ラインハルトと一夜を共にしたヒルダは習慣で何時もの時間に目を覚ました。
目の前にはラインハルトの寝顔がある事に昨夜の事が夢では無いと確信する。
ラインハルトの寝顔に思わず笑みを浮かべて、このままラインハルトが起きるまで眺めたい衝動を抑えると、手早く衣服を着て部屋を後にする。
部屋の外にはキスリングが直立不動の体制で見張りをしていたが顔を合わせる事が出来ずに俯いたまま挨拶をすると一目散に早足で、その場を離れるのであった。
屋敷に帰りつくと先ずはシャワーを浴びて新しい衣服に着替える。時刻は既に朝食の時間である。
父と顔を合わせたくないが食堂に顔を出さぬ訳にもいかずに重い足取りで食卓に向かうヒルダであった。
ヒルダがラインハルトの部屋を出た直後にラインハルトも目を覚ましたのである。
目を覚ました直後にラインハルトは昨夜の事を思い出して数分の間は茫然自失していたが我に帰ると表面上は皇帝の威厳を保つ為に平然としながらキスリングに指示を出した。
「キスリング。花束を用意しろ」
「陛下。どの様な花束を用意すれば宜しいでしょうか?」
「何でも良い。いや、その女性が喜びそうな花束を用意せよ!」
皇帝の威厳を保つ為に平然とした態度を取る筈が、すぐに綻び始めていた。
「御意。では、花屋が開店したら届ける様に手配して来ます」
「ま、待て!」
「はい。陛下、何でしょうか?」
「そうか。花屋は開いて無いのか。では、庭に薔薇が咲いていたな。あの薔薇で花束を作れ!」
「御意」
キスリングも表面上は真面目な表情をしていたが内心は呆れていた。
(はあ。以前にミッターマイヤー元帥から黄色の薔薇の花言葉の話を聞いていた筈なんだが)
庭の薔薇から黄色の薔薇だけを残して花束を作る様に部下に命じるキスリングであった。
もし、この場にアンネローゼが居たなら、「光年以下の事に興味が無いにも程がある」と弟に対して小言の一つも言ったかも知れない。
そして、幸か不幸かキスリングの部下達が薔薇を摘む為に庭に大挙して来る物音で目覚めたハンスは執務室の窓からキスリングの部下達に声を掛ける。
「グーテンモルゲン。親衛隊が朝から何をしてるの?」
「グーテンモルゲン。はい。庭の薔薇で花束を作れと陛下の勅命でして」
「そりゃ、朝から大変だね」
逆行者であるハンスもラインハルトとヒルダの結ばれた経緯は知らなかった。
皇帝のプライベートな部分まで公表する王朝も無いから当然である。
事情を知らぬ為にハンスも慣れぬ作業をする親衛隊に同情して窓から庭に出ると親衛隊を手伝い始めた。
「花束用の薔薇を摘む時は刺も切っておかないと危ないからね。切った薔薇は水揚げしないと長持ちしないから」
知識だけは豊富なハンスであった。無駄に八十過ぎまで生きていた訳では無い。
「詳しいですね。閣下」
「同盟に居た頃に生活の足しになればと家庭菜園に手を出した時の知識だよ」
作業も終わりハンスも着替えの為に帰宅する気でいたが、ラインハルトに発見されて捕まってしまった。
「良い時に居た。卿も同行せよ」
キスリングに運転手役を命じてハンスだけを伴いラインハルトはマリーンドルフ邸に向かうのである。
「陛下。朝から花束を持って何処に行くんですか?」
「煩い。卿は黙って付いて来れば良い」
行き先も告げずに訳も分からずにラインハルトに地上車に同乗させられたハンスとしたら当然の質問であった。
「陛下。到着しました」
到着した先はマリーンドルフ邸である。鈍いハンスでも事態を把握したのである。
(はあ。プロポーズくらい一人でしろよ)
内心は呆れていたハンスであったが、事態はさらに悪化していくのであった。
ラインハルトの来訪を受けた執事は気の毒な程に動転しながら主であるマリーンドルフ伯を呼びに行く。
(そりゃ、朝も早くから皇帝が玄関に居ればねえ)
執事の報告を受けてマリーンドルフ伯が玄関に現れるとキスリングとハンスの試練の幕開けであった。
「これは、陛下。今日はどの様なご用件でお運びに?」
「マリーンドルフ伯。早朝から騒がせて申し訳ない。これをフロイラインに差し上げたくて」
ラインハルトは薔薇の花束をマリーンドルフ伯に手渡した。
「フロイラインは花が好きであろうか?」
「嫌いでは無いと重います」
(二人共、花が好きかも知らんのかい!)
「その、ミッターマイヤー元帥は求婚の時に見事な花束を渡したというので」
「左様で」
(何もミッターマイヤーを手本にする事はないだろう)
「その、伯の令嬢を妃に迎えたくて、その結婚の許可は頂けないだろうか?」
(おい、先に父親に言うな!)
「フロイラインに、もし、その、あの様な事をして責任を取らないと余は淫蕩なゴールデンバウムの皇帝達と同類になってしまう。余は奴らと同類になりたくないのだ」
(おい、フロイラインへの気持ちは無いのかよ。それに父親に何を報告しているんだ!)
ハンスは呆れていたが確かにラインハルトは自身の気持ちだけでありヒルダの気持ちを考えていないが誠実で有ろうとする若者の潔癖さの発露であった。
「陛下が責任を感じる必要はありません。娘も自分の意志で陛下の相手をしたのでしょう。一夜の事で陛下の一生を縛る様な娘ではありません」
「だが、」
「それに娘も気持ちの整理がついていないので陛下に失礼な言動があるやもしれません。娘には後日、大本営に行かせますので今日はお引き取り願えましょうか」
「その、マリーンドルフ伯にお任せする。早朝からさわがせて、すぐに返答が出来ない事を申し出た非礼を許して欲しい」
(見事な門前払いだな。伊達に国務尚書を務めてないわ)
帰りの地上車でハンスに意見を求めるラインハルトにハンスの返答は冷たかった。
「臣は独身ですから御下問されても困ります!」
遠回しで友人として聞けと言っている事を理解したラインハルトは再度、友人として意見を求めた。
ラインハルトにしたら藁をも掴む心境であった。
「では、友人として言わせて貰うなら!」
ハンスはいきなりラインハルトの胸元を掴み頭の位置を下げさせると拳骨を二発、ラインハルトの頭に見舞うのであった。
「な、何をする!」
「今のはフロイラインとマリーンドルフ伯の怒りじゃ!」
「えっ!」
「何処の宇宙に婚前交渉をした事を娘の父親に報告する馬鹿がいる!」
「あっ!」
「それに、フロイラインの気持ちも確かめずに事に及んだのか!」
ラインハルトは同じ年代の独身者としてハンスに意見を求めたが、ハンスには年頃の姉がいて心情的にはマリーンドルフ伯に近い事を失念していた。
普段のラインハルトなら考えられないミスであったが、ラインハルトも人である。想定外の事態に動揺していたのだ。
「それに、まさかとは思うが避妊はしたんだろうな?」
ラインハルトの口での返答は無かったがラインハルトの表情が代わりに返答していた。
「お前は高校生か!」
ラインハルトの私室に避妊具等が最初から有る筈もないのだが、ハンスの怒りは正当とも言えた。
「フロイラインが妊娠でもしてみろ。フェザーン遷都に先立ち秘書官抜きで準備をしてフロイライン抜きで大本営を運営しないとならんぞ!」
ハンスの懸念する事も当然であった。妊娠中のワープが胎児に対しての悪影響は常識であったからである。
ラインハルトはハンスに指摘されて顔色は青を通り越して白色になっている。
その後、ハンスの説教は地上車がハンスの自宅に到着するまで続いたのであった。
ラインハルトが自分の執務室に戻ると副官のシュトライトとリュッケがラインハルトを探し回っていた。
「陛下、出勤するとキスリングと共に行方が分からずに心配しましたぞ」
ラインハルトは過度の護衛等を嫌い一人で外出する事もあったのでキスリングを連れているだけ安心していたのだが、シュトライト達にすれば心配な事には変わりない。
「すまぬ。フロイラインの見舞いに行っていたのだ」
「そう言えばフロイラインの姿も見ませんでしたな」
「昨夜、急に体調不良になってな」
「最近、大本営と遷都の準備で忙しい様でしたからね」
リュッケも声を出して納得していた。
「うむ。フロイラインに万が一の事が有ればマリーンドルフ伯に会わせる顔が無いのでな。余もフロイラインに頼り過ぎだと反省している」
こうして、ヒルダ不在の理由も臣下達の間に浸透していったのである。
臣下達、特に事務局の若い女性事務員達を中心にヒルダとラインハルトの仲を好意的な噂が流れるのに時間は掛からなかった。
後日、無駄に勇気のある女性事務員がハンスに噂の真偽を確認したものである。
「何だ。そんな噂が流れているのか。本当だったら陛下の胸ぐらを掴んで拳骨の二、三発はお見舞いしているわ」
ハンスの返答に女性事務員は落胆したものである。
(若い女性が、この手の噂好きなのは帝国も同盟も変わらん。今回の噂は邪推ではなく真実だからなあ)
女性事務員から茶に誘われたので内心は期待していたハンスにしたら落胆したいのは自分だと思いながらも嘘は言っていない。
「しかし、秘書官殿が不在でフェザーン遷都は大丈夫なのかな?」
ハンスの懸念はヒルダを知る者の全員の懸念でもあった。