールスラントの士官さんなんですね、やっぱり何かおもてなしをしなくちゃ……ええと、ケーキはお好きですか?」

「いえ、お構いなく……」

 

他国とはいえ、自分よりも階級が下の者にそこまで気を使うことはないのだが、レイヴォネン中尉は私の前にテーブルを引っ張り出し、どこから取り出したのかクロスを引き始める。恐縮せざる負えないかいがいしさであった。

 

「エルマ中尉、エールラー少尉は体調が優れないらしい」

 

割り込んできたのは、本からまったく目を離さずに発せられたハルトマン軍曹の声だった。せわしなく歩き回っていたレイヴォネン中尉は、ピタリと動きを止める。

 

「あああ……すみません、私ったらエールラーさんのことも考えずにこんな……」

 

ぐすりと、レイヴォネン中尉が鼻をすする音が聞こえた。私は中尉の目元に涙が溜まっているの見つけるなり、首を振って否定した。

 

「お気になさらないでくださいレイヴォネン中尉、お気づかいには本当に感謝しています」

「……本当ですか?」

「ええ、本当ですとも」

「エールラー風邪ひいてるね? コーラを飲めばそんなの吹っ飛ぶよ!」

「遠慮させていただきます」

「オーマイガ! そういやコーラはカウハバに置いてきたね! ソーリィ!」

 

正直なところ、会話しながら私は混乱していた。会話そのものに混乱をきたしていたというのもあるが、それ以上にこの部屋にいる面々の所属について思い至るものがあった、という理由が大きい。ブリタニア、カールスラント、リベリオン、スオムスと、それぞれ所属の違う人員が集っており、ビューリング少尉は「うちの中隊の指揮所」と語っていた。

スオムスにおいて前線配置されたウィッチによる多国籍部隊、となれば結論はすぐに出てくた。

彼女らは英雄部隊である『スオムス独立義勇中隊』なのである。

私は軽く興奮をおぼえた。

世界で初めてディオミディアを叩き落とした部隊が、私の目の前にいるのだ。

レイヴォネン中尉とオヘア少尉の独特のペースに飲まれつつも、私は自分の頬が熱をおびてきているのを感じていた。

 

「ちょっと、扉も開けっ放しでどうしたのよ、寒いんだから風邪ひかないように気を付けないとだめよ?」

 

開いた扉をノックする音と、凛とした声が聞こえたのはそんな時であった。

私を含めた一同の目が扉の方へ向けられると、そこには黒髪の少女が後ろ手で扉を閉める姿があった。ウィッチの部隊指揮所だけあって、ここにやってくるのは皆少女ばかりだ。

新たな少女は長く、艶やかな黒髪を腰のあたりで揃え、大きくも釣り目がちな意志の強そうな眼差しを持っていた。装いは扶桑の、さらに陸軍ウィッチの伝統衣装である。

彼女はビューリング少尉が煙草をふかしているのを見つけると、腰に手をあてて眉尻を吊り上げた。

 

「指揮所は禁煙だっていっつも言ってるでしょう」

「張り紙がないからわからんよ、隊長殿」

「まったく、それ吸い終わったらやめにしなさいよ」

「了解」

 

降参、という具合に両手を挙げたビューリング少尉の態度に、少女はため息をこぼす。

顔を傾けた拍子にようやっと私とも目が合った。凛とした真っ直ぐなまなざしが私の視線と交わる。

どうも、彼女は普通ではない何かを持っているようであった。私は言いようのない圧のようなものを感じて、目を見開く。

思わず、立ち上がって挙手の礼をとる。この雰囲気には覚えがあった。ルーデル大尉と初めて対面した際に感じた空気に近い、エースがまとう気配のようなものである。

衝動的な私の敬礼にも、自然体で答礼すると、彼女は小首を傾げて問うた。

 

「どちら様?」

 

答えようとすると、またもや誰かの声が割り込んでくる。今度はレイヴォネン中尉だ。

 

「ええ、カールスラントからのお客様だそうで」

 

先ほどのことからだが、私はお客様と呼ばれるような身分でも立場でもない。どうもこの場にいる面々の中ではそのまま定着してしまったらしく、優れたエースであろうウィッチに対してもその呼び方なのは恐縮する次第である。

そんな私の胸中を知るはずはないのだが、ビューリング少尉が察したようにレイヴォネン中尉の言に付け足す。

 

「カールスラントからの輸送部隊所属のウィッチだ、体調不良らしく席を貸してる」

「失礼しております、カールスラント空軍、ハインリーケ・エールラー少尉です」

 

私も便乗するように名乗ると、少女は合点がいったように手を打った。

 

「あらそうなの、いつも助かってるわ。私は扶桑陸軍航空隊の穴吹智子中尉、今は独立義勇中隊の隊長をさせてもらってるわ、よろしくね」

 

穴吹中尉と名乗り、右手を差し出す。私は若干の緊張をてのひらに滲ませながら、その手を握った。

優しく、柔らかな感触を知覚すると、穴吹中尉はにこりと微笑む。

 

「さて、お茶でも淹れましょうか、扶桑茶は飲んだことある?」

「いえ、そこまでお手数をおかけする訳にはいきません」

「いいのよ、気にしないで。いつもお世話になってるのは私たちなんだから、ね?」

 

可愛らしく小首を傾げる穴吹中尉に座っているよう促され、私は結局もとのままに席へと戻る。

鼻歌を歌いながら支度をする穴吹中尉は、少女らしい見た目相応の年齢に見え、独立義勇中隊を率いる指揮官には見えない。しかし、空に登れば圧倒的な実力をもってネウロイを打ち破るのだろう。

私が羨望を交えた目線を穴吹中尉の背中に送っていると、音を抑えた声がかすかに聞こえてくる。

 

「やっぱり怖いくらいに機嫌がいいねー」

「どうせイトカワのことだろう、暖房いらずだな」

「何か言った?」

「んーん、言ってないねー」

 

私には何のことかさっぱりであった。

やがて、支度を終えた穴吹中尉がマグカップを持ってやってくる。緩やかに立ち昇る湯気、受け取ったカップの中には透き通った新緑色の扶桑茶が入っていた。

 

「さ、どうぞ。口に合うかはわからないけどね」

 

促されるまま、礼を言って口に含む。

緩やかな苦みとともに、優しい甘みが口に広がるのを感じた。温かいそれを喉を通すと身体の内側が暖められてくる。緊張がゆるんでほっと息が抜けていく。

穴吹中尉は気を抜いてしまった私を見て、満足げに頷くと、人数分のカップに扶桑茶を注いでいく。

 

「みんな、体を冷やさないように飲んでおきなさい」

 

各々礼を言いつつ自分のマグカップを手にすると、穴吹中尉は首を傾げた。

 

「ハルカは?」

「そういえば、朝から姿が見えませんね」

「ああ、もしかして……昨日のアレを引きずっているのかしら……」

「ワッツ? 昨日のアレって何ね? まさかトモコ、またハルカに」

「まま、またって何よ!? 何もない、何もないわ!」

 

彼女らの会話の中身は、部外者たる私には理解できないものもある。

穴吹中尉はコホンと咳払いをして、自分のカップを持ってくると、私の前に座った。何かあるのだろうか、私は内心首をかしげて身構えてしまった。

 

「そんなに緊張しないでちょうだい、別に何もしないわよ。ただの雑談なんだから」

 

穴吹中尉は扶桑茶を一口含み、また優しく微笑む。

するとオヘア少尉が何事かつぶやくのが耳に届いたが、よく聞き取ることができなかった。かすかに、らしくないね、と聞こえた気がするが、定かではない。

 

「あまり詳しくなくて申し訳ないんだけど、エールラー少尉はいつもはどの辺りを飛んでるの?」

 

オヘア少尉の声に気付かない素振りで、穴吹中尉は問うてくる。雑談とはいえども、内容はやはり前線のウィッチらしいものだ。私は頷きつつ今日、飛行してきた航路を簡単に語る。

 

「リバウ港からバルト海を渡っております。ルートは海上ビケットラインからの報告によって調整がありますが」

 

カップに口をつけたまま、穴吹中尉が少しだけ目を丸くする。

 

「直接海を渡ってるの? 履いているのはメルスでしょ? 航続距離も短いだろうに、よくやるわね」

「リバウってどこねー?」

「バルト海の端、ここから南に約400キロメートル」

 

感心したという様子の穴吹中尉の横で、オヘア少尉の疑問にハルトマン軍曹が回答する。オヘア少尉はオーバーなリアクションで驚きを表現する。

 

「マイガー! こんなに寒いのに、そんなに遠いところから来てるね!」

「やっぱりそんな遠路はるばる、ありがとうございます」

「恐縮です、頭を上げてください」

 

またもや深々と頭を下げ始めるレイヴォネン中尉のお礼を固辞する。

 

「ま、帰路もあるだろうし、出撃までそんなに時間があるわけじゃないけど、ゆっくりしていってね」

 

穴吹中尉の微笑みに、返礼しつつ頷く。

一方で、優しい言葉の中で一つだけ、私の耳に飛び込んだきり存在を訴えてくる単語があった。それは、出撃、の二文字であった。

これまでの温かな空気に、どこか別の部隊の話であるように感じていたが、彼女たちは『あのスオムス独立義勇中隊』なのである。目の前にいるウィッチたちは、英雄と呼べるだけの功績を携えているのだ。

務めて表情に浮き出ないように辛抱していたが、再度、私の中に興奮が浮き上がってくるのを自覚した。

 

「ディオミディアを倒したばっかりなのに忙しいねー」

 

穴吹中尉の言葉を聞き、うんざり、と言いたげなオヘア少尉がぼやく。こんなタイミングで、つぶやかれた彼女の言葉は、私の好奇心に火を点けるのに十分であった。

そういえば、と私の口から漏れ出てくる。

 

「皆さんはディオミディアを初めて撃墜したと聞いています、よろしければ、どうやって撃墜したのか、その時の話をお聞かせ願えませんか」

 

思わず、まくしたてるような早口になってしまう。しかし、唐突に挟み込まれた私の問いに、どのような答えが返ってくるのか、そんな期待だけが私の中にあった。

私は彼女たちの返答を待った。

ところが、期待に反して、答えはなかなか返ってこない。内心で首をかしげつつ、様子をうかがうと、皆、悩んでいるような表情をしている。

やがて、難しい表情ながら、口火を切ったのはオヘア少尉であった。

 

「ウルスラのロケット砲のおかげねー」

 

ロケット砲、という至極断片的な情報がもたらされる。しかし、ハルトマン軍曹はその小さな情報に対して、無表情に首を横に振る。

 

「ロケット砲だけで落とした訳じゃない、あなたが前面にいなければ近づけなかった」

「何言ってるね! ミーはシールドを張ってただけよ、それを言うなら支えてくれたエルマ中尉のおかげね!」

 

唐突に話を振られたレイヴォネン中尉は勢いよく首を振って否定する。

 

「私のおかげなんて! そんな訳ないじゃないですか、機銃を破壊したのはハルカさんですし、そもそも最後はトモコ中尉が落としてたじゃないですか!」

 

さらに、レイヴォネン中尉の視線は穴吹中尉に向かう。穴吹中尉はひらりと手を振ると、やはり否定の言葉を口にする。

 

「私は止めを刺しただけで大して何もしてないわ、後から遅れてきただけよ」

 

誰からも肯定の言葉が出てこない、細切れの情報だけが浮かんでは消えていく。私には何が何だかさっぱりわからない有様であった。

見かねたように口を開いたのはビューリング少尉だ。手元のブリキ缶に最後の吸殻を放り込んで言う。

 

「こういう妙なチームワークが功を奏したわけだ、私はその中に入っていなかったがね」

「そんなことありません! ビューリング少尉がいなかったら私たち、ずっとまとまりませんでしたもの!」

 

達観したような無感情を顔に張り付けたビューリング少尉に、早速、異を唱えるのはレイヴォネン中尉である。オヘア少尉が頷いて、中尉の意見を後押しする。

さすがのビューリング少尉も、それには耐えかねたのか肩をすくめて明後日の方向へ顔を向けた。

ディオミディアをどのようにして撃墜したのか、一言たりとも漏らさず聞き取る心づもりだったが、結局私には理解することができなかった。断片的情報が飛び交っているのでは、何があったのかは当事者同士にしか共有することはできない。

けれども、情報にまとまりがなくとも、独立義勇中隊の不思議な連帯感を垣間見ることはできた気がする。ビューリング少尉が言うように、こういった『妙なチームワーク』がディオミディアを地に叩き落とした原動力なのだろう。

 

「皆さんは、ディオミディアと戦うことに躊躇いはなかったのですか?」

 

私は先の質問を自分なりの解釈で飲み下し、もう一つ、欲張ってみることにした。身体の調子は決して良好とはいえないままであったが、もしかすると、にぎやかな彼女たちの空気に染められたのかもしれない。

思い思いの言葉が飛び交う会話に、私の問いが舞い込むと、レコードが止まるかのようにかしましい喧騒が静まった。

私は水をさしてしまったか、と少々の後悔を抱きながら、返答を待つことにする。

すぐに反応したのはレイヴォネン中尉であった。彼女は身震いしながら、自分の肩を抱きしめる。

 

「とっても……怖かったです」

 

レイヴォネン中尉の口からこぼれたのは、単純な感情、恐怖であった。

私は肩を震わせる彼女の姿を見て、その言葉に共感する。

あの爆撃兵器は恐怖そのものだ。白鯨を思わせる巨体が、既存の携行火力を物ともしない装甲、圧倒的な対空兵装をたずさえてやってくる。いまだ、私の胸の奥に横たわる冷たい感覚の源流には、常にディオミディアの姿がある。

この恐怖という感情に関しては、おそらく私は同じ感覚を共有できているはずであった。

レイヴォネン中尉の言葉に、穴吹中尉もまた首肯して同意を示していた。

穴吹中尉は静かに、目を閉じていた。しんみりと、自分たちが撃墜した強敵の姿を、まぶたの裏に思い浮かべているのだろうか、私はそんな想像をしていた。

穴吹中尉がゆっくりと口を開く。

 

「たしかに、アレは恐ろしい敵だったわ、けど……」

「機銃一本で立ち向かった人間のいうことじゃないねー」

「……うるさいわね、余計なこと言わないの」

 

とはいえ、静かに推移していくかに見えた会話も、オヘア少尉にかき乱されてしまう。結局、これが独立義勇中隊のリズムなのだろう。そう納得する方が、理解が進むように思えた。

さて、穴吹中尉は小さく咳払いをして、仕切りなおした。私も穴吹中尉に意識を傾ける。

 

「躊躇いはなかったか、って質問だけど……たとえ怖くて躊躇っていてもね、大事なものがわかっていれば戦えるものよ」

 

大事なもの。

私は返答の核心であろう言葉を反芻する。それはいったい何だろうか。疑問に思いながらも、鎖のようにつながって浮かび上がったのはやはり、守りたい何かと夢見る何か、という言葉であった。

 

「やぶれかぶれでも戦える時はあるけど、よくないわ。その場はしのげても、時間がたてばいずれ間に合わなくなってくる」

 

カップを両手で包み、持ちながら穴吹中尉は続けた。

穴吹中尉の言が正しいのであれば、戦い続けるために必要な何か、大事なものがなければならない。私にはその『大事なもの』、『夢見る何かと守りたい何か』が欠けている、ということなのだろう。

 

「大事なものとは、どうすればわかるのでしょうか」

 

疑問を声として口に出したという意識はあまりなかった。考えていたことが漏れ出てきた、説明するならば、そのような感覚である。穴吹中尉の言葉に納得した後に出てきた思考が、大した成形もなく吐き出されたのであった。

口を閉じるにはもうすでに遅く、中尉は私が発した問いとして認識したのだろう。そうね、と短く相槌が返ってきたところだった。

後悔する間もなく、穴吹中尉は人差し指をピンと天井に向けて伸ばす。

 

「土壇場になると自然と分かってくるものよ、考えすぎたって仕方がないわ」

 

私は目を丸くした。ビューリング少尉が、ずいぶん雑な答えだ、と小さく嘆息したのが聞こえてくる。

問うたこと自体はほとんど意識した言動ではなかったにせよ、やはり返答に期待していたことは確かであった。私はもっと、明確な形を持った答えを聞くことができるものだとばかり考えていた。

新しい疑問が生まれ、すぐに次の問いとなる。今度は私の意識をともなって発せられた。

 

「怖くはないのですか?」

 

穴吹中尉も今度はハッキリとした答えを持っているようだった。私の問いに対して、すぐに返答する。

 

「一人で戦っている訳じゃないもの、仲間の誰かが支えてくれるから怖くないわ」

 

そう言って穴吹中尉は、柔らかな笑みを浮かべた。

私は頷きつつ考える。

仲間の支え、穴吹中尉にとっては、独立飛行中隊の隊員たちなのだろう。私もまた、それを持っていると疑いなく言い切れる。それは間違いなく、第四飛行中隊の面々であった。

自然、彼女らに支えられながら、空を目指した二週間が脳裏に浮かぶ。私は、確かに心強いものだ、と一人納得した。

考えをまとめ終えると、オヘア少尉が満面の笑みをたたえて、穴吹中尉に抱き付いているところであった。レイヴォネン中尉も穴吹中尉の言葉に感動したのか、目にたまる涙を拭っている。

 

「まったく、大げさなんだから」

「でも悪い気はしないだろ?」

「まあ、ね」

 

溜息をつく穴吹中尉はビューリング少尉に茶化されながらも、唇を尖らせて頷いた。

室内に流れる空気は穏やかであった。

涙を拭いたレイヴォネン中尉が、唐突に立ち上がる。温和な気質が感じ取れる顔立ちは、何やら気合の入った表情を浮かべていた。彼女は胸の前に小さく拳を握りしめて言う。

 

「今度の作戦もみんななら大丈夫、頑張ろう!」

 

皆それぞれに頷く。

レイヴォネン中尉が言う作戦といえば、一つしかない。彼女たちはその作戦の重要な戦力であった。

 

「スラッセン奪還に参加するのですね」

 

分かりきったことではあったが、私は確認するように言った。出会ってからごく短い時間であれど、私は独立飛行中隊の面々を好ましく思っている。そんな彼女たちが、どのような戦いに赴くのか、知らずにはいられなかったのである。

 

「ええ、爆撃ウィッチの護衛でね」

 

穴吹中尉は頷いた。張りのある声で返ってきた言葉には、自信が込められているように感じる。目をのぞけば、その中で闘志の火が燃えている様を連想させられた。

 

「今度こそ、絶対に奪い返す。ルーデル大尉にも目に物見せてやるわ」

 

意気込みを乗せた言葉に、皆が深く頷く。ハルトマン軍曹も読書を中断し、小さく首を動かしていた。

仲間の支えを信じるといった穴吹中尉の言葉は伊達ではない、国籍も気質もバラバラでこの一体感だ。私は一も二もなく感心する。

私が一人納得していると、高揚感に満ちた部屋の中に、突然に異物が飛び込んできた。

それは、けたたましいベルの音だ。警報に慣れた身体は、甲高い音に対して鋭敏に反応してしまう。耳に刺さるような音響に、皆の視線が一か所に集まる。発生源は仮設電話のようだった。

比較的、近い場所にいたのは窓際に立っていたビューリング少尉である。穴吹中尉が目くばせすると、さしたる反応をせずに、すぐさま受話器をとりに向かう。

 

「こちら独立飛行中隊指揮所、ビューリングだ」

 

ビューリング少尉は抑揚をおさえた声で応じる。対応は淡白で、短い返事を繰り返したのち、すぐに受話器を置いてしまう。

大した話題ではなかったのか、そんな気がしてしまうような虚無的な表情で、薪ストーブを囲む我々の方を向く。

 

「定刻につき作戦に参加する全部隊集合、だそうだ」

 

ビューリング少尉は、何のことはないような口調で言ったが、聞いた瞬間に室内の雰囲気がガラリと変わるのがわかった。

穴吹中尉がカップの中身を飲みほし立ち上がる。

 

「時間ね」

 

短く言った途端、穴吹中尉の目に凛とした光が灯った、私から見てそう感じられるほど印象に変化を生じる。ここにきて、先ほど感じた彼女のエースとしての気配は、研ぎ澄まされて輝きを増していた。イメージは滑らか、かつ影を寄せ付けない光沢を放つ抜身の刃だ。

隊員たちも各々立ち上がる。ハルトマン軍曹は本を閉じ、オヘア少尉は背伸び、レイヴォネン中尉はまた胸の前で拳を握りしめ、それぞれ支度を始める。

私も彼女たちの後に立ち上がって礼をする。

 

「出撃前の貴重な時間を、ありがとうございました」

「いいのよ、部屋は具合がよくなるまでいてくれて構わないわ、ストーブだけ消すのを忘れないでね」

 

私の礼に穴吹中尉は微笑む。

 

「それじゃ、私たちは行くから」

「は、ご武運を」

「ありがと。みんな行くわよ!」

 

穴吹中尉の号令に、隊員たちが歩き出す。私は彼女たちの背中に挙手の礼をとった。

占領された都市の奪還。

難しい任務だ。どの戦線でも企図されはしたが、どこも成功を収めたことはない。

それでも彼女たちなら可能だろうか、ディオミディアを撃墜したような奇跡をおこした彼女たちならば。

そんなことを考えながら、私は独立飛行中隊の面々の背が見えなくなるまで挙手の礼をとり続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吐き気が引いてしばらく経ち、ようやく校舎の外へと出てくる。

出入り口をくぐるなり、真っ白い雪による反射光が、私の目をくらませた。耐えきれずに目を細めつつも、雪を踏みしめて歩き出すことにする。

周囲の様子は、目が慣れないうちではどうにも確認がし難い。しかし、雑多な音の塊が耳に飛び込んでくるにつれて、大勢が忙しく走り回っているのがわかってくる。

当然のことだな、と一人頷き、次第に眩しさを受け入れ始めた目で仮設滑走路を眺める。

つい先ほど、スオムス軍総司令官であるマンネルハイム元帥の演説と、出撃の号令がそこで行われたのである。ウィッチ部隊による全力出撃の直後とあっては、基地全体が騒がしくなるというのも納得するほかないことであった。

出撃したウィッチの中にはもちろんのこと、独立飛行中隊がいる。

彼女たちが飛び立っていったであろう方向へ目を向けてみる、が、小柄なウィッチの体格ではすでに空の青と白に溶け込んでしまった後であった。

視線の先にいる彼女らの武運を再度祈りつつ、私は本来の第四飛行中隊の待機場所である仮設テントへ向かうことにした。

さて、第四飛行中隊の面々は、天幕の内側で寒さをしのぎつつ、ユニットケージのそばに集まっているようだった。

足にまとわりついてきた雪を払い、天幕の中へ踏み込むと、人の気配を感じたのだろうテオが、すぐにこちらを振り向いた。

目が合うなり、パッと顔が明るくなるのが見てとれた。

 

「姉さん!」

 

嬉しそうに私を呼ぶ声が響くと、それを察した隊員たちの顔も一斉に私を指向する。

 

「やっと来たか病み上がり」

 

ベーア隊長の冷やかしには敬礼で対応する。別に間違えたことは言っていないのだ。

何を思ったのか、ライネルトが立ち上がるなり駆けだして、私に抱き付こうとしてくる。愛情表現か悪ふざけか、判断に迷うところであったが、どちらにしても過度のスキンシップを他国の地でさらす気はさらさらない。寸前で身をかわし、ライネルトが天幕を転がり出ていく様子を横目に、中隊の輪へ加わった。

 

「ご迷惑をおかけしました」

 

私は頭を下げるが、フライターク中尉が首を横に振る。

 

「準備が終わるまで待機だから気にしなくていいわ、どうせ謝るならご心配おかけしました、にしときなさい」

 

フライターク中尉が少々嘆息したのを見て、私は素直に首肯することにした。

準備という言葉を頭の内に残し、我々のユニットが収められたケージを眺める。見たところ、スオムスに降り立った時から、手を加えられた形跡は見られない。これも仕方のないことだ、この臨時基地のメインはスラッセン奪還作戦であって、直接の関係がない我々の補給が後回しになることも、全て納得のいくことである。廃校舎の中では休憩ということで時間を使ったが、この場所でも整備員の邪魔にならぬよう、一塊になって待機していた方がよさそうだ。

天幕の中であっても吐き出す息は白い靄という表現を通り越し、白煙を吐いているような有様である。第四飛行中隊は皆、防寒着を着込み、設置されたストーブを中心に輪を作っていた。私も同じように暖を取りながら、時間が過ぎるのを待つことにする。

やることもなく、視線は目標もなく外を向く。

ふと、穴吹中尉の言葉を振り返ってみることにした。

『考えすぎても仕方がないこともある』

私は考えすぎているのだろうか、だとすれば、それは悪い癖であると思う。

『土壇場になると見えるものがある』

私に見えるものは、何だろうか。そして、私にとっての土壇場とは、どんな場面なのだろう。

腕を組み、ぼんやりと考え込むと、様々な疑問が生まれては宙に浮いていく。

整理されない思考がゆらゆらと不規則に回っていることを感じていると、外へ向けた目が小さな変化を捉えた。

誰か、男性が天幕の外で雪をまき散らしながら、走る姿であった。身なりがそこそこ立派だな、ととりとめなく思う。周囲の大多数が着ている整備服ではなく、正式なスオムス軍の冬季外套では、と仮設を立て、少なくとも士官だろうと判断する。おぼろげに読み取った表情は、かなり焦っているように見えた。

何かあったのか、疑問に思うと同時に、微小な不穏さを含んだ空気が流れ込んでくるのを感じる。

やがて彼が外に並ぶ天幕の一つに駆け込むと、その中から一瞬のざわめきが起こる。驚きが感じ取れる大声がいくつか、こちらにも届いたのだが、それらは全て早口なスオムス語で完璧に聞き取るまでには至らない。

様子を見つつ、私は眉をひそめた。

 

「ベーア」

「ああ、騒がしいな」

 

フライターク中尉がが抑え気味の声色でベーア隊長の名を呼ぶ。両名とも外の様子には、すでに気がついていたようであった。静かに、外をうかがっている。

ややあって、ざわめきの中心にあった天幕の中から、四、五人の将校が飛び出してくるのが見えた。彼らは方々へ駆け、不穏なざわめきは次第に広がっていく。

ただ事ではない、私の目からもそれがわかってしまう。

観察していた天幕から、さらに一人が駆け出してくる。

眼鏡をかけた女性、怜悧な風貌を読み取り、ハッキネン少佐であると判断する。ハッキネン少佐もまた、かなり焦っている様子であった。周囲を二往復ほど見渡し、やがて目を止めたのは我々が待機するこの天幕である。

不穏な空気はもはや疑いようがないほどに色濃く感じられ、張り詰めた神経を刺激し始める。ハッキネン少佐がこちらへ駆け寄ってくる頃には、第四飛行中隊の全員が出入り口付近を空け少佐を迎える体制を整えていた。

駆け込んできたハッキネン少佐は、若干息切れした呼吸で言う。

 

「お願いがあります」

 

自分の表情が若干硬直したことを自覚する。

ハッキネン少佐の言葉には、ベーア隊長が短く答え、続きを促した。

 

「ここから北へ約200キロ、ベルツィレ基地方面にて空襲の兆候あり。守備隊は今回の奪還作戦に伴う補助的攻勢で人員が足りません。居残ったウィッチは任官したてが二名、とても守り切れません」

 

ハッキネン少佐は続く言葉を、いったんここで切った。

この間に、我々も状況を理解する。

 

「カールスラント空軍、第七十七戦闘航空団、第四飛行中隊による戦闘支援を要請します」

 

戦場が、動き出した。

 


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