ガラ空きの士官食堂でラインハルトに宿題も提出して暇を持て余したハンスが一人で遅めの朝食を摂る姿があった。
これはハンスが帝国軍の士官から嫌われてる訳でもなくハンスが寝坊した訳でもない。
本日の正午前にオーディンに到着する為に前日の夜から忙しい士官達の食事の邪魔にならない様に配慮して混雑する時間を避けただけである。
しかし、食欲は遠慮せずに三人前の食事を平らげた後に律儀に三杯目の食事後のコーヒーを飲んでいる。これは長年の貧困生活の習慣と食べ盛りの若い肉体の結果である。
もしかしたらタイミングが合えばヤン・ウェンリーの被保護者にはハンスがなっていたかもしれない。
ハンスが三杯目のコーヒーを飲み終わるのと同時にキルヒアイスが食堂に入って来た。
「部屋に居ないと思ったら、こんな所に居たんですか。ミューゼル閣下が艦橋でお呼びです」
「えっ!一兵卒の自分が艦橋に入っても宜しいので?」
「問題はありません。ハンス君は亡命者で大事な賓客ですよ。同盟時代の階級は関係ありませんよ」
キルヒアイスはハンスを常に賓客として接してくれる。その態度が見本となり他の士官達もハンスを賓客として遇してくれている。
それ以前の話でハンスは帝国軍将兵から同情を集めていた。前線で戦う者にとって脱出用シャトルは最後の生命線である。その生命線が問題だらけだったとは悪夢でしかなく、とても他人事ではないからである。
「分かりました。その厚かましい話なんですけど艦橋まで案内して貰えますか。医務室と自室と食堂しか知らないもので」
キルヒアイスはハンスの言葉に苦笑しながらハンスの配慮に感心をした。
ハンスは自分がスパイと疑われてると思い必要以外には自室から出る事はなく口には出さないが自室を監視されている事も承知しているのだろう。
「大丈夫ですよ。最初から案内するつもりですから」
「有り難う御座います」
艦橋までの道中でキルヒアイスの背中を見ながらハンスは先日からの悩みを思い出す。
(キルヒアイス少佐は誠実で優しく優秀な人だ。この人には死んで欲しくない。出来れば生き延びて皇帝ラインハルトを支えて欲しい)
ハンスはキルヒアイスの死後にキルヒアイスを知る人々と同じ思いを抱いていた。
(しかし、自分に出来るのか?キルヒアイス少佐を助ける事が)
これから先の流血の量を知るハンスとしてはキルヒアイスに対する期待も大きいが困難さも理解している。そして、最大の問題はハンス自身の身の安全である。
(キルヒアイス少佐を、守って自分が死んだら意味がない。今度こそ人並みの幸せを掴みたい)
小市民根性を丸出しの思いがハンスの本音である。キルヒアイスを救うには軍の中枢部に関わる必要があるが、それは同時に自身の命を危険に晒す事になる。
(戦場での流れ弾にテロとか危険だらけだからなあ)
自身の活躍で富や名声を得る発想は皆無である。
(キルヒアイス少佐が生き延びれば、これから流れる血の量も減るはず)
キルヒアイスに対する著しい過大評価かも知れないが目の前の青年には人々を期待させる何かがあった。
「この中が艦橋ですよ」
ハンスはキルヒアイスの声で現実世界に引き戻された。
「道中、何か考え事をしていた様ですが大丈夫ですか?」
キルヒアイスの鋭さに舌を巻く、流石に考え事の内容までは把握される筈もないがキルヒアイスの有能さには改めて驚かされるハンスであった。
「すいません。これからの事を考えていました」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
キルヒアイスも気休めと自覚しているのだろう。会話を打ち切って艦橋に入って行く。
「うわぁ!」
キルヒアイスに続いて艦橋に入ったハンスは思わず驚嘆の声を出してしまった。
艦橋内は正面から側面、そして天井とスクリーンが設置され星の海が展開されていた。
「凄い。プラネタリウムみたい!」
ハンスの少年らしい感想とキョロキョロと艦橋内の光景を見る態度にキルヒアイスも含め艦橋内に詰めている乗組員達の顔にも笑みが浮かぶ。
80年近く生きたハンスにしても帝国軍の戦艦に搭乗したのも艦橋から星々の大海を眺める事も初体験であるから珍しくて仕方がない。
「ハンス君、こちらへ」
キルヒアイスが顔に笑みの成分を残したままハンスをラインハルトの傍らまで促す。
「キルヒアイス、随分と遅かった様だが……」
ラインハルトの視線がハンスの腹部で止まる。
「最後の艦内食を堪能してた様だな」
「はい、美味しかったです」
女性なら妊娠中と誤解されそうな腹をさすりハンスの屈託無い笑顔と返事にラインハルトも毒気を抜かれる。
「まぁ良い。卿を呼んだのは入港の予定時間が早まったのでな」
キルヒアイスが怪訝な表情になった。
「珍しいですね。入港予定が遅れる事があっても早まるとは」
ラインハルトの表情も渋くなる。
「それが、軍はハンスをプロバガンダに使うつもりらしい。既に軍港にテレビ局も来ていて放送時間の関係らしい」
当事者のハンスは最初から覚悟はしていたのか平然としている。
「僕が軍上層部でも同じ事をしますよ」
キルヒアイスも呆れ半分に感心する。
「当人が納得しているなら問題はないですけど」
「おかげで管制局が航路計算をしてくれたから、我々は楽が出来たがな。既に先頭の部隊は誘導波をキャッチしている」
ラインハルトが話をしているとオペレーターから先頭の部隊から着陸許可を求める報告が入る。
「許可する。管制局の指示に従い順次に着陸せよ」
そのまま艦隊指揮に専念を始めたラインハルトを横で見ているハンスはキルヒアイス同様にラインハルトにも死んで欲しくないと思う。
(キルヒアイス提督の死後には幾つかの失敗や無用な血を流したが、それでも歴史上の偉大な人であるが実際は弱者には優しい人だよなあ)
ラインハルトとキルヒアイスは暇を見てはハンスの部屋に行きハンスと色々な話をしていた。
幼年学校を卒業と同時に士官となった二人には兵士達の本音に触れる機会が少なくハンスとの会話は貴重であった。
(まあ、同盟の情報を欲しい部分もあるが本音は年下の亡命者を気遣った部分も大きいよなぁ)
特にラインハルトは非凡である為に凡人の苦労には鈍感な部分がありキルヒアイスに窘められる事も度々あったがキルヒアイスも非凡な人間である。
そんな二人にはハンスとの会話は凡人の苦労や思いを知る貴重な機会であった。
(将来の皇帝と上級大将のコンビと公園の管理人では差があり過ぎるだろうけど、普通に良い人達だよなあ)
ハンスの晩年にはラインハルトの死因となった膠原病の研究が進みエル・ファシルで治療法も確立されていたので早期発見でラインハルトの命も救う事が出来るのだが。
(まさか、敵国の人間ドックに入れとは言えないよなぁ。同盟が併呑されてからでは遅過ぎるだろうし、それ以前にワーカーホリックだから長期間の入院とか無理だろうなあ)
父親か兄の過労死を心配する息子か弟の様な思いを抱きながら一人で困惑するハンスであった。
「全艦、大気圏に突入しました。当艦も突入開始します」
艦長の声が響く中、ハンスの同盟人としての人生が終わり亡命者としての人生が始まろうとしていた。
亡命者としても逆行者としても何も定まらないままである。
ハンスの亡命が本来の銀河の歴史を変える事になるのか知り得る者は宇宙に存在しなかった。