さて、役所の手続きとは面倒なものである。ハンスが亡命した時も手続きは大変だったが養子縁組の手続きも大変だった。
ヘッダの所属している芸能会社が協力的で会社経費で行政書士に依頼してくれたのだがハンス本人が書く必要のある書類もあり、ヘッダと共に面談もありで忙しい。
また、ヘッダに内緒ながらリヒテンラーデ侯爵や典礼省に挨拶に行かなければならなかった。
本来は典礼省の役人に謝礼金を払うのが慣例なのだが、相手がハンスでは典礼省の役人も謝礼金を要求する事はなかった。
役所の手続きの前にもヘッダとハンスで喧嘩する事になる。
原因は同居希望のヘッダと別居希望のハンスとの意見の相違である。
「姉と弟で別居する理由が無い。家族なら特別な理由が無い限り同居するのは当然」
「姉と弟でも年齢が年齢だから別居は当然だろ。僕も子供じゃない。不測の事態が起きるかもしれん!」
「そんな度胸も無い癖に」
「何だと、自分が美人なのを自覚して無いのか!」
もはや喧嘩は喧嘩でも痴話喧嘩である。
結局はヘッダの泣き落としにハンスが折れたのである。
「ひ、卑怯な。女優だけあって嘘泣きが上手い!」
嘘泣きと看破していても女性の涙には弱かったハンスである。周囲もヘッダに負けてボヤくハンスに苦笑するしかない。
手続きも終わり同居の為の引っ越し準備の段階で、また喧嘩になった。今回は部屋割りである。
ハンスは自分の部屋を要求したのだが、確かにヘッダは書斎は用意したが寝室はヘッダと共用でベッドも一つしかない。
「あんた何を考えているんだ!」
ハンスも遠慮が無い。
「別に何か問題でも?」
「若い男女が一つのベッドとか問題だらけだろ!」
「それが、どうした!」
ヘッダが、宇宙最強の言葉を使いハンスに対抗する。
「好きにしろ!」
ハンスは折れたと見せ掛けて冷蔵庫を買うつもりでいた金で書斎でも使える折り畳み式のベッドと軍事用のシュラフを購入した。
(何処かの金髪のシスコンでも一緒に寝たりしないぞ)
ハンスからシスコン呼ばわりされた若者は夕食に招待という名目でドルニエ侯から呼び出しを食らっていた。
「閣下、どんな理由でしょうかな?」
弁解と言わずに理由と言っているだけ穏便である。ドルニエ侯にしてみれば娘の婿候補をヘッダに横取りされた心境である。
「侯も落ち着いて下さい。これでも最大限の努力をして被害を最小限に抑えたのです」
言い訳をするラインハルトというのも稀有である。
「ほう、弁明を聞きましょう」
侯の横にいる娘のマリーの視線も怖い。この時、ラインハルトは女性を本気で怒らせるもんではないと学習した。
「本来ならハンスは軍を辞めて料理学校か大学に進学する予定でした。そうなれば私の管理から離れて進学した先で不測の事態が起こる可能性もありました」
内心はハンスを好きになる物好きな女性は稀有な存在だと思っていたがコンマの後に0が幾つ付いても可能性として0では無いと自らに言い聞かせた。
「ふむ、閣下が最大限の努力をしてくれた事は分かりました」
「理解して頂き幸いです」
「それで、当初の依頼の件は、どうなりましたか?」
「それは、ハンスに直接に聞く事に成功しています」
「拝聴しましょう」
「まず、ハンス自体は女性との恋愛には、まだ興味は無いようです。それでも好みの女性は料理上手な女性だということです。それもプロ級の腕ではなくジャガイモでフルコースを作れる程度の腕だそうです」
「それは、朗報ですな」
「それとハンスは自称、粗忽者でして年上のしっかり者が自分に相応しいと思っているみたいです」
正直、この事をドルニエ侯に伝えるか躊躇したラインハルトであった。ハンスが同居を始めた相手は義理の姉と言っても年上の女性である。ドルニエ侯の娘のマリーも美しいがヘッダも女優だけあって美人である。ドルニエ父娘が邪推するのではと懸念したのだが杞憂の様であった。
「それは重畳ですな。年上のしっかり者で料理の腕はジャガイモでフルコースを作る程度ならマリーだと美人の分、お釣りがくるではないですか!」
侯爵とて一人の父親、どうやら親馬鹿だった様である。あまり思い出したくないが、既に故人となったがラインハルトの父親もアンネローゼ相手に親馬鹿ぶりを発揮していた様に思う。
帰宅したラインハルトがキルヒアイスに、この事を話すとキルヒアイスは表面上は苦笑するしかなかった。
(貴方も十分に弟馬鹿ですよ)
キルヒアイスもラインハルト同様にアンネローゼの信奉者であったがキルヒアイスの方が僅差で冷静であった。
(弟と言えば、オノ少尉は大丈夫だろうか?)
キルヒアイスに心配されたハンスとヘッダの同居生活は完全な擦れ違いの生活であった。平常時は判で押したように規則正しいハンスの生活に比べてヘッダの生活は不規則であった。
ハンスが就寝した頃にヘッダが帰宅してシャワーを浴びハンスが作り置きした食事を食べてハンスを自分のベッドに運び一緒に寝る。
朝はハンスもヘッダのベッドで起床することに慣れたようで自分とヘッダの朝食を作りヘッダを起こしてから軍務省に出勤する。
ヘッダの帰りが遅いので、どうしても擦れ違いの生活になってしまう。
ヘッダは口にしないが養子縁組の為に仕事時間を割いた煽りなのはハンスにはわかる。
その事がわかるが故にハンスはヘッダの食事に栄養面と味に細心の注意を払いヘームストラ家のコックを務める。
同盟のヤン・ウェンリーの被保護者のユリアン・ミンツと変わらない生活と言える。
ユリアン・ミンツと違うのはヘッダの過剰なスキンシップである。
朝、ベッドのヘッダを起こしに行って下から抱き付かれるのは当たり前。夜も書斎のベッドから寝室のベッドに移す時も行きがけの駄賃と言わんばかりにキスされるのも当たり前。
ハンスが閉口したのはシャワー中にヘッダが裸で乱入してくることである。
「普通に犯罪だろ!」
「ホホホ、本気で姉と弟が一緒にシャワーを浴びて罪になると思っているなら通報すれば」
「法律上の罪ではなく倫理上の罪だろ!」
「可愛い弟の裸を堪能する為なら倫理など生ゴミと一緒にポイよ」
「まさか、子役の子供にセクハラしてないだろうなあ?」
「まさか、貴方以外の子供に興味も無いし、犯罪者になる気も無いわ」
「こっちが理性を無くしたらどうする?」
「養子縁組を解消して婚姻届を出すだけよ。そっちの手続きは簡単よ」
中身は80歳近い老人が孫娘と言っても差し支えない娘に翻弄されている。
これからは帰宅したら最初にシャワーを浴びてヘッダの在宅時はシャワーを浴びないことに決めたハンスであった。
それでもハンスはヘッダとの生活を楽しんでいた。自分が作った料理を喜んで食べてくれることに。朝、起きれば自分以外の温もりがあることに常人なら何でも無い様なことがハンスには幸せに感じることができた。そして、この幸せを無くすことに恐怖を感じた。軍も辞めてヘッダに甘えて料理学校に進学する事も考えたが、この幸せを無くす人も大勢いることを考えると軍を辞める訳にはいかなかった。
無駄に流れる血を減らし、この幸せを失わない様にするのは一種の賭けである。
その賭けの勝率の低さを考えるとヘッダに申し訳なく思う。
逡巡して決断すれば決断した事を後悔するハンスであった。
(所詮は凡人なんだろうな)
自嘲するハンスは凡人らしい考えもあった。ヘッダが心配する様な事があれば道半ばでも軍を辞めようと思っていた。
僅かな時間でヘッダは逆行前の世界でハンスが手にすることがなかった大切な家族になっていた。