東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

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幻想郷に挑むというのは、こういう事だ。


81・すいかのおおきくなる/うつほのソーラービーム

 少女が深淵を覗き込む時、深淵もまた少女を覗いている。

 アリスが魔剣を用いて幻想郷へ接続した時点で、この土地を管理する「八雲」の目から逃れる事は出来ない。

 

「ふむ。何をコソコソと仕込んでいるのかと思えば、まさか地脈を源泉から飲み下すとはな……あいも変わらず阿呆な事だ」

 

 主の名代として、名も無き屋敷にて多数のスキマを展開し各地の戦況を監察していた九尾の妖狐が、開いたスキマの一つを見下ろしながら小さく溜息を吐く。

 アリスが取り込んでいる地脈の力は、全体から見て一割にすら満たない程度。

 深淵に触れる事なく、上澄みを必死に汲み上げているだけの健気な少女に目くじらを立てるほど、管理者は狭量ではない。

 また、紅魔館や永遠亭など幻想郷の勢力として上位に数えられる組織の者たちも、大なり小なり地脈という恩恵を利用している。

 アリスの起こした振動は、そうした者たちにもしっかりと伝わっている事だろう。

 地脈とは、この地上を構成するありとあらゆる要素が溶け込んだ混沌の坩堝(るつぼ)だ。

 本来、地脈を利用する場合は途方もない力の渦から必要な要素のみを選り分け、術の発動や維持を補助する為のエネルギーとして利用する方法を取る場合が多い。

 薬は過ぎれば毒となり、毒は過ぎても毒のまま。地脈そのものを取り込み続けるアリスは、そうした真黒の泥を飲んでいるに等しい。

 わざわざ危険を冒して不要な部分まで毒として味わう愚かな人形遣いの姿は、綿密な計算による効率を好む藍にとって理解の範疇から完全に逸脱していた。

 

「だが、ようやくくちばしが我らに届くまでに至ったか」

 

 続いて起こるのは、身体の底から沸き上がる強い歓喜だ。

 自然と妖獣の口角が上がり、自制出来ずに漏れ出た禍々しい妖気が周囲へと漂い始める。

 地脈の流れを断とうとしても、術の(かなめ)は幻想郷全土という広範囲に広がっている為現実的ではない。

 アリスという固体を核にしている以上、術を止めるには彼女を打倒する以外に方法がない。

 自己の崩壊という劣悪な危険性に目を瞑れば、単純であるが故に割り込める要素が限りなく少ないという理に適った手段だ。

 

「お前を式にしなかったのは正解だったよ、アリス。青い果実のまま切り落としていれば、ここまでの高揚を得られる事もなかった」

 

 未だ至高に届かぬ未熟者として、今の彼女に出来得る最大限の技術。正に、切り札と呼ぶに相応しい魔法だと言えるだろう。

 過去、とある理由により藍が試した時よりも、アリスの戦闘能力は明らかに向上している。

 しかも、その成長速度は人間と見間違うばかりの勢いだ。

 本人としては非常に不本意なのだろうが、最強を自負する妖怪の一角がこうして滾る程度にまで、アリスは戦いという場に相応しい存在へと昇華していた。

 

「これからも精々足掻くが良い、人形遣い。お前の成長を、私は心から楽しみにしているよ」

 

 健気に育つ少女を見下ろし、遥か高みに座す強者が(わら)う。

 どれだけ理性的に振舞おうと、所詮は獣。襲い食らうのが本分だ。

 数年か、数十年か、はたまた数百年か。

 七色の人形遣いに、食らうだけの価値が生まれた時。

 成熟し、完成した果実を貪るのはさぞや心躍る一時になる事だろう。

 その瞬間を想像し、幻想郷の管理者はくつくつと実に楽しげに喉を鳴らす。

 一難去って、また一難。

 平穏を望みながら異変に関わり続ける限り、彼女の受難は止まりそうになかった。

 

 

 

 

 

 

「ここは、幻想郷か!?」

「あらあらまぁまぁ。大前提を崩して来るだなんて、してやられましたね」

 

 突如、聖輦船と共に永遠に続く夜空を見上げる荒涼とした大地から夕日の煌めく空の中へと投げ出された二人の反応は、対極に近いものだった。

 徐々に高度を失っていく帆船から、立ち上がれる程度に回復したナズーリンが下界を見下ろしながら叫べば、聖は何処か遠くを眺めながら頬に手を当てて嬉しそうな困り顔をしている。

 

「ナズーリン。今のところ、どうやら聖輦船の制御は星が握ったままになっています。彼女か宝塔か雲山を探し出し、何処かへ墜落してしまう前に対処して下さい」

「了解だ。貴女はどうする?」

「私は、どうやらこの土地で最初の役目を果たさねばならないようです」

 

 微笑を浮かべる聖母が見下ろす先には、異変を終焉へと導く人間代表がぬえからの弾幕を回避しながら、鋭い眼光で聖の視線を受け止めていた。

 

「博麗の、巫女」

「さて。早速ではありますが、組織の頭領として騒ぎを起こした責任を取りに行って来ます」

 

 苦味の入った表情で硬い声を漏らすナズーリンに断りを入れ、聖は聖輦船から決戦の空へと優雅に飛び降りていく。

 

「聖!」

「ぬえ、貴女にも苦労を掛けてしまいましたね」

 

 霊夢の視線に釣られ、驚きと喜びの表情となったぬえの弾幕が止まる。

 そんな少女に近づき、聖は黒髪の頭を何度も優しく撫でた。

 

「聖! 私、私……っ」

「もう大丈夫ですよ、ぬえ。ですが、この場はどうか私に譲って貰えないでしょうか」

 

 頭に触れるその手の平に自分の両手を重ね、震える声で何かを訴えようとする正体不明の少女ににっこりと笑い掛け、再会を喜ぶ尼がゆっくりと前へと進み出る。

 

「霊夢」

 

 対する巫女の隣には、戦線に復帰した白黒の魔法使いが飛翔していた。

 

「さっきの借りがあるから、譲ってやる。負けんなよ」

 

 魔理沙としては、自分もまた現れた新たな強敵と勝負をしたいと強く願っているのだろう。

 だが、その役目が自分でない事も察している。

 故に、親友に決戦を任せ己は後顧の憂いを断つべく露払いを受け持つ。

 

「おい、古明地こいし! 居るんだろ、出て来いよ!」

 

 周辺一帯に届くよう、ありったけの声を張り上げて魔理沙はこいしの名を叫ぶ。

 この異変の始まりから――或いは、もっと以前から暗躍を続けていた無意識の少女。

 これから始まる霊夢と聖の勝負について、最も横槍を警戒すべきは間違いなくさとり妖怪の妹だ。

 

「それとも、こそこそ隠れて人間の腹は刺せても面と向かって勝負するのは恐いかよ! 臆病者!」

 

 解り易く、掛かる者が居るとは到底思えないほど稚拙な挑発。

 だが、妖怪は人間からの挑戦を無視出来ない。

 その声を聞いていながら登場しないのであれば、それは魔理沙の言葉通り「人間に敵わない」という部分を認めた事になってしまう。

 それは、精神に依存する存在にとって容易に致命傷となり得る。

 

「――えー、そんな事ないよぉ。それに、そんなに大声出さなくてもさっきから貴女の近くに居るわ」

「っ!?」

「おわっと」

 

 よって、こいしは乞われるままに姿を現す。

 彼女が居たのは、魔理沙の真後ろ。

 魔理沙は慌てて跨った箒を反転させながら弾幕を放つが、こいしは躍るように旋回し余裕を持ってその光弾を回避する。

 

「ふーん、貴方。この間地底に降りてきた人間でしょ? お姉ちゃんが言ってたもん。変な人間が、家を荒らしていったって」

 

 ニコニコと笑いながら魔理沙を見るこいしからは、凶悪さや恐ろしさといった妖怪特有の雰囲気は感じない。

 むしろ、道ですれ違っても妖怪と気付かないほど自然と周囲の空気と同化しているような希薄さだ。

 遂に捉えた悪戯小娘に、魔理沙は無言のまま五枚のスペルカードを示す。

 この勝負は、霊夢たちの戦いが終わるまで勝つ事も負ける事も許されない。

 決着が付いた時点で、こいしは次の「遊び」を始めてしまうだろう。だからといって単調に長引かせるだけでは、恐らく飽きたこいしが勝負を放棄してしまう。

 今度見失えば、次に見つける事は更に困難になる。

 負けられないし、勝ってもいけない。その上で、相手を楽しませ続ける。

 倒せば良いだけの単純な弾幕ごっことは異なり、薄氷の上を渡るような戦いを要求される魔理沙の頬に一筋の汗が流れていく。

 

「貴方を倒して持ち帰れば、お姉ちゃんたちとの話の種になるに違いないわ!」

「上等だ! やってみろよ、放蕩妖怪!」

 

 激発する両者の弾幕がぶつかり合い、弾かれるように魔理沙とこいしの姿が遠ざかっていく。

 

「良き友人をお持ちですね。大切にしてあげて下さい」

「どうでも良いわ」

 

 去って行く二人とそれを追ったぬえを眺めた後、笑い掛ける聖の言葉を霊夢は軽く肩をすくめて聞き流す。

 

「あんたが異変の元凶ね。元人間みたいだけど、妖怪に魅入られた存在に容赦はしないわ」

「貴女もまた、妖怪を虐げる者の一人なのね」

 

 気負いなく突き付ける巫女からの戦意を受け、悲しそうに眉根を下げ憂いを帯びた表情で首を振る聖母。

 

「貴女の妖怪を全て排除する考え、私にはそれを否定する事は出来ません。ですが、私は気付いたのです。神も仏も妖怪に過ぎないと」

 

 信仰と畏れ。幻想を生む表裏一体であるその二つのエネルギーの源は、どちらも変わらず人間だ。

 

「妖怪として排除するか、神様として崇めるか。それは、人間が決める事なのです」

 

 人間が創り、人間が定め、人間がその取捨を選択する。

 その結果が外の世界であり、人間の決定に逆らった者たちの集う地が幻想郷なのだ。

 

「言ったでしょう、どうでも良いわ。あんたは異変の元凶で、幻想郷に混乱を招く厄種。だったら、私のするべき仕事は一つよ」

「私はこれから、私を解放してくれた者へ恩を報いに行かなければなりません。再び私を封印すると言うのなら──私は精一杯抵抗します」

「うん、頑張れ」

 

 敵でありながら、霊夢は聖を否定しない。厳しくも優しくもせず、ただありのままを受け入れる。

 

「ああ、私の巻物に法の光が満ちてくる」

 

 魔人経巻。聖が長い封印の中で作製した、無限の内容量を誇る巻物が開かれる。

 僧侶の頭上にて展開する光帯のみの文字列が激しく流れ、一騎当千を誇る彼女の魔力と法力を更に天上へと引き上げる。

 法と魔。相反する力でありながら、聖は二つの力を体内で別々に循環させているのだ。

 人間を殺し、妖怪を滅し、神を屠る。全てを可能としながら、この女性が求めているのは常に平穏と融和という全ての生命の平和のみ。

 

「私は、妖怪に味方する奴は全員倒すつもりだから」

「私が寺にいた頃と人間は変わっていないな。誠に薄く、軽挙妄動であるっ!」

 

 人間だから、妖怪だから、神だから。

 膨大な力を発する魔僧が、そんな隔絶を生む世界の無情なる摂理に対し高々と怒りを唱える。

 

「いざ、南無三──!」

 

 正しい心を持つ僧侶と不変の精神を培った巫女の戦いは、聖の宣言を持って開始となった。

 

 

 

 

 

 

 一体、何度拳が振るわれただろう。

 どれだけの法力を込めて、少女は妖怪を叩きのめしただろう。

 

「ぜぇっ……ぜぇっ……ぜぇっ……」

 

 一輪の顔中に溢れる球となった汗が、頬を流れて次々と地面へと落ちていく。

 開始から今に至るまで、この僧侶は鬼からの打撃を一撃すら受けてはいない。

 だが、幾ら殴り飛ばしても血塗れのまま平然な顔をしている萃香と比べれば、消耗の度合いは明らかに一輪の方が上だった。

 当初、制限を設けて始まった小鬼との勝負は、予告されていた時間を超えた現在も続けられていた。

 萃香の出した決着の条件は、「砂時計の砂が全て下へ落ちるまで」。

 しかし、鬼の能力によって何処かから呼び寄せられたその道具は、上部に残った一握りほどの砂が下へと落ちる為の細まった部分に詰まりその機能を停止していた。

 落ちるべき砂が残っている以上、この勝負の終了はどちらかが完全に敗北するまで続けられる。

 当然、その故障は偶然ではない。

 鬼は嘘を吐かないが、本当の事を言うとも限らない。

 もっとも、そんないやらしい手管を使う鬼は一輪の前で首を鳴らす化け物くらいだろう。

 百を超える激突の続きを始めようと萃香が足を踏み出そうとしたその瞬間、幻想郷の彼方から強烈な二つの波動が二人の肌を撫でる。

 

「これは――まさか、星!?」

 

 初めて感じる強大な妖気とはいえ、仲間の気配を間違えたりはしない。

 仏の化身が妖怪へと立ち戻っている事を理解した一輪が、慌てて気配の送られて来た方角へと振り向く。

 

「くはっ、くははっ。足掻くじゃないか、半端者」

 

 対して、うつむきながら低く笑う萃香が感じているのは、地脈と繋がる事で限界以上まで高まった人形遣いの魔力だ。

 今回の余波は、かつて吸血鬼異変で感じたほどの衝撃ではない。

 だが、だからこそあの魔法使いが力の使い方を学び、また一つ高みへと近づいた可能性を示している。

 

「あー。お前、名前なんだっけ? まぁ良いや。とりあえず、お前さんの心が折れる(気が済む)まで()りあうつもりだったけどさ――」

 

 張り付いた軽薄で凶悪な笑みをそのままに、幻想郷が誇る頂点が告げる。

 

「悪い、飽きた」

 

 まるで天気を語るようなあっさりとしたその言葉は、この勝負の終わりを宣言するものだった。

 もしかすると、彼女にしてみればこれは最初から勝負ですらなかったのかもしれない。

 

「舐めるなあぁぁぁ!」

 

 震える足を叱咤し、尽き掛けの体力を総動員して雲の拳をまとった僧侶が全力で四天の鬼へと全力で駆け出す。

 振るわれる彼女の拳に合わせ、萃香が繰り出したのは頭。

 衝突の後、骨の折れる濁音と肉の引き裂かれる無残な雑音が起こる。

 

「ぎゃあぁぁぁぁぁあっ!」

 

 絶叫を上げたのは、今まで優勢に戦っていたはずの一輪だった。

 砕けた骨が肉から飛び出すほどにぐちゃぐちゃになった右腕を押さえ、そこから起こる気が触れてしまうほどの激痛に悶える。

 

「な、何故……!? 私の法力は、確かに……っ」

「あぁ、お前さんの忌々しい封印はしっかりと効いてるよ。そうでなけりゃ、今頃その細腕は血煙に変わってるさ」

 

 絶え難い痛みから涙を流す一輪の疑問へ、萃香は右腕を回しながらのんきな声で答えを返す。

 一輪とて、一流の法力僧だ。聖の側近の一人として、その実力は間違いなく本物だろう。

 だが、どれだけ力を封じたところで、それで止まる程度の存在を鬼とは呼ばないのだ。

 理不尽にして、絶望の体現。

 一輪の敗因は、鬼という存在の本当の恐ろしさを知らなかった事だろう。

 

「くっ」

 

 潰された右腕へ雲を巻き、残された左腕のみで構えを取る一輪。

 諦めの悪い妖怪僧侶から一歩二歩と離れながら、呆れ顔をする小鬼の全身から封をされてさえ留められない膨大な妖気が溢れだす。

 

「おいおい、さっき言ったばかりだろうに。もう、お前さんの遊び相手は飽きたってさぁ!」

 

 「密と疎を操る程度の能力」。砂時計に細工を施しているように、妖気の大半を封じられても能力は発動可能だ。

 

「あ……あぁ……」

 

 縦に、横に、一輪の腰ほどだった萃香の身体が加速度的に肥大化していく。

 絶望に染まる僧侶を見下ろし、山と見間違うほどの巨人と化した大鬼がその右足を振り上げる。

 例え相手が戦意を失っていようが、挑まれた勝負に半端はしない。

 

『これが、「力」を封じられたか弱いわたしの精一杯だ。それじゃあね!』

 

 一輪を守るように雲山が巨大化を開始するが、その工程が終わるより早く全体重を乗せた萃香の足が嬉々として踏み付けられた。

 どれだけ筋力が落ちていても、その重さは変わらない。

 周辺一帯へ巨大な亀裂と盛大な地震が発生するほどの重量による、無情なる押し潰し。

 範囲の中にあった木々の全てを巻き込み、踏み締められた足の形へと大地が大きく陥没する。

 しばらくして、眼下にある一切を圧殺し終えた萃香が、満足したのか煙でも出そうな勢いで一つ荒い鼻息を漏らす。

 

『ふふぅんっ――お、おぉ!?』

 

 大鬼が元の大きさへ戻ろうとしたその時、彼女の顔が驚愕に染まる。

 

『おわったったったぁ!』

 

 生きるものなど居ないはずの足下から一気に捲り上げられ、萃香はその巨体のまま盛大に尻餅を突く。

 

「いたたた。あー、なるほど。こりゃ驚いた」

 

 お尻の形で出来上がった二つ目の窪地にて、ようやく小鬼のサイズへ戻った萃香が苦笑いで頭を掻く。

 隕石の落下地点と見間違うほどとなった大穴の底に、血塗れの少女の姿があった。

 完全に白目を剥いており、最早意識はないのだろう。

 それでも、命を振り絞るほどの意地と矜持を持って、その足はしっかりと大地を踏み締めていた。

 立ったまま気絶する一輪の前に、雲の巨人が少女を守護するように立ち昇る。

 

「やめとけやめとけ。挑むってんなら受けて立つが、もう加減はしてやれないよ」

 

 蔑むでも馬鹿にするでもなく、入道の蛮勇をからからと笑う小鬼。

 法力による結界を構築していた術者が気を失った以上、萃香の妖気は十全に発揮出来る状態へと戻っている。

 雲山一人が挑んだとしても、それこそ戦いと呼べるものすら起こす事は不可能だろう。

 

「やれやれ、勝負に勝って試合に負けるかぁ。どうにも霊夢に負けた辺りから、ケチが付きっぱなしだなぁ」

 

 しみじみと愚痴をこぼしながら、萃香の身体が霧へと変じてその場から消滅する。

 巨大化した萃香が一帯を蹂躙した事で、機能を停止していた砂時計は見事に粉々になっていた。当然、中に入っていた砂は全てが地面へとこぼれてしまっている。

 今一度の確認となるが、この勝負の決着の条件は「砂時計の砂が全て下へ落ちるまで」。そしてそれは、同時に一輪の勝利条件にもなっていた。

 鬼から勝利をもぎ取った英雄となりながら放置された相棒を、雲の身体が優しく包み萃香と同じように何処かへと消え去っていく。

 地形が変形してしまうほどの壮大な自然破壊にて終幕となった決着の跡地だけが残され、戦いの終わりに一陣の風が吹く。

 萃香本人にとっては軽く遊んだだけのつもりでも、この大惨事である。鬼の頂点にとって、地球という大地そのものが脆弱過ぎるのだ。

 嵐の過ぎ去ったこの広大な荒地を復元するには、それなりに長い年月が掛かるだろう。

 壊すは易く、直すは難し。管理職の仕事は、異変が終わった後からこそが始まりだった。

 先に待つ苦労を思い、スキマを使い彼方の屋敷から戦場を監察していた九尾の狐が盛大な溜息を吐き出すのだった。

 

 

 

 

 

 

 霧の湖は、無縁塚と同じく外の世界と繋がりを持った不安定な霊域だ。

 故意か偶然かは解らないが、この湖には時折外の世界の海と繋がる時期が訪れる。内陸にて隔離された幻想郷にとって、貴重な海洋の資源を得る事の出来る重要な土地なのだ。

 そして、海と関わりの深い妖怪にとってこの場所は最高のフィールドだった。

 

「く……がぼが……っ」

 

 『サブタレイニアンサン』――

 

 地獄鴉の全身から、神の焔が吹き上がる。しかし、霧の湖から伸びる何本もの水橋がお空の火力に勝る勢いで彼女を空中の水面へと沈めていく。

 

「海底火山って知ってる? あんた程度の小娘が幾ら炎を撒き散らしたって、海の深さと大きさの前に全て飲み干されるだけよ」

 

 湖面に立ちながら特大の水球となった擬似的な海を見あげ、村紗は溺れてもがく哀れな小鳥を嘲笑う。

 「水難事故を引き起こす程度の能力」。その脅威と絶望を知るからこそ、村紗の操る水は強力だ。

 その追想の産物は、或いは実物の海よりも更に深く暗いものと言えるかもしれない。

 

 ――見ていられんなぁ。

 

 地鳴りを彷彿とさせる、呆れと怒りを伴った低い唸り。

 

「(かみ……さま……?)」

 

 身体の内側から発せられた隣人の声に、お空の動きが止まる。

 肉体を共有するが故に、彼女には八咫烏が抱くマグマのような激怒を身近に感じ取っていた。

 太陽の化身を、高が火山と見誤った。

 舟幽霊の少女は、神の逆鱗に触れたのだ。

 

 身体を貸せ。

 あの愚かで矮小な水死霊の眼前に、天上の大火を侮った末路を示してやろう。

 

 肉体の制御を奪う事も可能だというのに、八咫烏がわざわざ断りを入れる理由。

 それは、神を受け止めたお空への敬意と小娘に押し込んだ蛇神への意地だ。

 

「(……ダメ、だよ)」

 

 そして、確実に勝利を得られるであろう神からの申し出を、無垢なる少女はきっぱりと拒絶する。

 

 ほう、何故だ。

 

「(うつほ、さとり様に聞いて知ってるよ。そういうの、「子供のケンカに親が出る」って言うんでしょ)」

 

 その格言の意味を本当に理解しているのかは定かではないが、少なくとも引用方法は間違っていない。

 

 ふんっ。では、どうする。

 このまま諸共に溺れ死ぬか?

 

 求められるだけ力を貸し、不要となれば去る。

 元より半端な分霊だ。不敬な亡霊への怒りはあるが、お空が求めない限り八咫烏が動く事はない。

 

「(これは、うつほの始めたケンカだよ。かみさまじゃなくて、うつほが勝たなきゃいけないんだ。だから――)」

 

 お空にだって、意地があるのだ。

 勝負の勝ち負けよりも優先するべき、譲れぬ一線。

 求めるものは、初めから用意された味気ない結末などではない。

 己の意思と努力によってもぎ取る、勝利という名の燦然(さんぜん)と輝く誉のみ。

 

「(だから、やり方教えて!)」

 

 クカ――クカカカカカカッ!

 

 お空の純真な願いに、彼女の内側で実に愉快だと言わんばかりの哄笑が響く。

 

 吠えたな小娘!

 半端な焔では承知せんぞ!

 

「(うにゅ、頑張る!)」

 

 心の中で空の少女が大きく頷いた瞬間、それは起こった。

 ゴボリッ、と水球の中で大きな気泡が生まれたのを皮切りに、溺死し掛けていたはずの怪鳥の放つ熱量が一気に増大していく。

 

「はは、何をやったって無駄無駄……え?」

 

 水球を眺める村紗の嘲りは、最後まで続かなかった。

 赤から白へ、白から青へ。際限なく上昇する炎の温度に、次第に水牢の方が悲鳴を上げ始める。

 

「う、嘘だ……っ。その技は聖が、聖だけが破れるんだっ。なんで、お前が!」

 

 焦りを浮かべる舟幽霊が湖から追加の水柱を上げるが、所詮は焼け石に水だ。

 爆発にも似た轟音が響き、臨界に達した八咫烏の炎がその身を覆う全ての水を蒸発させてしまう。

 それは、正しく太陽の具現。

 お空という少女を内包する極大の火球が、漂い続けていた霧すらも気化させ周囲の温度を強制的に引き上げる。

 全身に幾何学的な紋様を浮かび上がらせた少女の制御棒へと、天上の大火が収束していく。

 

「グ……ぐギ……が……っ」

 

 白目を剥き、半ば意識を失うほど内から溢れる力に翻弄されるお空が、その発射口を獲物へと向ける。

 その対象は、対戦相手である舟幽霊ではなく、遠く彼方を飛翔する別世より帰還した宝船。

 溜まりに溜まった神の火力を地上へと放てば、霧の湖はおろか紅魔館を含めた一帯が第二の灼熱地獄へと変貌してしまう。よって、照準は横か上に限られる。

 

「やめろおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 

 お空はそこまで考えていないのだろうが、大切な聖輦船を狙われれば村紗はその一撃を防ぐ為、射線へと躍り出なければならない。

 

 爆符 『ペタフレア』――

 

 太陽を侮った愚か者へと、極限となった熱の光線が解き放たれる。

 その射線にあるものは、空気であろうと容赦なく灰燼(かいじん)に帰す日輪の一撃。

 

「――」

 

 苦し紛れに生み出した舟幽霊の水球など、お空の火砲にとっては水滴ほどの価値すらない。

 全てを蹂躙し、幻想郷の何処からでも見えるほどの光の帯が空の彼方へと直進していく。

 

 ふむ。九分九厘まで殺しておいて、虫の息だけ残すとは。

 存外器用な真似をするな、小娘。

 

 哀れな末路として墜落していく焼け焦げた少女に対し、無感動に呟く太陽神。

 遠くを飛翔していた聖輦船にも大穴が開き墜落を開始しているが、お空にとってはもうそのどちらも興味の対象から外れていた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁ……っ」

 

 神の戯言に答えを返さぬまま、荒い息を整える間も惜しいと地上へと高速で飛翔するお空。

 目的地は、森の中へ置き去りにしていた相棒であり親友であるお燐の元。

 

「が、がぼ……っ」

「な、なんで!? どうして!?」

 

 未だ海水を吐き出し続けるお燐の悲惨な姿を見て、混乱するお空へと八咫烏が溜息混じりに説明する。

 

 当たり前だ、阿呆が。

 元凶が倒れた程度で止まるようなお利口な悪意を、「呪い」とは呼ばん。

 

 村紗を殺さなかった事は、ある意味で正解だ。元凶である彼女が消滅していれば、呪いは更に勢いを増してお燐の身を侵していたかもしれない。

 

「どうしたら……っ。ねぇ、どうしたら良いの、かみさま!」

 

 所詮我らに出来るのは、己が身より溢れるこの力にて照らすか焼くかだ。

 精々この猫娘が、呪いを蒸発させ終えるまで生き永らえるよう願うしかあるまい。

 

 神とて万能ではない。

 八咫烏ほどの高位の神であれば、本来呪いの解呪なども権能として備えている。

 しかし、力を求めたお空へと降りた分霊の身では、敵の殲滅に特化した部分の権能しか発揮出来ないのだ。

 火車の妖怪であっても、神の焔は相当に堪えるだろう。だからといって、これ以上時間を掛けてしまえばお燐の体力が底を付く。

 もう、選択肢を迷っている暇さえ残されてはいない。

 

「お燐、頑張って……っ」

「ちょーっと待ったー!」

 

 制御棒を外し、震える右手で神気を高めた焔を親友へと向ける太陽神の末席へ、森の中から突然制止の声が掛かる。

 

「河童さん?」

「おうよ。幻想郷の頼れるエンジニア、河城にとりさんだぜい」

 

 被った帽子を親指で持ち上げながらニヒルに笑うのは、普段は妖怪の山の川底で日夜研究と創作を行っている技術者の一人だ。

 背中の大型リュックに加え、何処かで手に入れたのか現代風の肩掛け鞄が追加されている。

 

「いやー、湖の知り合いに頼まれもん届けに来たらいきなりドンパチが始まっちゃうんだもんなぁ。恐くて隅で震え――ゴホンゴホンッ。冷静な対処で息を潜めてたけど、こんな絶好の機会が来てくれるなんて役得役得」

「?」

「いやいや、こっちの話さ」

 

 首を傾げるお空に手を振って誤魔化し、悶え苦しむ事さえ止まり始めた妖猫へと向き直る。

 

「私は、水を操るのが得意な妖怪でね。当然、呪いの掛かった水だって操れる」

 

 「水を操る程度の能力」。これは、河童にとっての基本技能とも言えるものだ。

 だが、水の中に生きる種族だからこそ普通の術者程度では、及びも付かないほどの技術を身に付けている。

 水難事故により海底へと沈み、業と呪いを溜め込んだ上に修業を積んだ亡霊であっても、河童の技能を超える事は難しい。

 

「さて、そこで提案だ。この黒猫から呪いの水を引っぺがしてあげるから、代わりに――」

「なんでもする! なんでもするから、お燐を助けて! 河童さん!」

「お、おう」

 

 悪役である自覚はあるのか悪どい笑みを浮かべるにとりだったが、なんの躊躇もなく必死に縋って来るお空に毒気を抜かれ思わず素で頷いてしまう。

 

「おっほん。それじゃあ、交渉成立だ」

 

 気を取り直し、河童の少女が地上で溺れ続ける火車の少女へと両手をかざす。

 ゴボッ、ゴボッ、と二度ほど身体を痙攣させたお燐の口から、黒々とした泥の塊りの如き球体が吐き出された。

 

「うっへぇ、ドロドロじゃん。こんなの食らって、良く今まで生きてたもんだ。流石は地底の妖怪ってところか」

 

 宙に浮かべた呪いの水を眺め、露骨に顔をしかめるにとり。

 呪いには精通していない彼女であっても、この水がどれほどえげつない代物かおぼろげに理解出来るのだろう。

 

「ほら。コイツが、この娘の身体に入ってた呪いだよ」

「こいつめぇ! えい!」

 

 操る事は出来ても、乗せられた呪いまで浄化する事は出来ない。にとりから放られたその水球を、お空が怒りを込めた火炎の拳にて叩き潰す。

 

「ごほっ、ごほっ……すぅっ」

「お燐! お燐! 良かった、よ゛がっだぁ」

 

 呪気を抜かれたお燐は、残った海水を吐き出した後でようやく正常な呼吸へと戻る事が出来ていた。

 顔色も戻った親友を、お空が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で抱き締める。

 

 あのさとりの片割れめ、余計な手引きをしてくれる。

 結末を見届けぬ善意など、性質の悪い悪意よりも始末に負えんだろうに。

 

 喜びから泣き叫ぶ少女には、内側で唸る八咫烏の不機嫌な声は聞こえていない。

 孤独の中で遊び続ける無貌(むぼう)の少女に罪がないのだとしても、その先にある未来に責任を負えないのだとしても。それでも、もう彼女は許されるべきではないのだ。

 出会って、分かれて、繋がって、離れる。

 他人が勝手に編み込んだ(えにし)も、例外ではない。

 神の依り代と、河童の少女の邂逅。縁り編んだ(えにし)たちは、一体何処に届くか。

 神すら知る由もない無限の可能性へ向けて加速する幻想の日常を、止める(すべ)はなかった。

 




注意・サブタイトルにネタバレが含まれています。

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