Eismeer   作:かくさん

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1940年 バルト海 氷の海11

たなびく薄雲に視界を遮られた。

ほんの一瞬ではあったが、目測に利用していた景観がホワイトアウトし、まとわりつく靄を振り払いたくなる。

目的地まであと、少しの距離なのだ。できるだけ邪魔をされたくはない。

雲を抜けると真っ白な滑走路が近づいてくるのが見える。雪に覆われた滑走路は、一色に塗りつぶされているため目立たないが、お世辞にも立派なものとは言えなかった。周囲の建物は永久建築ではなくテントがほとんどで、近場にある大きな建造物は校舎に見え、軍が建築した物とは思えない。それでも軍用の滑走路だと判断できるのは、校舎だろう建造物の屋上から発光信号が飛んでくるのと、目を凝らすと雪上迷彩を施したコートを着込んだ人影が行き来しているのが見えるためであった。

我々はあの滑走路に降り立つのだ。

意識するたび緊張が脳裏を駆けていった。

動悸は胸に手をあてずとも、わかるほど鼓膜の中に響いている。肩周りの筋肉が固まっている。

保護魔法の膜を抜ければ、周囲は肺を凍結させる極寒である。そんな中で、額から一筋、汗が顎の輪郭をなぞっていった。

高度はいよいよ下降していく。

護衛対象であった輸送機はすでに着陸を済ませている。いち早くこの緊張から抜け出せる境遇を、うらやましく思う。なんとも、自分でも少し呆れた思考であった。

輸送機の安全が確保されたのちに、我々は着陸体制に入っていた。隊長を先頭に列をなして滑走路を目指すのだ。

私は最後尾におり、先導してくれる僚機、フレデリカの後を追って高度を下げつつある。

地上がだんだんと近づいてきた。滑走路の状態や、周囲に散らばる人影が鮮明さを帯びてくる。分かりきっていたことだが、固められた雪面の上に着陸することになりそうだ。戦闘機であれば、あまり挑みたくはないコンディションであった。

ウィッチならば、そこまで警戒することはないのであろう。だが、私の呼吸は震えている。

目前に広がってくる地面を見て、無意識に墜落を連想しているのだ。

勝手に緊張を深める己に対して叱咤する。

私だって今日までできる限りのことをしてきたのだ。その分だけでも信じてみればいいだろう。

私はまばたきすることをやめて、滑走路を注視した。目いっぱいに雪面の白が映っている。

横目で先行するフレデリカとの相対速度を測りながら、速度を調整し続ける。

もはや地面すれすれだ。ブランクのせいで錆びついていても、感覚は『今だ』と語りかけてくる。

フレデリカが滑走路上で停止する。

私はついに上体を起こし、制動をかけて推力を押さえつけた。慣性による圧を体感しつつ、ほぼ狙い通りに速度はゼロに近づいていく。

ほう、と一息はいた。

その瞬間に右足がつまづくように、バランスを崩す。

速度を落としすぎたか、やはり鈍っているようだ。最後まで気を抜くべきではなかった。

自戒して体制を持ち直し、今度こそ速度はゼロとなった。

着込んでいるコートの内部で汗が蒸気となっている。体から湯気が出ているようだ。

私は小さく拳を握る。

次いで、早々に滑走路から移動を始めた隊員たちの後を急ぎ追いかけた。

所はスオムス、ミッケリ臨時空軍基地。二月五日のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユニットケージは仮設の天幕内部にあった。

最近、私はすっかり着脱に慣れきってしまっている。素早くユニットから脚を引き抜くと、保護魔法が消え去り、スオムスの厳しい冷気が全身を打ち据えた。

第四飛行中隊一同、スオムスの冬の洗礼を改めて受けた後、輸送機のそば、滑走路に沿って整列する。

我々を待っていた人物は二人いた。一斉に敬礼すると、二人が答礼する。

 

「臨時基地司令のハッキネン少佐です、こんな所までご足労感謝します」

 

先に挨拶を述べた女性は、ハッキネン少佐と名乗った。すらりとした体格にメガネを着用した怜悧、かつ冷静沈着な印象を与える人物だと感じる。

しかし、少佐という階級を任ぜられるには、若い、少女から女性への橋渡しを終えたくらいの齢に見える。現在の状況も相まって、大きな苦労があるのだろう、理性を灯した目の下には、濃いクマが染みついていた。

 

「ハインリーケ・ベーア中尉以下、第七十七戦闘航空団第四飛行中隊です。こんな時分なら仕方ありません、最大限できることはさせていただきます」

 

ベーア隊長にしては堅苦しく返答した。

今回の輸送任務はスオムス、ミッケリ臨時空軍基地への直通便であった。通常ならば荷物は前線ではなく、ヘルシンキや沿岸の都市部で陸路、海路に乗せ換えて帰投となる。

今回は緊急の事態、すなわちスラッセン奪還作戦の発動に伴ともない、急ぎリバウからバルト海を越えたのだった。

 

「積み荷は無事に運んできたようだな、後で確認させてもらおう」

 

対面しているもう一人の人物が、積み荷の運びだしを眺めながら、満足げに言う。

顔面を横切る傷を勲章のごとく引っさげた女性、ルーデル大尉であった。

ルーデル大尉以下、第十飛行中隊は○週間前にスオムス入りしていた。私は同行することはできなかったが、第四飛行中隊は護衛任務を全うしたのである。

それからはスラッセン奪還に向け、日々爆撃による支援を行っていたようだ。戦意滾る眼光からもそれが伝わってくる。

 

「仕事はきっちりこなします、それに、目に物見せると言った手前ですので」

 

直立しているはずのベーア隊長が、腰に手をあてて胸を張る姿を幻視する。顔合わせのやり取りを、まだ腹に据えかねていたのだろうか。

ルーデル大尉はそんな様子を見て微笑んだ。とはいえ、以前のような険は感じない。

 

「それでも貴官らには礼を言う、これは絶対に必要なものだ」

 

略帽を手に取り、小さく頭を下げる。英雄たる彼女の礼を受け取るのに、連名であれど私は恐縮した。

さすがにベーア隊長も調子を狂わされたようで、何度か視線を泳がせた後、話題の転換をはかった。

頬に少し朱がさしているのが見てとれる。

 

「ところで、大尉殿は積み荷を何に使うおつもりで? 37ミリ弾が多数、こいつは対戦車装備でしょう。砲兵の運用でも始まるんですか?」

 

ベーア隊長もそうは聞いたが、我々が扱っているのは空輸による速やかな輸送が必要な物資に限られる。スオムス陸軍向けの輸出・輸送は海上が主であるし、対戦車砲弾を運ぶ理由は見当たらなかった。

疑問をよそにルーデル大尉は頷く。

 

「あながち間違いではない、ぶっ放すのは我々爆撃屋だがな」

「はぁ?」

 

話題の転換はなされたが、新しい爆発物が投下されたようである。

思わず、と言ったように、ベーア隊長が口を開いた。私も驚きをもってルーデル大尉の顔を見る。

大尉はさも、してやったりというような風で、面白可笑しそうに笑った。

 

「言葉の通りだ、敵地上兵器に向け低空より接近、航空装備として改造した37ミリ対戦車砲による近接砲撃にて撃破する」

 

大尉の手振りを交えた説明を聞くが、いまいち頭に入ってこない。対戦車砲や近接砲撃など、航空戦力(ルフトバッフェ)たる我々には、あまりにも馴染みのない単語である。

大尉が『撃破』の発音と同時に、拳で掌を叩いた音を聞いて思わず口を半開きにした。

 

「そりゃあ……爆撃隊、というか空軍の戦い方じゃないでしょう」

「爆撃で何とかなるならとうの昔に方がついている。奴らの餌が瓦礫である以上、爆弾を放るだけでは駄目なのだ。瓦礫を散らさず、最大限の火力を叩きこむにはこれしかない」

「そうかもしれねーですけど、それにしたって無茶苦茶な」

「まあ、な、考案した私自身、なかなか難しいやり方だと思っているがね」

 

呆れと感心が入り混じったベーア隊長の返しにも、ルーデル大尉の笑みは崩れない。むしろ面白がっている風が見える。

積み荷の発注は事実として行われているのだから、ルーデル大尉の言は冗談を語っているはずはない。それにしては、実際に新戦術を運用すると考えるには、ずいぶんと余裕があるな、という感想を浮かべた。

事実、我々はルーデル大尉の笑みが切り替わるのを見た。茶目っ気を含んだ軽快といえる笑みから、ニヤリと、口角を釣り上げる、狩りを目前にした肉食獣を幻視する獰猛な笑みへ変貌する。

 

「貴官が目にもの見せると言ったように、私も部下を信じている」

 

単なる口上ではない。

信じているという言葉にこの上ない重みを感じる。単に自分の部隊を誇っているのではない、本当に心の底から部下に全幅の信頼をおいているのだ。

ゆっくりと伝わるルーデル大尉の声には否応なしに、そう信奉させるだけの魔力が備わっていた。

 

「我々にとって諦めなどこの上なく無意味な言葉だ。困難、不可能、まったくもって下らない、考えることすら時間の無駄だ」

 

苛烈とも思える哲学思想も、それを常に実践してきた大尉にとっては何のことはない、日常にあるルーチンの一つでしかないのである。

大尉の言葉が有する説得力の源流を、私はそう分析した。

 

「我々は今日まで無茶を可能にする訓練をしてきた、そして今、弾薬も補充された。我々ならば十分に、完璧にこなしてみせる」

 

胸元に握り拳を。力強くも、歌うような澄んだ声でルーデル大尉は述べ上げた。

私も含め、この場にいる誰もが少なからず感化されている。胸の奥から熱のようなものが湧き上がるのがわかる。

カールスラント最高峰のエースは、遠い北の地にあってもやはりエースであった。

さて、とルーデル大尉が咳払いをして、熱量を含んだ空気が平常に戻る。

 

「ベーア中尉、疑わしいと思うなら、積み荷の確認が終わったら案内しよう、実物を見せてやる」

「そりゃどうも、光栄ですな」

 

ベーア隊長は肩をすくめたが、口角を上げて笑う。横柄な態度ではあれ、隊長なりに感じ入るところがあったのか、険のない様子で誘いを受ける。

エース同士の応酬がひと段落したところで、横からハッキネン少佐が手を上げた。

 

「そろそろ場所を移しましょう。雪の上で出迎えたままというのは、私としても忍びないのです」

 

テントに目を向けながら移動を促す。

我々は断ることもなく従った。臨時とはいえ基地司令自ら案内役を買って出るとは、人員の欠乏は余程深刻なのだろうか。他国所属とはいえ、はるか格上の上官相手に恐縮する他ない。

軽い肩こりを自覚しつつ促されるまま歩き出す。

 

「エールラー少尉、いいか?」

 

そんな私のそばに不意を打つようにやってきたのは、他でもない、ルーデル大尉であった。意識の外から、英雄と認識している人物に小声で耳打ちされ、私はストライカーを履いているわけでもないのに宙へ飛び上がりそうになった。

 

「そう怖がらなくてもいいだろう、別に貴官を37ミリの的にすると言っているわけではないのだ」

「はっ、失礼いたしました」

 

跳ね上がった動悸を抑えながら、音量を合わせたごく小さな声で返答することに成功する。

ルーデル大尉は歩調を合わせて私に並んだ。横目では表情はうかがい知れない。

しかし、いったい何の要件だろうか。

疑問に思ったが途端に、いや、と私の中では心の声が打ち消される。何となくではあるが察しはついているのだから、疑問を持つこと自体、無意味なことである。

私はそのまま、ルーデル大尉の言葉を待つことにした。

 

「何、ほんの一つだけ、貴官に言いたいことがあっただけだ」

 

分かっていても肩が意図せず硬直する。

大尉からの言葉は間をあけずにもたらされたが、私は違う言葉を、重ねるように想起してしまう。

それはリバウでの顔合わせでの会話である。

『目が沈み切っている』『敗北を認めた者の目』

私をそう指摘した大尉の言葉が鮮明に思い出された。

自然、腹に力を込める。まるで衝撃や痛みに備えるように身を固くした。ルーデル大尉が私に何を伝えようとしているのか、見当のしようもない。

結局、半ばおびえるようにして待つほかなかった。

 

「以前よりもマシな目になった、その調子で励めよ」

 

もたらされたものに、思わず目を見開いた。

驚きが脳裏を支配している。列を乱しながらも、ルーデル大尉へ急ぎ振り返った。

理解しきるにはあまりに短すぎる。今の言葉の意図を、もっと細かく、詳しく聞きたい。そんな欲求が湧き上がってきたが、果たされることはない。

ルーデル大尉はすでに向き直り、輸送機へ足を進めているところであった。

その背中を急いで追いかけたい衝動にかられるが、そうもいかない。フライターク中尉が私の名をいぶかしげに呼ぶ声が聞こえる。

足が進みかけるのをぐっとこらえると、脳裏で追いかけろという囁きが反響し始めた。反面、理性の天秤は列を乱さぬ方向へ振り切っている。

溜息をつく。

本当は悩むまでもないのである。案内役はスオムスの基地司令で、我々は他国軍所属の一介の戦闘員に過ぎない。私の勝手で計り知れない迷惑を周囲に振りまくわけにもいかない。

欲求を飲み込み、列へ戻る。

 

「精進させていただきます」

 

仕方なく、届くはずもないつぶやきを放ることにした。

私は急ぎ戻りつつも口を手で押さえる。私の口元はきっと緩んでいるだろう。

 

 

 

 

 

少しでも、気を抜いたのが失敗だったのかもしれない。

唐突に、強烈な吐き気が喉奥から、焼け付くような痛みとともに広がってくるのを感じた。

みぞおちに抑え込むように手をあてがうが、耐えがたい不快感は急速に腹部から喉元へと充満する。

まるで重力に負けてしまったかのように、血液が顔面から落ちていく。意識が遠のくが、私はどうにか歯を食いしばって吐き気をこらえる。

天幕に案内された途端にこれか。

私の心中は一瞬、悪態で満たされた。

胃がきりきりと痛みを発すると、不快感が増大する。生理反応で肩が震え、私は抗しきれずに口元を抑えた。

 

「ちょっとエールラー、あんた」

 

やってしまった、そう思わざる負えない。

口元を手で覆ったところを、フライターク中尉に気取られてしまったのである。私の名が登場した途端に、第四飛行中隊の全員が私の方へ振り返る。

 

「ずいぶん気分が悪そうね、大丈夫なの」

 

聞くような口調だが、問うような響きではない。

そんなわけないわよね、とフライターク中尉の声が続いたような気がした。

喉元に滞留する不快なものを何とか飲み下し、返答する。冷汗がどっと噴き出してきた。

 

「大丈夫です、問題ありません」

「嘘ですね、バレバレもいいところですよ」

「青い顔で言ったところで、説得力なんてない」

 

ライネルトとフレデリカから一斉に否定される。

それぞれ手のひらを上に向けたポーズと、心底呆れたと言いたそうな溜息をもらし、こちらの言い分を信じている様子は皆無であった。

答えに窮する。状況は私にとって圧倒的に不利と言えた。

横目で他の隊員を見れば、そちらはさらに具合が悪い。

ベーア隊長は眉間に深い皺を刻んで私を睨み付けている、下手な言い訳を口にすれば噛みつかれてしまいそうだ。テオもまた表情に怒りを滲ませ、頬を膨らませて私を凝視していた。

引くことも進むこともできない現状に頭を抱えたくなる。

そんな我々の様子を見て、ハッキネン少佐が横合いから声を投ずる。

 

「体調が優れないのでしたら、臨時施設の中に医務室がありますが」

 

気の利いた一言ではあったが、私にとっては完全に逃げ道を塞ぐものであった。

余計な心配や面倒をかけまいと思っていたが、目論見は完全に失敗してる。

どうしたものか。考えるばかりで結論までまったくたどり着くことができない。そうこうしているうちに隊員たちがじりじりと距離を詰めてきているようで、私は後ずさった。

ベーア隊長が不機嫌な顔のままで言う。

 

「誰がこの我慢したがりの馬鹿を連れていく?」

「私行きます!」

「じゃ、私が」

 

テオとライネルトが真っ先に声を挙げ、フライターク中尉とフレデリカが静かに挙手をする。

ずいぶんと、息の合ったことである。自分のことでなければ素直に感心していた。

どう転ぶにせよ、私の医務室行きはもはや確定事項であるらしく、誰が連行するのかを議題に話し合いを始める。

吐き気は先ほどから快癒することはなかったが、この状況も耐えがたいものがある。他国の土地で無理矢理に医務室まで引っ張っていかれるなど、そんな情けない話があってたまるものか。

 

「わかりました……不調と認めます、認めますので医務室へ行ってまいります」

 

結局のところ、いかに思案しようとも私の方から折れることが最善に思えた。

ほんの少しでも状況を好転させるべく、会話の主導権を取り戻すための一言を付け足す。

 

「ええ、一人で」

「駄目よ、またアンタは無茶するんだから! いいから私たちを頼りなさい!」

 

最後まで言い切ったところで、さっそくフライターク中尉が勢いよく振り返った。

医務室に行くのに、無茶も何もあるだろうか。

私はこめかみを抑えた。

 

「子供のお使いよりも簡単なことでしょう、私一人で行けますよ」

 

心配されるのはありがたいが、リハビリを始めて以来、私の不調に対して心配を通り越して警戒している風がある。

結局、私自身の問題・原因なのだから、できる限り誰かに苦労をかけたくないと思うのだが、私の意図はどうも無茶に映るらしい。

 

「医務室は天幕を出て正面の建物、廃校舎の一階半ばにあります。除雪はされていますが、足元にはお気をつけて」

 

ハッキネン少佐は表情に変化を見せず、抑揚に乏しい声で案内を補足した。目の前で騒がしいやり取りが行われていたとは思うのだが、気にする反応らしい反応が見受けられない。

普段から見慣れているのでは、と推測するのは邪推だろうか。

ともあれ、医務室の位置は把握できたのだから、誰かに頼らねばならぬ必要もなし。

 

「はっ、お礼申し上げます。では小官はこれにて」

 

ハッキネン少佐の言葉を私へのものだと解釈することにして、私は吐き気にエヅキつつ挙手の礼をとった。

少佐の答礼から手が下りるまでの動作を認めてすぐ、機械的な動作で回れ左を行って天幕の外を目指す。

儀礼というものはときに実用的である。ハッキネン少佐が答礼した以上、それを邪魔する非礼は行えない、はずだ。

逃げ出すように天幕を立ち去ると、スオムスの寒風にあおられる。背中を押されるように目前の廃校舎へ向けて早足を進めた。

もっとも、寒いだけが私を急がせた理由ではないだろう。ちらりと見えた中隊の面々の表情から読み取ることができた怒りが、しばし私の頭を離れなかったから。

 

 

 

 

 

 

廃校舎に駆け込むと、締め付けられるように胃が縮こまった。湧き上がる不快感を厭う気持ちが、再び思考の中心に据えられる。

地吹雪舞う屋外ほどではなかったが、暖房のない廊下は私を震え上がらせるには十分な冷気をたたえていた。天候は晴天で比較的凪いではいるが、時折強い風が吹き付けると、窓ガラスが叩かれるように震え、どこからか隙間風が入り込んでくるのだ。

胃を抑えて廊下の奥まで目をこらす。このまま廊下に立っていては、余計に具合が悪くなりそうだ。

廊下には電信のためであろう配線が縦横無尽に走り、置き場に悩んだのかいくつかの機材が壁に沿って並ぶ。

その半ばに目標物を見つける。白地に十字を描いた旗が、かつての教室の出入り口につるされていた。

医務室はそこにある。

私はハッキネン少佐の言ったとおりであったことに安堵しつつ、肩を縮めながら医務室へ急いだ。

扉の前に立つと、内側からはスオムス語であろう会話が漏れてくる。

私はすぐに立ち入る前に一つ間を置くことにした。

のぞける程度に扉を開け、中の様子をうかがう。

どうも慌ただしい様子であった。

教室をそのまま使った医務室には仕切りはなく、ベッドは並べられているものの、全て埋まっているようである。その他にも傷病者がおり、頭部や腕に包帯を巻いた将兵が壁際に並べられた椅子に腰かけながら、処方を待っている。

どうやら担当する軍医は現状一人しかおらぬようで、診察を終えれば、薬品棚からビンを取り出すために自ら右往左往している有様で、素人目に見ても忙しさが伝わってくるようであった。

私は音を立てぬように扉を閉める。

人の密度による熱気のほかにしっかりと暖房がきいていて、扉の隙間から漏れてくる温もりが恋しく思えたが、休憩をとらせてもらうにはあまりにも忙しい空間だ。

自分の症状が身体的な病患によるものではないのは常々わかっていること、というのもある。これで軍医の仕事を増やすのも、なかなか申し訳なくなってくる。

とうとう私は軍医にかかる気になれず、廊下のさらに奥へ向かうことにした。他に休憩できる部屋があれば、その場を借りて回復を待つという判断であった。

少しばかりの疲労を自覚しつつ歩き始める。

ところが、すぐに分かったことだが、一階の教室にはどこも空きが存在しないようだった。機材の仮置きになっているようで、とても休める場所ではなさそうである。

胃はやはりきりきりとした痛みを発している。

一階の最奥部には二階へ続く階段があった。私はごく小さく息を吐き、重たい足で階段を登りはじめる。

さて、二階にも教室は並んでいたが、そのうちの一つに、私はようやく落ち着けそうな場所を見つけることができた。

部屋の中心には薪ストーブが置かれている。誰もいないようだが、火は灯っていた。それを囲むように椅子が並べられ、ほかに見受けられる備品は簡素なテーブルくらいなものだ。

保管所という体裁ではない、かと言って人が執務に従事するには殺風景である。ここは休憩室として使われているのだろうか。

考えつつ滑り込むように中へ入ると、空気の層を抜ける感覚がふわりと顔に触れた。

温かい。

後ろ手で扉を閉めれば、外から染み出してきた冷気が今度こそ遮断される。ひりついていた表皮が熱を取り戻すと、滞っていた血流が体の末端を目指してめぐり始めた。

グローブに守られていたはずの指先には赤みがさしていた。痺れとともに耐えがたいかゆみを訴えてくるもので、私はさらなる温もりを求めて、揺れる炎からの熱が直接に感じられる位置にまで移動することにした。輪を組んで並んでいる椅子は座るにちょうど良い高さに見える。子供が座る高さだ、軍の備品ではなく廃校舎に捨て置かれた物なのだろう。手近の一つを引き寄せ、腰かけた。

脱力して背もたれに体重を預ける。ようやく一息つけた、そんな気持ちが自然と溜息となって漏れてくる。少しだけ疲れてしまった。

しかし、空気を吐ききった口元はほんの少し緩み、拳は強く握られている。

 

「やってやったぞ」

 

そうつぶやいた。

一人になってようやっと自分が、壁を一つ乗り越えことを自覚したのである。

リバウを飛び立ち、バルト海を越え、スオムスまで至る。

第四飛行中隊にとって日常の一つと言って差し支えない程度のものだが、私にとっては大きな一歩であると思えた。

エンジンを始動させることすら失敗したその日から、今日は二週間ほど経過している。二週間という日数が、長いのか短いのか、私には明確な判断を下すことはできない。けれども持てる限りの時間を、空へと帰るためにつぎ込んでいたのだとは言える。

それらの時間が、記憶の引き出しから回想されてくる。

連日、体力が限界を迎えるまでエンジン始動を訓練していた。飛行という動作には、それに足る出力と安定が不可欠である。そして原動力の一つである魔力は本人の精神状態に大きく左右される。対して私は吐き気をこらえるだけで精一杯という体たらくだ。

空を飛ぶまでの道のりは必然的に、どうしようもなく長延なものに思えた。

そんな状態から始まった私を、ここまで引っ張り上げたのは、一も二もなく第四飛行中隊の面々であった。

格納庫の片隅で、不安定な精神をなだめながらエンジンに魔力を送り続ける。一日、そのような単純な動作を続ける中、私は常に見守られていたのである。ふらつけば必ず誰かが肩を支えに来る。聞いても答えてもらうことはできなかったが、毎日一人が持ち回りで付き添うことになっていたようだ。

そんな助けをもらったことで、一週間目には飛行に耐えるだけの出力の安定を見た。

手を叩いて喜ぶのはまだ先のことだと、私は早速、飛行訓練に移ることにした。

地上でエンジン出力を安定させることができても、当然ながら空中では勝手が異なる。精神的な具合はもちろんのこと、一か月以上も空から離れていたブランクが身に着けた感覚を奪い去っていたのである。

イメージと実状には致命的な乖離がはさまり、私は思い通りの動きができないことに歯噛みをした。こればかりは特効薬は存在しない。慣れることで何とかするしかなかった。

如何にすれば効率よく精神を安定させ、感覚を取り戻せるか、それだけを一人で考えていたが、結局は無駄な悩みであったと言わざる負えない。

第四飛行中隊は自分たちの訓練を切り上げ、全ての飛行時間を私に充てていたのである。最初から、彼女らは空でも私を支えてくれる気でいた。

私は彼女らに手を引かれながら飛び続け、感覚を取り戻し、心を慣れさせることに集中した。

そして、ようやく一人で当たり前の飛行が可能となったのがつい先日のことだ。

そこから今日のスオムスまでの道程につくのは早計だったのかもしれないが、私は頭を下げて頼み込み、ついに今ここにいる。

時間にしてはたったの二週間に過ぎないが、それでも懸命だったと言えるほどには力を注ぎ、仲間の助けを得てつかんだ結果であった。

私にとってはこの成果が手を叩きたくなるほどに嬉しい。そのせいで口元はまだ笑みを浮かべている。

しかし、喜びが逆さに反転するほどではないが、消しきれない影が心中にくすぶっているのもまた、私は事実として感じ取っていた。

空を飛ぶことは確かにできるようになった。だが、夢見る何かと守りたい何か、その二つがハッキリとした輪郭をともなって現れないのである。

成果は成果として喜ばしいが、まだ何か足りないのだろう。ただ飛べばいいという訳でもない、一歩踏み出せたが終点はまだまだ先にある。私は進み始めたばかりでしかない。

心にあるのはきっと焦りだ。私の手を引いてくれた仲間が飛ぶ場所は、自分が見定めた終点よりも高いところにある。追いつくことができるのは、一体いつになるのだろうか。

さて、唐突ではあるが、私の思考はここで中断された。

部屋の扉が音を立てて開かれたのである。集中力が霧散する。廊下に人が近づく気配は感じなかった、あるいは私が単純に意識を向けていなかっただけかもしれないが、ともかく私はおどかされたように開いた扉を注視した。

扉を開いたのは少女であるようだった。少女と言い切れないのは、齢十代であろう見た目に対して身にまとう雰囲気がずいぶんと大人びているように見えたからだ。長身のスラリとした体躯に黒のライダースジャケットを羽織り、髪は飾り気のない銀灰色のロングヘア、同色の瞳をたたえた眼は脱力しており若さによる溌剌さが見受けられなかった。虚無的な感情の薄い表情、見方によっては退屈そうな表情で、穿った言い方かもしれないが、なぜだか擦れた成人の面影を感じさせた。

彼女は片手に口の開いたブリキ缶を持ち、後ろ手で扉を閉めた。

目が合う。彼女の眉が片方、ほんの数ミリだけ持ち上がるのを見た。

私はすぐさま敬礼しようと立ち上がる。その拍子に、ある程度は快癒していたものの、重力が胃の付近にだけのしかかるような気持ちの悪さの侵入を許してしまった。

 

「カールスラント……空軍、第七十七戦闘航空団、第四飛行中隊、ハインリーケ・エールラー少尉です」

 

またもや吐き気がせり上がり、頭から言葉につまる。姿勢も若干の前かがみ、挙手の形はとったが、どうにも不格好になる。血液が下へ落ちていく感覚に襲われ、眩暈に視界が揺れる。

 

「ブリタニア空軍、エリザベス・ビューリング少尉」

 

そんな中で返ってきた声は、私にはひどく気だるげに聞こえた。

 

 


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