ハンスはフェザーンでコツコツと引き抜き工作をしていたが流石に一度に八人も引き抜きをすればルビンスキーの耳に入るのは当然である。
形式的には立派な招待状がルビンスキーからハンス宛に届いたのである。
弁務官事務所の古株職員に聞いてみたが前代未聞の事であるらしい。
「亡命したレムシャイド伯の時は直接に連絡があった様ですが、こんな形式的な招待状とかは初めてですね」
「そうですか。こりゃ、引き抜きの件で苦情でも言われるのかな?」
口では心配するふりをしているが、ハンスにしてみれば部下を引き抜かれる方が間抜けだと思っている。
(そんな事で文句を言う程、小さい男じゃないだろう。何か目的があるんだろうなあ)
「断る理由も無ければ断る事も出来んからなあ。それに、ルビンスキーと言えば有名人だから、会ってみたいもんだ」
これはハンスの本音である。ルビンスキーが自分に危害を加える理由も無い。
ハンスの楽天さに古株職員も呆れていた。
「閣下が若いのに出世した理由が理解できましたよ。私達と神経の太さが根本的に違います」
古株職員の事実だが失礼な感想にハンスも気を悪くする事もなく応える。
「うん。普通の人より繊細な神経だからね」
「……」
古株職員を絶句させたハンスは招待に応じる事にする。
(招待状という事は御馳走が出るんだろうなあ)
ハンスの期待は裏切られなかった。死刑囚の最後の夜には御馳走を出すという話が、一瞬、脳裏に浮かんだがハンスは遠慮なく頂く事にした。
「流石に自治領主閣下ですね。良いシェフを抱えておられる!」
既に5枚のステーキと3杯のシチューにサラダを5皿にバターロール8個を食べている。
食後のデザートにケーキを6個食べてコーヒーを飲んでいる。
この二人の様子を見ていたドミニクが必死で笑いの発作を耐えている。
ハンスの食欲に驚嘆したのかルビンスキーが呆気に取られた表情は長い付き合いのドミニクでも初めて見る。
「ち、中将閣下は健啖家でいらっしゃる」
「本当に美味しかったので少々、食が進み過ぎました。特にステーキの焼き加減は絶妙ですね。ミディアムでも中まで火が通り温かく柔らかい!」
「少々」では無いだろうとルビンスキーは思ったが口に出したのは当たり障りの無い言葉である。
「作った者も喜ぶでしょう」
「それで、小官を招いて下さったのは何用で?」
腹を満たした事で満足したハンスは余裕を持ってルビンスキーに質問をする。
「閣下の行っているヘッドハンティングに関してのお礼です」
「嫌味ですか?」
「いえ、これは嫌味でも皮肉でもなく、閣下が簡単にヘッドハンティングされるので不審に思い調べた結果、幹部の中に地位を悪用している者を発見する事が出来ました」
「要は素人が簡単に引き抜くから、調べたらパワハラをしていた人間がいたからで、そいつらを処分したから、もう引き抜きは出来んぞ。という事ですか」
「語弊のある表現ですが、その通りです」
ハンスの悪意ある翻訳をルビンスキーは意外にも認めるとハンスが予想もしない手を打ってきた。
「それで、閣下も手ぶらでオーディンに帰る訳には行かないでしょう。其処で閣下に進呈する物がございます」
ルビンスキーが渡してきたのは一冊の名簿であった。
ルビンスキーに許可を貰って中身を確認すると地方行政の専門家の名簿であった。
「これは?」
「その名簿は帝国への移住を希望する者達です」
驚くハンスにルビンスキーは更に言葉を重ねる。
「今回の件で私に見切りをつけた者達です。全員が帝国で働きたいと言っています」
「……どういう事でしょか?」
「恥ずかしながら、被害にあった者と、その周囲の人間達との人間関係が壊れたのです。それに中将閣下がヘッドハンティングされるまで調査をしなかった私に対して不信もあるのです」
これは、全くの事実であった。それなら帝国に行かせて帝国の地方行政に将来の人脈を作った方が良いと判断したのである。
ルビンスキーと言えども組織内を管理する事は難しいのである。
「分かりました。一応は一人ずつ事実関係を調査してから帝国で働いて貰いましょう」
「有り難う御座います」
「いえ、此方こそ仕事が減って助かります」
「しかし、自治領主閣下は良い別荘をお持ちですなあ」
「いえ、これは私の別荘ではなくアレの別荘で今日の料理もです」
ルビンスキーの示す視線の先にはドミニクがいた。
「あんなに美しい女性を羨ましいですなあ。それに今日の料理も素晴らしいかった。特にステーキの焼き加減はプロでも難しいのに完璧でした!」
手放しでドミニクを褒めるハンスであった。その口調からは社交辞令でない事が分かる。
「しかし、中将閣下は食通で有られますな」
「食通という程では無いですが、そんな私でも分かる程に今日の料理が素晴らしかった!」
「もし、宜しければ私に遠慮なく気軽に来てやって下さい」
「本気にしますよ」
「アレも自分の腕を振るえて歓びます」
「それは望外の喜びです!」
ルビンスキーはハンスをドミニクを使い懐柔するつもりであった。
ハンスもルビンスキーの思惑は分かっていたがハンスにはハンスの計画もあったので、これも策略の一環であると自分に言い聞かせたのである。
実際にはドミニクの美貌と料理に魅せられていたのだが、所詮は凡人のハンスである。
「ついでに大変に厚かましい話ですが、自治領主閣下に医者を紹介して欲しいのです」
「何処か体調でも崩されましたか?」
「いえ、私では有りません。知り合いの弟さんが生まれつきの病気でして」
ハンスは一応は家名を伏せてハインリッヒの病気の事を伝えて遺伝子疾患病の専門医を探している事を伝えた。
「なるほど、確か一人だけ心当たりがあります」
「流石、自治領主閣下!」
「私自身が知っている訳ではないのですが、おい、ドミニク。確か三年前に友人の娘さんを診てくれた医者が専門医だったな」
裏で話を聞いていたドミニクが顔を出したが表情は沈痛な色であった。
「あの先生は去年の冬に亡くなったわ。随分と高齢の先生だったから」
ハンスはそれを聞いてドミニクの前まで行きドミニクの手を取る。
「構いません。逆に、そんな高齢の先生なら弟子も沢山いるでしょう。教えて頂けますか?」
「それで良ければ、今夜は遅いですから明日にも友人に聞いてみて、直ぐに連絡しますわ」
ドミニクは本来の歴史ではエルフリーデが子供を取り上げられそうになるのを助けてロイエンタールとの最期の別れをさせる等の事をした優しい女性である。ハインリッヒの事も顔には出さないが同情していた。
「本当に有り難う御座います!」
頭を下げるハンスの率直さに流石のドミニクも頬を染めていた。
その事を遠目で眺めてるルビンスキーのニヤニヤするのが癪に触るドミニクでもあった。
翌日には名簿に載っている人物達の素行調査とスパイが居ないか調査を始めると同時にラインハルトに報告をする。
「卿はどう思う?」
「正直、ルビンスキーの本当の思惑は分かりませんが人が足りない帝国としたら有り難い話です。一応は監視をつけた方が宜しいでしょう」
「卿にも読めぬか」
「実は裏もなく陰謀家の評判に怯えている可能性も有りますが相手が相手だけに用心した方が宜しいでしょう」
ラインハルトにしてもルビンスキーの思惑を読む事は難しい。傍らに控えていたオーベルシュタインにも視線だけで意見を求めるがオーベルシュタインも首を横に振る。
「閣下、私にもルビンスキーの思惑は読めません。私もミューゼル中将と同意見です」
「卿もハンスと同意見なら仕方がない。ハンスはオーディンに戻れ」
「閣下。その事なんですが、小官はこのままフェザーンに残留しては駄目でしょうか?」
ハンスの意外な申し出にラインハルトは興味を持った。
「理由を聞こう」
「はい、万が一の時の為にフェザーンに行動出来る人間が必要でしょう」
ラインハルトは数瞬だけ考えてハンスをフェザーンに残留させた。
フェザーンの高等弁務官事務所には武官も居るが限りなく文官に近い人間かボディーガード専門の人間ばかりである。
不測の事態で行動が出来る人間が一人は必要である。
「残留を認めるが油断しない様に、それから口煩い人間が居ないからと怠惰な生活をしない様に」
「夏休み中の小学生じゃあるまいし」
「ふん、卿の場合は似たようなもんだ」
「了解しました。毎日、絵日記でも書きますよ」
「それは、楽しみだな」
ハンスの皮肉を軽く返してラインハルトが通信を切る。黒くなった画面を見てハンスは溜め息をついた。
実はフェザーン進攻までに仕事が色々と残っているのである。
(キュンメル男爵の事と膠原病の権威も一人では心細いからなあ。それと地球教対策にルビンスキーの逃亡阻止の作戦も考えないと、それにルビンスキーからの人材のチェックをシューマッハの部下達に話をしたら手伝ってくれるかな?)
課題の多さに意気消沈する。ヴェスターラントとキルヒアイス殺害の二大課題を乗り越えたハンスにしたらゴール直前にゴールが遠くに移動した様な気分である。
(ルビンスキーも大人しくラインハルトの下で働いてくれんかな?)
ハンスはルビンスキーの統治能力を高く評価している。ラインハルトが宇宙を統一した後の事を考えたら経済面では欲しい人材である。
問題は能力よりルビンスキーの為人である。
(帝国宰相くらいで満足してくれんかな)
数人の非凡な野心家を満足させるのに宇宙は狭い様である。
野心の無い凡人のハンスは仕方なく面接のマニュアル作りを始めるのであった。