トリューニヒトの死刑執行した翌日にハンスは出勤と同時にラインハルトから執務室に呼び出された。
「卿は何を考えているのだ!」
常人なら震えあがるラインハルトの怒鳴り声にハンスは平然としている。
「陛下が何に対して激怒されてるのか。臣には理解が出来ませんな」
この様な時に限り形式的な返答をするハンスが腹立しい。
「トリューニヒトの件だ。死刑は認めたが虐殺しろとは言ってない!」
「ほう。陛下はトリューニヒトの死刑執行の方法が気に食わないのですか?」
「当然であろう。それにトリューニヒトの家族も自殺に追い込んだな!」
「狡いですよ。陛下」
「余の何処が狡いと言うのか?」
ラインハルトにしたらハンスに批判される理由は無いと思い込んでいた。
「スフィンクス頭にフライパン頭の家族も大逆罪で死刑にしましたね」
ハンスがリップシュタット戦役の話を持ち出したがラインハルトも、その程度では怯まない。
「あれは、旧王朝の法に従ったまでのだ!」
「そうですか。なら、リヒテンラーデ侯の一族の時は?」
ラインハルトの怒りも一気に沈静化する。
「あの時、陛下は難癖を付けてリヒテンラーデ侯を殺しましたね」
「あれは、互角の権力闘争だった。半歩遅れていれば卿も余も殺されていた!」
「話を誤魔化さないで下さい。私が問題にしているのはリヒテンラーデ侯の一族の話です!」
流石にハンスには誤魔化しは通用しなかった。
「十歳以上の男子全員を死刑にしましたね」
「命令を出したが実行されては無い!」
「ええっ、私が邪魔をしましたからね。私が邪魔をしなければ歴史上で珍しくない大量虐殺でしたけど」
流石のラインハルトも黙るしかなかった。ハンスは事実を述べているだけである。
「陛下は門閥貴族の復讐者として、復讐の美酒を飲み。私には復讐の美酒を飲ませないのは狡くないですか?」
この時のハンスの声はオーベルシュタインも凌駕する冷たい声であった。
ハンスの質問はラインハルトを完全に叩き伏せた。
ラインハルトも門閥貴族に対しての復讐者であり、ハンスも同盟の支配層に対する復讐者であった。
「余が間違えていた。卿の主張は正しい。下がって宜しい」
ハンスは一礼すると執務室を退出する。そして、退出する寸前にラインハルトに爆弾を投げた。
「因みにですが、うちの姉も当日は仕事の都合で見物に来れない事を残念だと悔しがっていましたよ」
ハンスの姉のヘッダも幼少時代に麻薬組織に国を追われて帝国に亡命したのである。帝国で成功した人間でさえトリューニヒトに対しては憎しみが残していたのである。
一般の亡命者やサイオキシン麻薬の被害者達の心情は押して知るべきであった。
もし、国防委員長としてトリューニヒトが和平路線を進めていたらラインハルトが簒奪した銀河帝国との共存が成し得たかも知れないのだ。
そうであれば、ハンスだけではなく多くの人の人生が変わったかも知れない。
ヤン・ウェンリーは奨学金を受けて大学に進学して歴史家の道を歩んだかも知れない。
アッテンボローはジャーナリストの道を進んだかも知れない。
ハンスも料理人か歴史家の道を進んだかも知れない。
そして、ハンスだけが知る事実であるが逆行の世界ではトリューニヒトの遺族はバーラト政府時代にハイネセンで何者かに虐殺されている。
結局は事件は迷宮入りしたのである。容疑者はハイネセン市民全員であり、捜査員達自身も積極的に捜査を進めなかったのである。
ハンスがトリューニヒトの家族を自殺に追い込んだのはハンスの慈悲だったかも知れない。
逆行前と後で変わらない事実はハイネセンの墓に葬られたトリューニヒトの遺体は盗み出されて数年後に山の中でバラバラの骨として発見される。
検証の結果では何者かが盗み出した後で遺体に鋭利な刃物で複数の人間が刺したりバール状のもでメッタ打ちにした痕跡が認められた事である。此方も迷宮入り事件となっている。
そして、その日ののラインハルトは珍しく覇気が無かったが仕事に影響する事もなく一日を終了したのである。
「フロイライン!」
閉庁して帰宅の徒につこうとしたヒルダをハンスが呼び止めた。
「ミューゼル上級大将。何か用事でしょうか?」
「実は今朝の事で陛下の御様子が心配でしてね」
「大丈夫だと思います。何時もよりは元気が無い御様子でしたけど」
「不味いなあ。フロイラインに見抜かれる様だと」
ハンスには恩義もあるヒルダにしたら張本人が何を言うのかと言いたい気分である。
「私では駄目だからなあ。心苦しいがフロイラインには陛下の御様子を見て来て頂きたい」
ラインハルトを心配するハンスにヒルダは笑いが込み上げでくる。
(この二人、本当に仲が良いわね)
内心の感想は口にせずにヒルダは快くハンスの依頼を受けたのであった。
ヒルダがラインハルトの私室に行くのを確認してからハンスは自分の執務室に戻りヒルダの帰りを待つ事にする。
ハンスが心配して自分の執務室に待機しているとは知らないヒルダはラインハルトの私室を訪れて驚愕した。
ラインハルトは月明かりだけが照らす部屋でグラスに注がれた赤ワインを椅子に座り見つめていた。
既にテーブルには空のワインボトルが二本がある。酒を嗜む程度にしか飲まないラインハルトにしては有り得ない酒量である。
「あの。陛下」
「ああ、フロイラインか」
「これ以上のワインは玉体に触ります」
ラインハルトがハンスの言葉に想像以上の衝撃を受けていた事にヒルダも在り来りの言葉しか出て来ない。
「余は本当に未熟だな。ハンスには自分の偽善を指摘され、今は酒に逃げる事をフロイラインに窘められる」
「陛下。完璧な人間など宇宙には存在しません。陛下が足りない部分が有るのも当然です。そして、足りない部分を臣下が補補うのも当然です」
「しかし、余は足りない部分が多くフロイライン達に過度の負担を掛けて居るのではないか?」
「その様な事は有りません」
「しかし、余は何時も、キルヒアイスやハンスにフロイラインに甘えている気がする。だから、ハンスも日頃の不満が溜まっていたのではないか?」
ラインハルトはハンスに対してキルヒアイス程では無いが大きく依存している事は理解していたが想像以上に依存していた様である。
「おめでとう御座います。陛下」
ヒルダの言にラインハルトも虚を突かれて唖然とした顔でヒルダの顔を見る。
「フロイライン。何故に?」
「はい。ミューゼル上級大将が陛下に遠慮が無く直言が出来るのも陛下に臣下の言葉に耳を貸す器が有ればこそです。陛下が臣下の言葉に耳を貸す器がある事を祝い申し上げたのです」
ヒルダの言葉は事実でもあった。ラインハルト自身も士官時代に無能な上官に進言しても耳を貸さない上官が多く進言を止めた事が何度もある。
「しかし、本来なら臣下が進言しなくても行動するのが余の立場であろう」
「先程も申しましたが完璧な人間などは宇宙に存在しません。主君の足りない部分を補うのが臣下の務めで御座います」
ヒルダの言葉にラインハルトも少しだけ笑顔を出した。
「フロイラインは優しいな。余は狭量だからな。昔、キルヒアイスに言った事がある。優しくするのは俺と姉上だけで良いとな」
ラインハルトはキルヒアイスの前だけにしか使わなかった一人称を無意識でヒルダの前で使っていた。
「それとは別の話です。陛下」
「いや、根本的な部分は同じであろうよ。優しい人間は帝位を簒奪したりせん」
「では、厳しさも人には必要なのでしょう。ミューゼル上級大将が陛下に遠慮無く諫言するのも正解かも知れません」
「そう言えば、ハンスが帝国に亡命したばかりの頃にハンスから扱き下ろされた事があったな」
「まあ。ミューゼル上級大将も勇気のある事ですわ」
「今にして思えば、もっと真剣に耳を傾けるべきであった」
「大丈夫ですよ。ミューゼル上級大将は決して陛下を見放したりしません」
「見放す事は無いが退役したがっている」
これにはヒルダも苦笑で返すしかなかった。
「ミューゼル上級大将の事ですから、陛下が間違えたら怒鳴り込んで来そうですわ」
白衣にエプロン姿のハンスが怒鳴り込んで来る映像を二人は簡単に想像が出来た。
思わず笑ってしてしまうヒルダに嫌な顔をしていたラインハルトも釣られて笑ってしまう。
「夜も遅い。マリーンドルフ伯も心配するだろう」
ラインハルトが椅子から立ち上りヒルダを部屋の外まで送り出そうとした時、ラインハルトが慣れない酒に足を取られて倒れそうになる。
ヒルダは思わず、ラインハルトを支えようとした反動でヒルダが反対に倒れそうになるのをラインハルトが支える。
「有り難う御座います。陛下」
ヒルダが礼を言うがラインハルトからの返事が無い。
ヒルダが不審に思っているとラインハルトがヒルダを抱き締めた。
「今夜は一人でいる事に耐えられそうにない」
決して愛の告白では無いとヒルダは女の直感で理解したが健気に頷く事しかしなかった。
ラインハルトが藁をも掴む思いなのは理性で理解していたが、理性とは別の感情で良い藁になろうと決心した。
ラインハルトとヒルダがベッドを共にする頃、ヒルダの帰りを待ちくたびれたハンスは自分の執務室の椅子で幸せそうに眠っていた。