何処かで機械的で耳障りな音が鳴っている。
人に不快感を与える事を目的に作られた嫌な音である。
そして、聞き覚えのある懐かしい音でもある。
(うるさいなあ。今年は大雪で朝も早くから寒さで目が覚めるのに何の音だよ?)
不平を鳴らしながら、ハンスの手はソファーの下に落ちたであろう毛布を探している。
(しかし、今年は本当に寒い。寒いのに、この音は何だよ。まるで軍艦の警戒警報みたいな音じゃないか)
ソファーの下に落ちた毛布を探すが手に毛布の感触は無く空を掴むだけである。
(しかし、何で軍艦の警戒警報みたいな音がするんだ。この公園の周囲には何も無いんだが)
そこでハンスは奇妙な事に気づいた。
(あら、さっきから毛布が見つからないのに床の感触も無い。周囲に何も無い公園に軍艦の警戒警報の音がする)
警報が鳴り始めて数分後に自分の居る場所に気づいた。
(しまった。ここは住み慣れた公園の管理人事務所じゃなく、脱出用シャトルの中だ!)
慌てて飛び起きようとしたが体が思うように動かない。
ハンス自身が低血圧だった事もあるが室温が下がり既に低体温症の症状が出ていた。ハンスは自身の若い肉体を過信していた。ハンスが思っている以上に肉体は疲れていて寒さにも弱っていた。
ハンスはリクライニングにしていたシートを戻して体を起こし鉛の甲冑でも着込んだように重い腕を伸ばして警報を止めて救難信号のスイッチを入れる。
一度は失敗しているので心の何処かで再度の失敗になるのではと不安が鎌首を持ち上げる。
そして永遠と思える数十秒間後に。
『こちらは帝国軍ミューゼル艦隊、ミケール・ハインツ大佐である。救難信号を受信した。貴官らの人数と代表者の氏名と階級を述べよ』
帝国訛りのある同盟語がスピーカーから流れてきた。
歓喜と寒さで震える手でマイクを握る。
「人数は1人、小官はハンス・オノ、階級は二等兵待遇軍属、帝国への亡命を希望する!」
『了解した。人道を以って対処する』
「た、助かった」
ハンスは呟くと安堵感と体力の限界が一緒に訪れ視界が一気に暗くなり心地良く静かにゆっくりと意識を手放した。
遠くで帝国語での会話が聞こえてくる。体は温かいが空腹で目が覚める。
目を開けるとアイボリーホワイトの天井が見えた。
「知らない天井だな」
周囲をカーテンで仕切られたベッドの上に寝かされている。
服も病人用の半袖のパジャマに着替えさせられ右腕には点滴もされていた。
「目が覚めたようだな」
見事な金髪の若い士官がカーテンの仕切り内に入ってきた。
ハンスが慌てて体を起こそうとするのを手で制しながらベッドの傍らにあるスツールに座る。
「卿の体は卿が思っているより弱っている。救出があと一時間も遅ければ危ないとこだった。軍医の説明では3日間は安静にする必要があるらしい」
「分かりました。宜しくお願いします」
安全な場所で冷静に考えると、戦争に負けて敗走中の体なのだから、シャトルに乗る以前から体に負担が掛かっていたのだろう。
「遅くなったが、ここは私の旗艦の中だ。そして、私は帝国軍少将ラインハルト・フォン・ミューゼル」
「ええ!ラインハルト・フォン・ミューゼル少将!」
ハンスは未来の銀河帝国皇帝との対面に驚愕して病室に響き渡る声を出してしまった。
「そこまで、驚く事はなかろう」
自身の若さと釣り合わない階級に驚かれる事に慣れているラインハルトもハンスの驚きぶりに面食らった。
「えっと、失礼しました。余りにも若い少将閣下でしたので」
「まあ良い。これから尋問を始める。役儀上を立ち入る話も聞くが了承せよ」
「はい、当然の事です」
ラインハルトからの尋問は1時間程度でハンスは母の訃報のタイミングだけ以外は全て正直に答えた。
「これで尋問は終了する。亡命を受け入れの可否は後日になるが、今は自分の体を大切にすることだ」
最後の一言にラインハルトの本来の優しさが出る。
「はい、有難う御座います」
ハンスも年の功で敏感にラインハルトの優しさに気付きながら、歴史上の人物に会えた事に喜びを感じている。
「良いタイミングでしたな。食事を持って来ました」
軍医がラインハルトと入れ替わりに食事を持って仕切り内に入って来た。
数日ぶりの食事にハンスの関心は皿の中身に移った。
「ああ、いい匂い」
目の前には一皿のスープのみだが、今のハンスには温かいスープは御馳走である。
「胃が弱っているから、これだけで我慢するように、明日からはパンも食べられる」
皿の中には浅緑色のスープが入っており温かな湯気が出ている。スプーンで掬うとトロリとスプーンに纏い付く。猫舌のハンスは何度も息をかけて冷ましてから口に入れると空豆の甘さが口に広がり出汁の旨味が後に続き胃から全身に温かさが伝わる。
「美味しい!出汁はコンソメじゃなくブイヨンですね」
「そのスープは基地の士官食堂のシェフに特別に作って貰ったのだが、よく判るなあ」
「はあ、レストランに住み込んで店の手伝いとかしてましたから」
ハンスにしては懐かしい味である。レストランでの住み込み時代にコック達と一緒に食べていた賄いの定番メニューである。
一皿のスープをゆっくりと味わいながら時間を掛けて完食するとスープだけで満腹になった。
ハンスは自分の胃が小さくなっている事を自覚した。ラインハルトの言うとおり自分が思っている以上に自分の体は弱っているのだろう。
ハンスは久々の満腹感と亡命を果たした達成感に酔いしれていた。自分の未来の明るさを確信して幸福感に浸りながら体力回復の大義名分のもと眠りについた。
この時、神ならぬ身のハンスには近い未来に待っている地獄で苦しむ事など予想も出来なかった。
次の日の昼には亡命の正式な受け入れが通達され、二日目の朝にはラインハルトの旗艦に同乗したままオーディンへ出発した。三日目にはハンスの体調は立って歩く程度には回復して4日目に地獄に遭遇する事になる。
「これは何でしょうか?」
ラインハルトの執務室に呼び出されたハンスの前には段ボール箱がある。
「宿題だな」
「宿題ですか」
「卿は流暢な帝国語を話すが帝国語の読み書きの経験が少ないだろう。そこで帝国の小学生レベルの国語を勉強して貰う」
「それにしても多すぎませんか?」
「安心しろ。三割が国語のテキストで残りが帝国の歴史のテキストだ」
同盟では『マクシミリアン晴眼帝』や『エーリッヒ止血帝』などは学校教育で習う事は無いが帝国なら小学生でも知っているレベルの知識である。帝国に亡命するなら当然の話である。
「確か、帝国の歴史は同盟の倍近く有りましたね」
「期限はオーディンに到着するまで、年内にはオーディンに到着するから、頑張る事だな」
「……はい……」
傍らに控えていたキルヒアイスが気の毒に思ったのか助け船を出した。
「大丈夫ですよ。今上帝で36代目ですが覚える必要のある皇帝は10人程度です。それに専用の部屋も用意しましたから」
「時間は十分にある。何も慌てる必要はない」
「…………」
「…………」
思わずハンスとキルヒアイスは顔を見合わした。
テキストの量と時間を比べたら圧倒的に時間が少ないのが一目瞭然である。天才ラインハルトならではの発言である。
「少佐殿、昔からなんですか?」
「まあ、その、昔からかな」
「少佐殿も色々と苦労されてますね」
キルヒアイスが苦笑いを浮かべる。これまで何度も凡人を自分を基準に計る事を戒めたのだが改善されないでいる。
「二人共、どういう意味だ?」
ハンスとキルヒアイスの会話に自分は無実と言わんばかりの口調と表情にハンスは頭を抱える。
「本当に自覚が無いんだ。この人」
キルヒアイスもハンス同様に頭を抱えたい衝動を耐えて、外に待機していた兵にハンスを案内するように命令すると最後に一言を付け加える。
「これから閣下と内密の話をするから誰も近付けないでくれ」
一時間後、艦橋にはキルヒアイスに説教されて油を徹底的に絞られて項垂れるラインハルトの姿があった。
キルヒアイスが搾油作業に勤しんでる頃、ハンスは宿題を片付けを始めていた。
実際は同盟語も帝国語も大した違いは無く、ハンスは晩年に慰霊碑公園の管理人として遺族から帝国語の礼状や返信を何度も遣り取りしていたので帝国語の読み書きには慣れていた。
「懐かしいのう。管理人に成り立ての頃は返信を書く事が日課になっていたもんだが……」
ハンスは届いた礼状に涙する事も多く返信は必ず書いていた。
「成長した子供が孫を連れて弔問に訪れた事もあったのなぁ」
宇宙統一の大義名分の元に大量の血が流れ、その数倍の涙が流された。
幸いにも肉親と呼べる身内もおらず、結婚もせずにいたハンスには無縁の悲しみであったが流れる血と涙は少なくしたいと思う。
「しかし、所詮は一般市民の夢だろうなあ」
ハンスは自分に軍事的な才能が無い事を理解しているし取り柄と言えば料理くらいである。
それに、これからラインハルトの台頭とともに帝国は動乱の時代に突入する。
門閥貴族との抗争に地球教のテロに同盟にヤン・ウェンリーとの戦いに。
出来れば巻き込まれたくないのが本音である。
「まあ、幸いにも何が起きるかの知識はあるから避ける事は困難ではないか」
その知識を活かして流れる血の量を減らすには自分の手足が短い事も自覚していた。あのヤン・ウェンリーさえ、クーデターや帝国軍のフェザーン回廊通過を予測していたが対応が出来なかったではないか。
「さて、亡命したが亡命後の事はなあ」
一応は軍務省の士官食堂の下働きとして働き、将来は自分の店を持ちたいという夢がもあるのだが、現にラインハルトを筆頭にキルヒアイスとも面識を持つと死なせたくないと思ってしまう。
逆行者として想定外の苦悩を持つ事になった。これから帝国の人々と関わる事になれば、この苦悩も大きくなる事だろう。
「考えれば考える程にネガティブになるなあ。精神衛生上、考え過ぎるのは良くないか。取り敢えず宿題を片付けるか」
容易に結論の出る話でもなく、今は亡命者としての立場を作る事に専念する事にした。
世間では問題の先送りと呼ばれる行為である事を自覚しながら。