目を覚ますとアイボリーホワイトの天井と小さなシャンデリアが見えた。
「知らない天井だ」
ハンスが呟くとヘッダが抱き付いてきた。その瞬間、全身に痛みが走る。
「痛い、痛い、痛い!」
ヘッダと反対方向から慌てて制止するラインハルトの声が聞こえる。
「お姉さん、弟さんは怪我人ですから傷に響きます」
ヘッダが離れても痛みが引かずに陸に上がった魚の様に口を動かすしか出来ない。
「きゃーごめんなさい!」
文句の一つも言いたいがヘッダの赤い目を見て文句も言えなくなる。
「問題ない!」
ヘッダを安心させる為に虚勢を張って見せる。プロの女優の前で通じる筈もないが、姉を心配させたのだから当然の事だと思う。
ラインハルトの方はインターホンで何やら連絡している。
「もう心配させないでね。と言うだけ無駄よね」
ハンスとしたら返す言葉もない。全くの事実である。これから何度も心配させる事になるだろう。
連絡が終わったラインハルトが姉弟の会話の間隙を見て口を開く。
「まずは卿の体の具合だが骨折も無い。肋骨に6箇所ほどヒビが入っている。それと打撲は体中にあるから、明日辺りから痛むぞ。覚悟しとけ」
ラインハルトが負傷箇所を記した紙を見せてくれた。人体図に黒い線が6本と言葉通りに体中に赤く塗られた部分とオレンジ色に塗られた部分がある。
「閣下、この色の付いた部分は?」
「卿の想像している通り打撲の部分だ」
「まあ、素敵。白い部分の方が少ないこと」
「しかし、あの爆発で、その程度なのが僥倖だぞ。それから、卿は何故、礼服の下に防護服を着ていたんだ?」
「昨日は寒かったので防寒着だと動きにくそうなので防護服なら動き易いかなぁ。と思いまして」
「あの防護服は艦艇の備品で持ち出し禁止の筈だったと記憶しているが?」
「だって、防寒着を買っても来年には着れなくなるし防護服は来年も支給されますから」
ハンスの返答は完全に本音だが本音だけにラインハルトも呆れながら頭を抱える。
「今回は不問にするが私用に使うなら防寒着も防護服も自費で購入する様に!」
「はい、了解しました」
ラインハルトもハンスも互いに本気にしていない。俗に言う大人の会話である。
「それから、卿は今日から大尉だ」
「生きていますが二階級特進ですか?」
「当然だ。卿は多くの命を救ったのだ。それから入院中に特別に昇進講習も受けられるぞ。明日から講師陣が特別に出張してくれる」
「ははは、退院した途端に扱き使う思惑が見えるんですけど」
これにはラインハルトも苦笑で返すしかない。
「それから、事情聴取になるが卿は何故爆弾と気付いた?」
「それはですね。会場に入った時に無駄に豪華な杖をしてる人がいたので、お洒落だなと思っていたんです。普通の杖は下の部分が広く上の部分は握り易くなっているのに上の部分が大きく握りにくい形をしていたから覚えていたんです」
「それにしても爆弾と見ただけでよく分かったな?」
「それはですね。老人にしたら杖がないと歩くのは大変です。それも無駄に豪華にする程に拘った、そんな大事な杖を忘れません。もし本当に忘れていたなら、僕が怒られたらいいだけの話だし本当に爆弾なら一秒でも早く伏せてもらわないと大惨事になりますから」
ハンスの言葉にラインハルトも驚嘆した。
本当は会場に入った時にフリードリヒが即位して以来、社交界から消えていたクロプシュトック侯爵が現れたので年配の出席者が噂をしていたのを耳にして思い出したのである。
それから、クロプシュトック侯爵が姿を消したら余裕を持って対処するつもりが食欲に負けて食べる事に夢中になり気がついたら杖だけが残っていたのが真相なのだ。
「卿も豪胆だな!」
真相を知らないラインハルトはハンスの言葉に驚くしかなかった。
「それに、杖を持った瞬間に確信しましたよ。老人が使う杖があんなに重い筈がないですから」
これは本当である。普通の杖は軽く扱い易く出来ている。
「それで卿が覚えている杖の持ち主は、この老人か?」
ラインハルトが一枚の写真を差し出す。
「はい、この老人に間違いありません。立派な髭をしていて頭はハゲていたので上下の毛が入れ替われば良かったのにと思って見てましたから」
これには黙って聞いていたヘッダも思わず吹き出してしまった。
「し、失礼しました」
ラインハルトも不謹慎と思いながら、よく似た義姉弟とも思ったが話を続ける。
「キルヒアイスの証言と一致する。昨晩の内にオーディンから消えた事も合わせてクロプシュトック侯爵が犯人で決定だな」
ラインハルトが立ち上がり辞去する事にした。これから軍務省に出向きクロプシュトック侯爵が犯人である確証を得た事を報告する為である。
ラインハルトが病室のドアを開ける寸前にドアが開く。
そして、開いたドアからドルニエ侯の娘である。マリーが飛び込んで来てハンスに抱きつく。
「ハンス君、心配したんだから!」
再びハンスの悲鳴が病室に響く。
「痛い、痛い、痛い!」
慌てながらヘッダがマリーを引き離す。
「ちょっと、貴女は誰よ!人の弟に馴れ馴れしいわよ!」
ヘッダも女性特有の勘でマリーが弟に付く悪い虫だと瞬時に確信する。
マリーもラインハルトの報告で知っていたがヘッダがハンスを拘束して独占していると瞬時に確信する。
ここにハンスを巡って熾烈な戦いの幕が切って落とされた。
「姉さん?フロイライン?」
ハンスもヘッダが嫉妬する理由が分かるがマリーが何故、この場に現れたかが分からない。兎に角、最年長者のラインハルトに、この場を収めてもらおうと思いラインハルトの方を見ると既にラインハルトは撤退していた。
(なんだ、あの人は!上司のくせに部下を見捨てるとは!)
ハンスにしてみれば敵前逃亡した者に頼る訳にも行かずに何とか場を収め様とするが所詮はハンスである。
「あのですね。ここは病院ですからね。静かにするべきだと思うのですが」
「大丈夫よ!ここは特別室だから完全防音よ!」
「可哀想なハンス君。怖い姉様に八つ当たりされて」
「何が八つ当たりよ!それにハンスと私は仲がいいのよ!」
「仲が良いならハンス君に優しくしてやって下さい!」
「あら、家ではお風呂も一緒!寝るのも一緒よ!」
「こら、風呂も勝手に入って来てるんじゃないか!寝るのも勝手にベッドに運んでいるんじゃないか!」
完全に自爆である。ヘッダの言葉が本当である事を自ら証明してしまっている。
「な、なんて羨ましい!」
(羨ましいって、貴女は貴族の姫様でしょうが!)
この時、病室のドアが開いたが開いた途端に閉じた。
ブラウンシュヴァイク公だったが、瞬時に修羅場と判断してラインハルト同様に逃げた。流石に帝国一の権勢家である。保身技術には長けている。だが、ハンスには別の意見がある。
(何が帝国一の権勢家かよ。あのスフィンクス頭め!たかが小娘の喧嘩の仲裁も出来んのか!)
完全な八つ当たりである。たかが小娘の喧嘩なら自分で仲裁するべきである。
結局は昼食を運びに来た看護婦が一喝で双方引かせたのである。
それから、翌日からはマリーがハンスの昼食を差し入れしてヘッダが夕食の差し入れをする事まで取り決めてくれた。看護婦には逆行前も世話になったが帝国でも世話になるとは思わなかった。
(将来、出世する事があったら看護婦の社会的な地位の向上と労働環境の改善を援助しょう)
夕食前にブラウンシュヴァイク公が見舞いに来た。ブラウンシュヴァイク公も昼間の事で罪悪感があるのか豪華なサンドウィッチの詰め合わせを差し入れしてくれた。
「その卿も本当に色々と気苦労が絶えんな」
(帝国で傲慢さでは一、二を争う男から同情されてしまった)
ハンスとしては入院するのも地獄なら退院して家に戻る事も地獄だった。
小市民のハンスは生まれて一度も戦争を望んだ事が無いが、この時は心の底から出征を望んだ。
色々とあったが、これが、まだ入院一日目の話である。