帝都の市街は意外な事に静かだった。民衆も帝国の上層部で権力闘争が行われている事を知っているので流れ弾でも飛んで来るのではと警戒して家から出て来ない。窓から外を伺うだけである。
騒ぎはノイエサンスーシとリヒテンラーデ侯の屋敷周辺だけであった。
アンネローゼが居るラインハルトの屋敷には既にケンプ麾下の部隊が警護していた。
「お務めご苦労様。ケンプ提督は?」
「提督はリヒテンラーデ侯の一族の屋敷の方に行かれてます」
「そうか。それは残念」
ハンスはケンプにも事情を話して協力してもらう気でいた。ケンプも二人の子供を持つ親なのだ。
「仕方ない。アンネローゼ様にハンスが来たと取り次いで下さい」
「了解しました」
すぐにアンネローゼに面会が出来たのである。アンネローゼは既に着替えていて屋敷の奥の方が騒がしい。
「ごめんなさい。騒々しくて」
「いえ、私達も夜分に押し掛けまして」
「それで、私は何をすれば宜しいのでしょう?」
流石にラインハルトの姉である。既にハンスの訪問の意図を悟っている様である。
「アンネローゼ様には、此方のベーネミュンデ侯爵夫人と皇帝陛下の庇護をお願いしたいのです」
ここで初めてベーネミュンデ侯爵夫人が口を開いた。
「グリューネワルト伯爵夫人には頼める義理では無い事も、妾は重々承知しておるから妾はどうなっても構わぬ。しかし、陛下だけは!」
そこには、侯爵夫人でも無く先帝の寵姫でも無く子を思う母親の姿があった。
(この人も歳の離れた夫の子を宮廷闘争の為に何度も殺された哀れな女なんだよなあ)
ハンスは同じ男としてフリードリヒの気持ちを理解していた。恐らくベーネミュンデ侯爵夫人と距離を作る事で宮廷闘争から彼女を守ったのだろう。
それを伝えなかったのがフリードリヒの罪なのだろう。
「私にも陛下は大事な方です。私は弟を育てるのに失敗しました。侯爵夫人は陛下を立派に育てて下さい。私も微力ながら、お手伝いさせて頂きます」
「有り難う御座います。アンネローゼ様!」
「有り難う御座います。グリューネワルト伯爵夫人!」
二人から頭を下げられて困惑するアンネローゼである。
(しかし、この子の半分でよいからラインハルトも他人の事を思いやる事が出来ればいいのだけど)
アンネローゼもハンスには出来れば弟の傍に居て弟が道を踏み外さない様に見ていて欲しいと思うのだが本人も友人でもあるヘッダもハンスが軍を辞める事を望んでいるので何も言えないのである。
そして、アンネローゼが口にした事は別の事である。
「陛下もベーネミュンデ侯爵夫人も今夜は此方に御逗留された方が宜しいと思います」
アンネローゼの提案にハンスも賛成をしたのでベーネミュンデ侯爵夫人もアンネローゼを信用する意思表示で後宮に帰らずに屋敷に宿泊した。
ハンスも誘われたがハンスは忙しく他にも仕事があるのだ。
キルヒアイスが無事だったから安心はしているが万が一の事を考えてリヒテンラーデ侯の一族の安全も確保しなければならない。
(オーベルシュタインがラインハルトの傍にいるからなあ)
本来の歴史の様に十歳以上は死刑などという蛮行を許す訳にはいかない。
キルヒアイスは途中でレンテンベルク要塞に行かされている。
玉璽を手にしたキルヒアイスが帝位の誘惑に負けて自立する事を危惧したオーベルシュタインの仕業である。
元同盟人のハンスからしたら判子の一つで権力が握れるとは馬鹿らしい事であるが専制政治においては玉璽は重大な意味を持つ。
キルヒアイスが不在の現状でゴールデンバウム王朝を憎むラインハルトとオーベルシュタインの二人組の暴走が恐ろしい。
取り敢えずケンプの元に行きリヒテンラーデ侯の一族の無事を確認するとケンプに幼帝の事を報告してリヒテンラーデ侯の一族の安全について協力を依頼した。
「確かに安全は保証するが元帥閣下の命令には逆らえんぞ」
「分かっています」
「元帥閣下に子供を殺す様な命令は私が出させません。出たとしても撤回させます!」
「すまんな。本来は俺達の仕事なんだが」
やはり、ケンプも子を持つ親である。自分の息子達と変わらぬ子供達を殺すのは気が進まない様子である。
本来の歴史では独身のロイエンタールが指揮を取るのはケンプの事を思っての事だったのだろう。
ケンプの次にハンスが向かったのはロイエンタールの元である。
まずはロイエンタールに幼帝の事を報告してリヒテンラーデ侯の一族について話をした。
「卿の気持ちは理解が出来るが俺にも元帥閣下の命令を覆す事は出来んぞ」
「まあ、その時はロイエンタール提督が元帥閣下の命令を一番に受ける立場ですからね」
ハンスの嫌味にロイエンタールも流石に慌てる事になる。
「ちょっと待て、何故に俺が貧乏くじを引かねばならん!」
「そりゃ、当たり前でしょう。キルヒアイス提督が不在の現状で大将は二人のみでロイエンタール提督の方がミッターマイヤー提督より年長なんですから」
「おい、こんな時に階級を持ち出すのはズルくないか?」
「別に軍隊じゃなくとも普通はそうでしょう」
ハンスの主張は正論なのでロイエンタールも何も言えない。
「それが嫌なら自分に協力して下さい」
ロイエンタールとて子供を殺すのは嫌な事である。しかし、ハンスの言う通り命令を一番に受けて実行の指揮を取るとなれば自分しかいないのである。
「分かった。卿に協力する」
ロイエンタールとの打ち合わせが終わる頃には夜も明けていた。
ロイエンタールの元にミッターマイヤーを筆頭に提督達が集まって来る。
「リヒテンラーデ侯を逮捕拘禁した。玉璽も確保した。リヒテンラーデ侯の一族の身柄も確保した。閣下の姉君と幼帝の安全も確保した。後は誰が閣下に連絡をするかだが……」
全員の視線がロイエンタールに集中する。
「その他の連中は理解が出来るがミッターマイヤーまで俺を見るな。卿も大将だろ!」
「卿は俺より年長ではないか!」
「こんな時に年齢を持ち出すのは卑怯だぞ」
「まあ、元帥閣下の報告は自分がしますよ。最初に話を出した人間ですから」
ハンスが報告役を買って出るとケンプも賛成した。
「ロイエンタール提督も気が進まぬ様子だし、やりたい人間が他にいるなら、やりたい人間にやらすのが良いと思うぞ」
ケンプの意見に他の提督達も賛成する。ロイエンタールが言えば真面目なミッターマイヤーが「卿は未成年に嫌な事を押し付けて恥ずかしくないのか!」などと言って反対した事だろう。
根回しとは大切である。
「では、早速元帥閣下に報告をしてきます」
ハンスが報告の為に席を立つと提督達も自然解散した。
部屋に残ったのはロイエンタールとミッターマイヤーだけである。
「何か言いたい事があるのか?」
ロイエンタールがミッターマイヤーの表情を見て水を向ける。
「卿には呆れたぞ。未成年に仕事を肩代わりして貰うとは!」
ミッターマイヤーは小賢しい芝居を看破していた。
「そう責めんでくれ。奴から言い出した事だ」
「ケンプまで巻き込んでか」
「ああ、全部、奴のシナリオだ」
「そうか、奴の事だから流血を避ける為なんだろうが、情けない事だ」
「確かに、戦場で血を流させる事は出来ても戦場の外では流血を回避させる事が出来んとは大将とか提督とか呼ばれるのが恥ずかしい事だ」
自分達の地位を自嘲するローエングラム陣営の出世頭の二人である。
「ああ、それで今回は誰を助けるつもりなんだ?」
ミッターマイヤーの発言にはロイエンタールも驚いた。
「卿は知らないで俺達の猿芝居に付き合ったのか!」
「奴の事だからな」
「今回はリヒテンラーデ侯の一族らしい。あの二人はゴールデンバウム王朝には恨みがあるからな」
「まさか、一族を皆殺しとかは無いと思いたいが……」
ミッターマイヤーの危惧を思い過ごしとは言い切れないロイエンタールであった。
ミッターマイヤーとロイエンタールから「奴」呼ばわりされたハンスは通信室でラインハルトに報告をしていた。
「よくやってくれた。卿達の働きには厚く報いるであろう」
「有り難う御座います」
「帝国宰相であった方を銃殺とはいくまい。リヒテンラーデ侯には服毒をお勧めしろ」
「御意」
「それから、リヒテンラーデ侯の一族は女子と十歳未満の男子は辺境送りにしろ」
(ちょっと待て、十歳以上の男子は……)
「十歳以上の男子は死刑」
「ほう、十歳以上の男子は死刑ですか。後学の為に理由を教えて頂けますか?」
「私がゴールデンバウム王朝の打倒を誓ったのは十歳の時だ。それまでは子供と言えるだろう」
「失礼ながら理屈には合いませんな。閣下がゴールデンバウム王朝の打倒を誓っても幼年学校の学生だった訳ですから、一人前とは言えませんな」
ハンスの目に強い意思の光が宿り始めた。
「ほう、では幾つから一人前と言えるのか?」
「閣下が初陣した年齢でしょうか。私の様な兵卒からは幼年学校や士官学校の学生など半人前ですな」
ラインハルトは数瞬の間、考え込みハンスの意見を受け入れた。
「意見を聞き入れて貰い有り難う御座います。それから、リヒテンラーデ侯とリヒテンラーデ侯の一族については取り調べをさせて頂きたい」
「何の取り調べだ?」
「あの手の連中は、権力を使って冤罪やら濡れ衣を着せる事が常套手段ですからね。そんな人達の名誉を回復してやりたいし、同じ死刑にするなら遺族の前で行いたいと思います」
ラインハルトもハンスの意見に賛成をして一族の取り調べを許可した。
「有り難う御座います。恨みを呑んで死んだ被害者や遺族に代わりお礼を言わさせて頂きます」
通信を切った後でハンスは、その場に座り込んだ。
(これで、自分に出来る事は全て終わった)
リヒテンラーデ侯の一族が貴族としては品行方正なのを既に調査済みである。
取り調べに時間を掛けて一年後のエルウィン・ヨーゼフ二世の即位一周年の恩赦で全員を辺境送りにする計画である。
(まあ、一年間は軍を辞めれんな)
この事が後に帝国を震撼させる事件の発覚に繋がるとはハンスも予想していなかった。