ヴェルナーがビルに到着すると見張り役の部下が待っていた。
「例の人物は、今は一階の食堂を清掃中です」
「了解した。卿は引き続きビルの外から見張っていてくれ」
ヴェルナーは部下に指示を出すとナターシャを連れて食堂へと行く。
「本当に父がいるのですか?」
「そうです。貴女に人形を贈ったのは、あの人です!」
広い食堂には一人の初老の男性だけが床にモップを掛けていた。
男性もヴェルナーの声で床から視線を上げるとナターシャに視線を固定させる。
娘が父の視線を受けながら、一歩ずつ静かに近寄って行く。
互いに凝視しながら二人の距離が数歩分まで近づいた時にナターシャが口を開いた。
「この人は、私の父ではありません。血の繋がった親子なら分かります」
娘が父親を逮捕させまいと否定の言葉を口にして父に背を向けた。
「名乗らなくともいい。何か娘さんに声を掛けて下さい!」
ヴェルナーの説得の声に何時の間にケスラーが食堂に現れて父親に声に最後の説得をした。
「被害者の奥方も息子さんも貴方の贖罪の気持ちは、既に受け入れてます。それに進学する息子さんも奨学金を受けられますから、貴方が仕送りをする必要は、もうありません」
二人の説得の声も届かないのか。父親は無言のまま背を向けた娘から視線を外した。
「ベッドの端で寝ては駄目よ。怖い狼がやって来る。狼の牙はベッドの上まで届かない。ベッドの端で寝ては駄目よ。怖い狼がやって来る」
同盟語は不慣れな筈のナターシャが流暢な同盟語で歌を口ずさむ。
母親が幼い娘の為に唄った子守唄菜あろう事は、ケスラーとヴェルナーにも分かった。
「違う!」
父親が娘の歌を聞いて、大きくないが力強く否定をした。
「違う。お前はナターシャじゃない。お前の本当の名前はアナスタシアだ!」
思わぬ言葉に振り返った娘と二人の軍人の視線が父親に集中した。
「本当の名前はアナスタシアだ。愛称がナースチャだ。その子守唄も、元の歌の歌詞が気に入らずに、あれが作った歌詞だ!」
娘が最後の最後で名乗りをあげた父親に思わず抱きつく。
「お父さん!」
「ナースチャ!」
そこには、抱きついてきた娘を抱き締め返す父親が居た。
三十数年の年月を経て、漸く再会した父娘に涙を流すケスラーとヴェルナーの姿があった。
冷たいビールと串焼きにされた鱒を手にラインハルトは上機嫌であった。
「卿が呼び出すからアレクを連れて来たが、この様な趣向だったとは」
ラインハルトの横では息子が串焼きの鱒が珍しいらしく、4匹目を手にしている。
「まあ。後宮に居れば、串焼き等の大衆食は口に出来んでしょう」
アレクの皿に五匹目の鱒を乗せながらハンスが苦笑する。
「それで、今日、俺を呼び出した理由は?」
「例の残留孤児の関する事です」
「ふむ。ケスラーから報告は受けている。オーディンの医療刑務所に服役したと聞いている。退院する頃には刑期も終了しているだろう」
「帝国の裁判所め粋な事をしますな」
「ふん。役人嫌いの人間が何を!」
ハンスの役人嫌いは帝国だけじゃなく旧同盟でも有名である。
「人聞きの悪い。これでも、元役人ですよ」
「なら、何故、役人を辞めたのか?」
「今回、陛下を呼び出した理由はですね」
形勢不利となったハンスが露骨に話題を本筋に戻す。
「例の被害者遺族がケスラー憲兵総監が自宅を訪問するまで、生活保護や奨学金の事は全く知らなかった事です」
「ふむ。その事についてもケスラーから報告は受けている。制度の周知を徹底させるように指示は出している」
「やっぱり」
ハンスの反応を見逃す筈の無いラインハルト出来んある。視線だけで理由を述べさせた!
「旧同盟でもですが、現場の中堅役人の考えは違うんですよ」
「どういう意味だ?」
流石にラインハルトも黙っていられなくなったりしい。
「現場の中堅役人達は、生活保護に回す予算で別の事業を民間会社に発注したいんですよ。そうすれば見返りがある」
「しかし、そんな事をすれば司法当局が黙ってないぞ」
「はい。だから、金銭の授受ではなく身内の就職や進学に便宜を図らせるのです」
「なんと!」
「その為にもコネの無い人間が進学したり、見返りが無い人間に保護費を出したりするのは都合が悪いのです」
「しかし、それでは取り締まり様がないではないか!」
「それで、同盟政府も苦労してましたよ」
明敏なラインハルトは、この問題が一筋縄ではいかない事を悟った。
「まあ。陛下はコネとかは大嫌いな性分ですが、簡単に解決する問題ではありませんよ」
ラインハルトは数瞬だけ考えると安直だが堅実な方法を口にした。
「ふむ。帰ってから尚書達と検討する必要があるな」
「それが、宜しいでしょう」
「危うく、ケスラーの報告を無にするところだった」
ラインハルトの言葉にハンスは満足の笑みを浮かべた。
ハンスはヤン・ウェンリー程に歴史に造詣深くなかったが、名君と呼ばれた権力者が晩年には暴君となるのを知っていた。
(俺が生きてる間は名君で居てくれよ)
「ケスラー憲兵総監には何か恩賞を、お与え下さい」
「ふむ。ケスラーに与える恩賞は結婚相手が一番だがな」
「それは、難題ですなあ」
ケスラーが独身の原因を作った張本人が自覚も無いままに苦笑する。
ラインハルトとハンスの既婚者二人組がケスラーの独身を話のネタにした十年後。オーディンの医療刑務所を出所をした老人が娘や孫に囲まれて天寿を全うした事をケスラーは知る事になる。
「そうか。間に合ったか」
「何が間に合ったの?」
膝の上の娘が父の呟き理由を聞いて来た。
「フィーアが生まれる前の、お父さんの知り合いの話だよ」
不思議そうな顔を娘を見てケスラーは言った。
「フィーアが生まれる前に、宇宙では一部の愚かな人間の為に多くの人が不幸になった。それを必死に阻止しようと戦った人達が居た事を居たんだよ」
娘の目が子供特有の好奇心の光に満たされた。
「そうだね。フィーアがもう少し大きくなったら教えよう」
ケスラー元帥評伝には、ケスラーの妻子について記
述が殆んどない。
同時代人であるミッターマイヤー元帥評伝と正反対であるが、一説にはテロを警戒した為とも言われている。
しかし、当時の関係者達の証言では子煩悩な父親だったと証言は一致している。
ウルリッヒ・ケスラーが元帥杖を手にしたのは退役に際してである。
退役後はオーディンに帰り晴耕雨読の生活を送り静かな余生を送ったと言われるが正確な記述は見当たらない。最期までテロを警戒した為と言われており、ラインハルト麾下の元帥で最も謎の多い人物である。