ハンスが目覚めた時、目隠しをされて手を後ろ手に結束バンドで拘束された状態で狭い場所に居た。
水素エンジンの特有の音と体全体に感じる振動で自分が居る場所の見当はついた。
(車の荷台の中か!)
体の冷え具合からハンスが廃工場でスタンガンで再び気絶させられてから、さほどの時間は流れてないようだ。
(しかし、困ったもんだ。自分一人なら策はあるけど。赤ん坊が人質になっているのは不味いな)
元は民間人を守る事が建前の民主国家の軍人なので自分だけ逃げるという発想が無いハンスであった。
(オムツの交換はしていたがミルクは与えているのか?)
逆行前に水商売をしていた時に店の女性従業員の赤ん坊の面倒をみた事があるハンスだったが、その時に得た知識を必死に思い出す。
(三ヶ月後からは確か一日に五回のミルクだったけ?)
廃工場では犯人一味の女が飲んでいた牛乳を赤ん坊に与える様に頼んだが断られた。結局は何回も殴られても要求するハンスに犯人側が根負けした。
(アジトに着いたら飲ませる約束をしたが本当に与えてくれるのか不安が残る。それに今はラインハルト達を信じるしか手は無い)
ハンスはラインハルト達が全力を尽くす事は信じていた。
廃工場では犯人一味の車が牛乳配達車なので牛乳瓶の蓋に自分の指紋を残して置いてきた。故意に殴られ血痕も残してきた。逆探知の時間も稼いだ。やれる事は全てやったのだ。
(それに、ラインハルト達は気付いてくれるだろう。電話の中で犯人一味の人数と誘拐されたのが赤ん坊の事を暗に示した事を)
ハンスが考え事をしていると車が停車した。
荷台を開けられて外に出されたが目隠しをされても分かる筈の頬に当たる太陽光の温もりや風を感じない。
(屋内か!)
「目隠しを取ってくれ!車に酔って気持ちが悪い」
「駄目だ」
三人組のリーダー格の男が言う。
「本当に赤ん坊にミルクを与えるか信用が出来ない!」
「ちゃんと赤ん坊にはミルクは飲ませているよ」
女が応えるが目隠しされている身では分かる筈もない。仕方ないので声が聞こえた方に行くと手の拘束を解いて、女が赤ん坊と哺乳瓶を持たせてくれた。
「哺乳瓶にしては感触が柔らかいな」
「紙パックの液体ミルクだよ。あんたの姉さんも赤ん坊がいるのに知らないのかい」
「そんな高級品は買えんよ。うちは粉ミルクと母乳だよ」
(まあ、ひとまず安心した)
ミルクを飲ませた後にゲップもさせて新しいオムツに替えたら再び後ろ手に拘束されて歩かさせられた。
途中で厚手のビニールのカーテンを潜った。
(まさか、この先は……)
ハンスは最悪の予測をしてしまった。
「そこで止まれ、そして座れ」
座ったハンスの横に赤ん坊を置く気配がする。
そして、ハンスの背後で扉が閉まる音がする。それも普通の扉ではなく冷蔵室の扉が閉まる音である。
「おい、何だ今の音は!」
分かっていたが返事はなくハンスは顔を床に擦りつけて目隠しを外したが目隠しを外しても真っ暗な闇のままだった。
その時に冷蔵室のスイッチが入り冷気が流れ始める。
(連中め口封じに赤ん坊と一緒に凍死させる気か!)
ハンスは後ろ手に拘束している結束バンドを簡単に引き千切る。研修で得た知識である。そして、手探りで扉まで行く。
(押込み棒が無い!)
通常、冷蔵室の扉は中からも開けられる様に扉のロックを外す為の押込み棒があるが、この扉は押込み棒が外されている。
ハンスは逆行前の世界で食品会社で働いた事があったので冷気漏れ防止のビニールカーテンが顔に当たった時点で予測はしたが逃亡防止の監禁場所だと信じたかった。
(俺は別にして赤ん坊まで殺すとは)
ハンスは扉を自力で開けることを断念した。その後、ビニールカーテンを毟り取る。そして、着ていた服をパンツだけ残して脱いで赤ん坊を包むのに使う。
履いていたスニーカーも脱ぎスニーカーの上に胡座をかいて赤ん坊を抱えた後にビニールカーテンを赤ん坊ごと自分の体に巻き付けて冷気が出来るだけ当たらない様にする。
(こりゃ、救出か先か体力が尽きるのが先か。競争になったな。間に合ってくれよ)
ハンスが孤独な持久戦を始めた頃、ラインハルト達も手詰まり状態であった。
状況証拠は牛乳屋を指しているが令状を取れるだけの証拠が無い。
牛乳屋には監視を付ける一方で牛乳屋についても調べている。
「誘拐事件では殆どの場合が身代金の受け取りの時が逮捕するチャンスです。しかし、犯人達も、その事は承知してますが、今回の犯人達は幸いな事に我々が動いている事に気付いてません。気付いていても身代金を受け取る前に身代金を要求した時に逮捕するチャンスが今回はあるのです」
クラウスがラインハルト達に説明し終わった後にハインツが牛乳屋の身辺調査の結果を発表する。
「牛乳屋を営んでいるのはカール・テスマンと妻、ビビアナ・テスマンの夫婦です。去年の暮れに母親が事故死、その二年前に父親が病死しています。三人目の犯人は恐らくビビアナの弟のテオドールだと思われます」
「それで店の経営状況は?」
クラウスが部下に質問する。
「はい。経営状況は五年前程から悪化していますね。五年前に妻のビビアナが流産してから夫婦仲にヒビが入り夫婦仲は冷え切っていますね。カールが家に帰らなくなり、父親とビビアナが二人で店を回していましたが二年前に父親が病気で急逝するとビビアナが一人で店を回していたそうです」
「一人で店を回す状態なら経営状況も悪化するわけか」
女性不信のロイエンタールも流石に声に同情の成分が混入している。
「動機は十分ですね。それでテスマン夫婦の監視はどうなっていますか?」
キルヒアイスがテスマン家の家庭事情に話が終始しそうなので話を本題に戻す。
「はい。私以外の全員がテスマン夫婦を監視してます」
ハインツがキルヒアイスに応えるとクラウスがラインハルトに要望を出す。
「私達はテスマン夫婦と弟に張り付きますから閣下達はテスマン夫婦が身代金の要求をしたのと同時に牛乳屋に踏み込んで頂たい。恐らく牛乳屋に大佐と赤ん坊が監禁されてると思われます」
クラウスの要望は犯人逮捕は自分達が担当して、ラインハルト達の仲間を救いたい気持ちに配慮したものであった。
「配慮して貰い痛み入る」
ラインハルトらしく簡潔にクラウスに感謝を表す。
「それでフロイライン・ヘームストラは次に電話があった時には出来るだけ引き延ばして下さい」
「分かりました」
ヘッダの返事は短い。逆に短い返事がヘッダの胸中を表している。
「それでは全員移動して下さい。既に指揮車をご用意しています」
ラインハルト達が犯人一味の目星を付けて行動を始めた頃、ハンスは赤ん坊を腕に抱えてスクワットをしていた。
(いつもは四百回もすれば汗だくになるが寒いと汗も出ないのか!)
それでも体は温まり体温を引き上げる事に成功した。
(この手は何度も使えんな。体は温まるが疲労感が大きく眠気が凄い。早く救出に来てくれ。せめて赤ん坊だけでも助けてくれ)
ハンスが声にださずに悲痛な叫びを上げている頃にラインハルト達も時間の経過に苛立ちを覚えていた。
「此方が監視を始めて何時間が経つと思っているんだ。連中、その間に赤ん坊の面倒をみるそぶりも見せてない」
クラウスが苛立ちを隠せないでいた。クラウスも子供を育てた経験がある親である。人質の赤ん坊の事が心配なのであろう。
流石に独身の集団であるラインハルト達には掛ける言葉も無い。
「警部さん。素人考えなんですけど。此方から連絡しては駄目でしょうか?」
思わぬ発言をするヘッダに全員の視線が集中する。
「しかし、相手が乗ってくれば良いですが惚けられたら人質の命が危険です」
「しかし、このままなら弟は別にしても赤ちゃんの命が危険ですよね」
ヘッダの言葉にクラウスも考え込む。
「賭けになりますが赤ん坊の健康が心配です。やりましょう」
クラウスは決断すると部下に突入の準備をさせる。
「では、フロイライン」
ヘッダが非常回線からリダイヤルする。
リダイヤルして4コールで相手が出た。
「あのう。明日は午後から子供の検診があるので荷物を渡すのは午前中で良いですか?」
ヘッダは友達との待ち合わせ時間を変更する様な口調で伝える。
「ちょっと待て、一時頃は駄目か?」
「一時頃でも場所次第です。病院の近くなら大丈夫です」
ヘッダが犯人の気を引いている間にクラウスが部下に突入の指示を出す。
「私達も行きますよ!」
指揮車にヘッダとハインツだけを残してラインハルト達も突入する。ラインハルト達がワンテンポ遅れて突入した時には既に
刑事達が犯人達を取り押さえている。
「人質は何処だ!」
「何の事だ?」
惚けるカールに向かいラインハルトがブラスターを突き付ける。
「貴様が人質にしたハンスは私の大事な弟分だ。素直に喋れば痛い思いをしなくてすむぞ!」
カールはラインハルトの顔を見て、あっさりと降伏した。帝国の若き英雄である元帥に凄まれて逆らえる者は少ない。
「冷蔵室だ。赤ん坊と一緒に冷蔵室に入れている」
ミッターマイヤーがカールの言葉を聞くと同時に冷蔵室の扉に飛び付く。
ロイエンタールとキルヒアイスが赤ん坊を抱えて髪も霜で白く染めたハンスを冷蔵室から引っ張り出す。
ラインハルトが赤ん坊を抱えてパトカーに走り出す。
「キルヒアイス運転を頼む」
ラインハルトが運転の上手いキルヒアイスを指名して呼ぶ。
「ハンス!」
キルヒアイスと入れ替りにヘッダが店の中に飛び込んでくる。
ロイエンタールとミッターマイヤーが凍ったハンスの体を擦っている。
ヘッダが何処からか持ってきたブランデーを口移しでハンスに飲ませる。
「バスタブにお湯が張ってあります」
遅れて来たハインツがバスルームを発見して報告する。
報告を受けてロイエンタールとミッターマイヤーがバスタブにハンスを放り込む。
ハインツがシャワーをハンスに浴びせてる間もハンスに口移しでブランデーを飲ませ続ける。
五分後、ハンスの頬が赤くなり目には光が宿る。
「ブランデー無しで、もう一回!」
唇をヘッダに突き出すハンスは二度目の凍死だけは免れたようである。
後日、命の代償を払う事になるとはハンスは知らない。